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青いバケツが教えてくれた創作する喜び

僕は昔から1人でいることが「寂しい」と感じたことがなかった。振り返ってみると幼少期から今に至るまで、大人数でいることよりも1人で行動することを好んでいた。僕は幼稚園の記憶はほとんどないんだけど、小学校一年生のことをよく覚えている。教室の後方には小さな本棚があって、かいけつゾロリやズッコケ三人組など小学校低学年でも読める本がずらりと並んでいた。

しかし僕の心を引き付けたのは算数の図鑑だった。タイトルは思い出せないが300ページほどある分厚い図鑑で、数字の成り立ちから未解決問題まで幅広く算数の知識が紹介されていた。もちろん小学校低学年向けに作られていたから誰でも読むことはできた。でも僕がいたのは関東郊外の公立小学校で、わざわざ休み時間にそんな本を読む同級生はいなかった。校庭でドッジボールをするのも好きだったけど、その図鑑と出会ってからは本を読むことの方が楽しくなった。友達の誘いも全部断って、教室に残ってひとり黙々と読みふけることが当時の僕の何よりの幸せだった。今でも図鑑にあった絵を鮮明に覚えている。特に一から無量大数までの数の位は、6歳で暗記して以降、今に至るまでしっかりと記憶に残っている。他にも国語の図鑑もあって、山吹色などいろんな色の名前もそれで覚えた。百人一首や文豪たちの名前もそれで学んだ。

運動も得意だったし、地元の少年野球のチームにも入っていたから、外で動き回るのは好きだった。でもそれ以上に1人で黙々と何かに取り組むことが好きだった。そして小学校三年生のとき、親にプレゼントしてもらったレゴの「青いバケツ」を機に、ものづくりへの情熱が一気に開花した。

青いバケツというのはレゴの基本的なパーツだけが入ったブロックのセットで、「これを作りなさい」というようなマニュアルは存在しない。そのかわりに組み合わせ次第でなんでも作ることができる。

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僕はこの青いバケツに熱中した。宿題を片付けるなり、友達との遊びもこれまた全部断って、青いバケツで無限に創作をした。車からロボット、ドラゴンに城まで。作りたいものをなんでも作った。残念ながら今手元に写真がないのだが、あのとき作った作品のクオリティはかなり高かった。

あまりにもレゴに熱中する僕をみた両親は、次々に青いバケツを買い増してくれた。誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントも青いバケツ。合計で5個も買ってもらった。ブロックの数が増えるにつれ作品の数も増え、1人で大きな街を作ったりしていた。自分の頭の中でストーリーを考え、登場人物や建物、マシンをデザインし、組み立てる。一連の作業が心の底から面白く、1人で黙々と作り続けていた。

一回だけ自分の家に友達を呼んで一緒にレゴを作ったことがある。僕はいつものように青いバケツをひっくり返して、「さあ車を作ろう」と友達を誘った。外でドロケイがしたかった友達は渋々ブロックを手に取り、車を作り始めた。どうやらレゴもそれなりに楽しかったらしく、30分ほど無言で作り続けていたのだが、完成した作品を見て僕は愕然とした、そこにできていたのは車とはとても呼べないようなブロックの塊で、美しさも何もなかった。僕にとっては車を左右対象に作るのは当たり前のことだったのに、彼が作った塊は歪で左右非対称。一体どうしたらこんなものが作れるのか理解できなかった。

それ以来僕は友達をレゴに誘うのはやめて、またいつも通り1人で黙々と作り続けた。中学校一年生まで続けていたから、かなり長い趣味だった。

思い返すと、この青いバケツに幼少期にハマった経験が、僕の「おひとりさま耐性」を強くしたのだと思う。言い換えれば、僕は青いバケツを通して「創作する喜び」を知ったのだ。何かを消費して得られる楽しみよりも、何かを創作して得られる喜びの方が大きい。それを幼い頃に実体験を通して学んだのだ。

今に至るまで、僕は1人でいることが全く苦にならない。海外旅行も基本1人だし、大学の授業も全部1人で受けていた。友達がいないわけではない。いつも誘ってくれる友達はいたけど、ほぼ断っていた。それは僕の場合、誰かと行動を共にするよりも、1人でいた方が幸福度が高いからだ。

高度に発達した資本主義社会において、お金を払えばあらゆることが体験できる。1万円払えば美味しい焼肉が食べられるし、10万円払えば高級ホテルにも泊まれる。100万円払ってキャバクラで豪遊もできるし、1000万円払えば誰もが憧れる高級車に乗れる。近い将来、月にだって行けるようになるだろう。お金を使えば、なんだってできる。これが消費で得られる喜びだ。

しかし消費には際限がない。いいものを買えば、食べれば、体験すれば、もっといいものが欲しくなる。お金はいくらあっても足りない。消費に消費を重ねても、また別の消費をしないと心は満たされない。お金さえあれば消費によってあらゆる喜びを享受できるが、その欲望には終わりがないのだ。

一方で創作で得られる喜びは、消費で得られる喜びとは種類がことなる。そもそも創作活動はお金を必要としない。例えばいま僕はこうして文章を書いてるわけだが、必要なのはPCと自分の体だけだ。PCは自分で買っているけど、紙に書くのでもなんでもいい。同様に絵を描くにしろ彫刻を彫るにしろ、必要なのは最低限の道具と材料だけで、あとは自分の体で創作する。

そして創作で得られる喜びは、絶対的な比較ができない。例えばコース料理を食べに行けば、値段で比較ができてしまう。高ければ高いほど美味しいわけではないが、3000円の居酒屋のコースと5万円の鉄板焼きのコースとではやはり得られる喜びが違うだろう。

一方で創作は絶対的な比較はできない。本人が楽しいのであれば、創作物の上手い下手は関係ない。僕は書いたものをこうしてネットで公開しているけど、これは必須ではない。書いて、満足して、喜んで、そっと自分の胸の中に閉まってベッドでぐっすり寝る、でもいいのだ。創作活動で得られる幸せは自分で決めることができる。消費で得られる喜びよりもずっと自由だ。

ビジネスも僕は創作活動だと思っている。僕は「人を幸せにしてその対価としてお金をもらう」のがビジネス=商売の根幹だと思っているのだけど、「人を幸せにする」方法には正解がない。各個人が思い思いの方法で創造性を発揮して人を幸せにするために商売を創っている。これは立派な創作活動だと僕は思う。

創作の喜びを知ると、1人でいることが苦ではなくなる。僕は1人でいるとき、いつも頭の中で何かを考えている。もちろん僕以外の人だって考えてると思うけど、僕の場合は「これ、なんか書けないかな」と、文章に落とし込むために無意識に思索にふける場合が多い。これは既に創作活動のスタートで、楽しい。だから1人で歩きながら、座りながら、ずっと考えていられる。当然お金もかからないし、面倒臭い人間関係に巻き込まれることもない。創作活動によって1人の時間はお金のかからない満足度の高い時間になるのだ。

実はいま、僕は東京を離れ、とある山の中に1週間ほどこもっている。この記事も滞在しているホテルで1人で書いている。この滞在中、寂しいと思ったことは一度もない。むしろモノに溢れた東京から一時的に離れたことで、心の余裕が生まれたと感じられるほどだ。美味しいご飯を食べて、綺麗な景色を見て、温泉に入って。その間ずっと、自分の頭と対話している。これがこの上なく楽しく、寂しいという感情は一切顔を出さない。もし消費で得られる喜びしか知らなかったら、二日も経たないうちに東京に戻り、また欲しくもないものを買い、行きたくもない飲み会に行ってお金と時間を無駄にしていたことだろう。

幼少期に出会った青いバケツのおかげで、創作の喜びを知ることができた。1人でいる時間は全く苦ではない。むしろ自由で、創造的で、安定した時間だ。消費の喜びしかまだ知らない方は、ぜひちょっとしたことでもいいので創作の喜びを体験してみてほしい。きっと人生の幸福度がかなり上がるはずだ。

それでは素敵な1日を。

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