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【公開記事】丁寧に暮らす(『歌壇』2024年3月号作品評)

『歌壇』2024年3月号掲載の作品評(批評対象は2024年1月号)を公開します。


◇新春巻頭作品二十首「あしたの霧」より

霧の中よりサッカーボール蹴り出され無言劇のやうに動く足みる

むかしとはつまりは私が生きた日日ときをり慰めにくるを憎めり

映像に見つつ許せず何もできず戦場を消して夜の庭に出づ

                    馬場あき子

庭の花や実に季節の移ろいを感じつつ、射殺された熊や、戦争の犠牲者に思いを巡らせる連作。
一首目、霧の立つグラウンドだろうか、ボールとそれを捌く足だけが見えている。
足は忙しく動くのに辺りはしんと静か。まるで夢の中の出来事のようなファンタジックな一首だ。
二首目、「むかし」は概念的な言葉だが、過去を振り返るとき、結局はごく個人的な経験にしか実体がない。
各々が「むかし」を時折思い返して慰められるのは自然なことだが、この主体はそれを良しとしない。憎みすらしている。
常に今を全力で、丁寧に生き、「あの頃は良かったなぁ」などとは絶対に思わないという覚悟が垣間見える。
三首目、多くの人の共感を呼ぶ歌だろう。遠く離れた戦場が、今やリアルタイムの映像で報道される時代。
だが今すぐ自分に何ができるわけでもない。
忸怩たる思いでテレビを消すと戦地も一瞬で消え、こちらの世界には日常が流れ出す。それすら後ろめたい。
結句、じっとしていられず庭に出るしかない主体の動作に真実味がある。

◇新春巻頭作品二十首「ドッギーズアイランド」より

エスカレーター地下ホームへとくだりゆく炎天を脱ぐ仕草を乗せて

とうもろこしスープを掬うスプーンの銀色を見る犬の目人の目

芝生を走るテオよ芝生を飛ぶテオよ真っ黒な長き影引きつれて

                    佐佐木幸綱

愛犬と共に楽しむことのできるリゾート施設訪問を中心とした連作。
コーギー、ボルゾイ、シェパードなど多様な犬種が賑やかに登場する。
一首目、下句の「炎天を脱ぐ仕草」は様々なイメージが湧くが、エスカレーターが陽を燦燦と浴びる場所から一段ずつ影へと入ってゆく、そのなめらかで永続的な動きと読んだ。
言葉に表現しづらい動きを巧みに詠んで、読者の想像を刺激する。
二首目、一つ前の歌「犬だらけの食堂のディナー」の続き。
とうもろこしスープは人間用と取った。そのスープを掬うスプーンを犬も人間も注視している。
犬の方は、自分にももらえるかもしれない、と大いに期待している様子。
スプーンの「銀色」を見ていることが、歌の詩情を強めている。
三首目、愛犬の躍動感を生き生きと表現した一首だ。
上句の繰り返しは、犬のテオが走ったり跳んだりを何度も繰り返し、喜びを爆発させている様を想像させる。
「飛ぶ」の漢字を使い、まるで鳥のように空まで飛翔してしまいそうだ。
愛犬を詠んでいるが、主体自身の高揚感もまた、くっきりと浮かび上がる。

◇新春企画・短歌の抽斗より

パンジーの黄の凍れるに触れゆけばわがゆび砕くその凍る葉も
          「夢の力」阿木津英

パレスチナ問題など社会情勢を扱う連作の一首目は、不穏な予言のような歌。
凍ったパンジーを葉ごと砕くわが指。すべてを破壊することのできる人間の指だ。

肩書に百姓の名刺作りたる彼の人も農に終止符を打つ
          「最終楽章」上田洋一

「彼の人も」の部分に、自分もまた様々なことの「終わり」を考えねばならぬ年齢だ、という気持ちが滲む。

境内に入りてまなこはすはれゆく天につながる九重塔ここのへのたふ 
     覚園寺  「額絵の天女 鎌倉」大熊俊夫

高くそびえる塔を下から順に見上げる、ゆっくりとした目の動きが「すはれゆく」に表現されている。

酔つても醒めても転生しないキッチンに散らかる葱と文化包丁
          「あけまして」荻原裕幸

転生したらどうなる?何になる?あるはずないけど少しだけ寄せる期待。
葱と包丁はただ片付けていないだけなのだが、事件現場の気配が漂う。

くらぐらと腕の筋肉もりあぐは夕焼けを負うバイオリニスト
          「Fの六席」河野小百合

弓を動かすたびに盛り上がる腕の筋肉。主体の目はそこにフォーカスしている。下句で一気に景が広がる。

すきだからひとりで過ごしている日々の暮れかた窓が透きとおりたり
          「ガムテープ」小谷奈央

初句をあえて言うことで、一人でいることに対する一抹の寂しさが露わになる。
その心の有り様を表す「窓」。透きとおった窓からは人々の暮らしが見える。
そこに微かな連帯意識を感じているのかもしれない。

秋の終はり冬の初めのどちらでもないけふ洗車場に立つ家族

人が私の私が人の一場面として或る朝車を磨く

          「洗車場にて」澤村斉美

一首目、まるでこの家族だけ世界にぽつんと存在しているかのようである。
上句に家族が漂流中のような独特の雰囲気があるからだろう。
二首目、家族であってもお互いが他者として存在し、同じシーンを共有する不可思議。
二首とも主体の立ち位置が少し他人寄りの印象を残すのが魅力的だ。

その方が楽でしょうと言い返す後輩の誰とでも上手くやる顎を触りつつ笑う

仕事に楽しさは要らないかもねと文字を打ちボタンを押して友達に送る

          「二枚の夜」竹中優子

意に沿わなくてもそうしておいた方が楽、と割り切れる後輩。そうはできない主体。後輩のスタンスの方がこの世は渡りやすい。
人の顎を触る、というかなり馴れ馴れしいことをしながら笑う主体は、笑いの中に苛立ちを潜ませている。
音数も情報量も破格の一首だが、するりと読める勢いのある歌。
二首目は「仕事が楽しくない」と言う友人のために送るメールか、それとも自分を納得させているのか。
働いていると上句のような気持ちになることは多々ある。
三、四句目の細かな描写、送信までに気が変わらないようにするにはそれなりの決意がいる。

辞職願に押印要らずメールにてエクセル送信さらさらゆくね
          「休んでいいよ」土屋千鶴子

最近は印鑑不要の書類が増えたが、辞職願もまた押印不要、メール送信で提出とは。
大きな決断の場面で、事がメールで済むことに複雑な思いの主体。

遠く住む編集子との遣り取りのなべて〈リモート〉に校了とせり
          「齢踏みしむ」樋口忠夫

こちらもまた事がオンラインで済む話。直接会ったり郵便を送り合ったりしないのは楽だが、どこかむなしい。

ふるさとの話あなたに訊かれいて甘い蜜柑を選るごと話す

透きとおる声で出されたなぞなぞを覚えてないけど答えはクジラ

          「差し色の季節」久永草太

一首目、故郷の話には家族や親戚、自分の幼少期などの要素が含まれ、そこには楽しくない記憶も当然混じっている。
蜜柑の比喩で、読者は選ばれなかった話題の酸っぱさ、苦さをも感じるだろう。
二首目、透きとおる声の主は「あなた」かもしれないし、連作に出てくる叔父や祖父の家にいる小さな子かもしれない。
どんな謎々を出されたかは覚えていないが、自分が「クジラ」と答えた記憶は鮮明だ。一瞬の記憶の眩しさが描かれている。

右の手を兄に左の手をわれに握られ遠くなりゆく母よ
          「長い散歩」松村正直

母の臨終の場面。息子たちに片方ずつ手を握られたまま、命の火が消える。
その瞬間は歌となり神聖な絵画のような永遠性を得た。
連作タイトルは作中の言葉から派生しており、人の一生そのものを指しているかのようだ。

◇作品七首より

庭に出て妻は今年も干し大根曲げて漬け時さぐりてゐたり
          「冬に入る」上田善朗
吊るして干した大根を手で曲げてみる、という経験者にしか描写できない動作が興味深い。まさに「探る」感覚なのだろう。
日々の暮らしを慈しむような歌。

法螺貝の音にくび上げ誇らかに野馬追のまおいがしらの馬はいなな
          「野馬追祭り」馬渕礼子

福島県相馬地方の伝統の祭を題材にした連作。「かしら」の役割を与えられた馬は誇らしげだ。
俯けていた首をぐっと持ち上げて嘶く艶やかな馬が目に浮かぶ。

◇短歌往来一月号【特集】晴れの歌より

双六は一本道でありけるを蜘蛛の巣状の人生の道
          「龍と瀧」米川千嘉子

正月の遊びである双六。サイコロを振って進む道に分岐点はない。
しかし実人生は選択の連続で、どれかを選びとって生きていくしかない。
過去にも未来にも多数の道が広がる様子を上から覗いているようなイメージ。

おとといはダイサギきょうはオナガガモ水面に降りて冬鳥となる
          「鳥の挨拶」藤島秀憲

越冬のために渡ってきた鳥たちが、着水することで冬鳥と認識されるという。
あくまで人間の側の感覚だが、まるで鳥の姿形まで変わってしまいそうなユニークな捉え方。
どんどん鳥が増えて賑わう風情を、リズミカルな上句が楽しく表現している。

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