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【一首評】第35回歌壇賞受賞作・次席・候補作品より

『歌壇』(本阿弥書店)にて2024年2月号~4月号までの3ヵ月間、作品評を担当させていただきました。
最終回はちょうど歌壇賞の発表号にあたり、受賞作や次席、候補作品からも何首か評を書かせていただいたのですが、
文字数の関係もあり、残念ながらすべての作品に触れることができませんでした。
そこで今回、一首ずつにはなりますが、掲載された連作すべての評を書いてみたいと思います。
(作品評で取り上げた連作については、誌面で挙げたのとは別の歌を取り上げています)


紙片にも陰のあること あこがれる、花の名前のついた苗字に
               早月くら「ハーフ・プリズム」

歌壇賞受賞作より。例えば格好いい姓名に憧れる、というのはとてもよくわかる。
この主体の場合は、非常に具体的に「花の名前のついた苗字」に憧れるのだという。きっと明るくて印象的な苗字であることだろう。
暗に自分の苗字が気に入っていないのだろう、とも思わせる。
そのほの暗い感じは、初句二句の発見「紙の陰」にもつながっている。
と、ここまで「あこがれる」は下句にかかると読んでいたが、「紙の陰」に憧れているとも読める。
一字あけや読点を使った、曖昧な一首のつながり方が複雑な読みを誘う。読みが分かれても喧嘩にはならない。
むしろより魅力的に見えてくる、そんな一首だ。

長くゆく冬の地下街 目の端のカルディがふいに森林めいて
               福山ろか「白昼」

次席作品より。なぜカルディが森林めくのかはわからない。
わからないが、ここはローソンでもマネケンでもなくカルディであろう、と思わせる。
洒落ていて、壁の上の方まで外国の商品が溢れて、そんなに騒がしくはない、カルディ。
お店の紙袋に描かれているイラストがお店の壁にも描かれていたような気もするので、そういうものが目の端に入ったのかもしれない。
冬の地下街は暖かい。そこを黙々と歩いていたら、現実味が薄れて森に迷い込んだような錯覚が起きたのかもしれない。

以下、候補作品より。

できるだけ遠くに退かされおしぼりはないものとして写真が残る
               坂中真魚「時計草」

スマホで写真を撮るときなどに、誰もがやったことのある動作だと思うが
こうして歌になると、その行為について改めて考えてしまう。
美味しいご飯を食べる前に写真に撮ってSNSなどにアップする。
「今このとき」という即時性を大切にしているのに、
写ってほしくないものを遠くに移動させるという行為はとても作為的だ。
「ないもの」とされるもの。ここではその代表が「おしぼり」なわけだが、その背後に様々な「ないことにしたいもの」の影がうごめく。

王冠を授かるごとくうつむきてふかぶかとヘルメットをかぶる
               松本志李「海のもの、山のもの」

オートバイで一人ツーリングしている連作の中の一首。
一つの動作を絵画のように捉えていて、読者にその様子を想像させる歌だ。
私自身はバイクを運転しないが、まるで我がことのように生き生きと感じることができる。
「王冠を授かる」とき、人はきっと厳かな気持ちになるだろう。
そんなふうな気持ちを、主体も感じているのかもしれない。
ただし、この王冠=ヘルメットは授かるのではない。自分でかぶるのだ。
そこに、主体の「自立していたい」「一人で挑戦したい」という思いを読み取ることができる。

暗黙の、言及してもいい数字、見ていないことにするべき数字
               乃上あつこ「confidential」

一首前に、会社で機密文書を受け取るが、自身は社外の人間だ、という内容の歌がある。
したがって、ここではその文書の中に出てくる数字のことを指していると取った。
正社員ではないので、その資料を正当に見ていい者ではないという自覚がある。
だから、自分の判断で「この数字は私が知っていてもいい(言及してもいい)数字」だとか「知らないことにすべき数字」だとかを察しなければならない。
主体はそのことに声高に抗議するわけでもなく、さりとて当たり前のこととして受け入れてもいない。複雑な思いがある。
そのことが、淡々とした詠いぶりで、逆に炙りだされてくるようだ。

それはまるで祈りのように終着の駅ですべてのドアが開いて
               からすまぁ「追憶」

神々しい光景を見たとき、美しい音楽を聴いたとき、
「それはまるで祈りのよう」だと感じることは、あると思う。
この主体は、終着駅のドアがすべて開いたときに、それを感じたと言う。
おそらく両サイド、全部のドアが一斉に開いたのだろう。
閉塞的な空間が一気に開放される。
誰も留められることなく、列車とプラットフォームを自由に行き来できる時間。
そして、誰も乗ってこなくても、ずっと開いたまま待っていてくれる、ドア。
歌にされてはじめて、確かに「祈りのよう」だと納得させられる情景である。

たそがれの真冬の底のぶらんこの椅子がいちばんつめたい椅子だ
               はづき「カストラート」

「の」で名詞がたくさんつながっていく。
その言葉の並び自体が、真冬の底へ降りていくような構造になっている。
上句はまるまる四句目の「椅子」にかかっていて、その椅子が「いちばんつめたい椅子だ」と断言する。
いちばん、はどの範囲のいちばんなのだろう。この町で、この世界で。
きっと、「椅子」と呼ばれるものすべてのなかで。
もちろん、ぶらんこの椅子にも限定されていない。
あらゆる椅子のなかで、「たそがれの真冬の底のぶらんこの」椅子が最も冷ややかなのだ。
誰もそれを確かめる術はない。それでも主体が言い切るからには、そうなのだ。
その冷たさがどれほどなのか、読者も知りたくなる。

地獄すらいけないだろうな御目閉ざすお守りとしてアロンアルファを
               荒川梢「火をよせる」

葬儀社で働く主体のリアルな職業詠。
この歌は読んでぎょっとして、記憶にとどまっている。
おそらく多くの方が、同じような気持ちになるのではないか。
亡くなった方の目を閉ざすときに、上手くいかなければ接着剤を使うこともある、ということなのだろう。
「お守りとして」とあるので、最終手段なのだろうと思うが、それでもやはり実態を知らない一読者としては驚くし、
自分の身内などに置き換えてみると、苦しいような気持ちになる。
それでも働く側としては、死者の目を閉ざさねばならず、それができないと先へ進めないだろうから、
こっそりおこなう場合があるということなのだろう。
上句は軽い調子で詠っているが、罪悪感があることはきちんと伝わってくる。
どんな仕事にも、やったことのある人にしかわからないことがたくさんある。
それを窺い知ることができるから、職業詠を読むのは興味深い。

グラスへと足さるる水の深部より泡は生まれて水面へ消ゆ
               今紺しだ「コペルニクス的な」

写実的で詩的な観察の歌。
グラスに足される水の動きを主体はじっと見ている。
「水の深部」という表現が独特で面白く、そこに泡が生まれて水面へ消える、と描くことで、
のぼってゆく泡の動きを読者もまた見つめているような気持ちになる。
狭いグラスの中のことであるのに、海のような深さ、青さを持つものを描写しているようにも思える。

モノクロームの紙束ゲラに溺れ古里のうみの碧さが思い出せない
               乙木なお「降り積もる文字」

職業としてゲラを扱っているのだろう。
モノクロの文字ばかりを読み続けることを、溺れると表現することで、紙束の圧倒的な量を感じることができる。
また、古里から遠く離れていることも、モノクロとブルーの対比で一層強く浮かび上がってくるようだ。
上句の切れ目が曖昧で複雑なリズムを生んでいることも、ユニーク。

喉頭鏡で気管のぞけば人間は果ての果てまで暗い桃色
               斎藤君「ナイトフィッシュ」

これもまさに、経験者でないと書けない領域の歌だと思う。
救急の夜間診療で働いている主体。
運ばれてきた患者の気管を喉頭鏡でのぞくと、人間の内側は「果ての果てまで暗い桃色」なのだ。
気管とは違うが、胃カメラなどで自分の身体の内側を目にしたことはある。
あの色を「暗い桃色」と言うところに凄味がある。
日々、その色を目にし、向き合っているからこそ出てくる言葉であろう。

消しゴムのようにすり減る視野だろう生で真昼の海を見に行く
               木村友「記念日」

目の病を抱える主体。
視野がどんどん狭まってくるのだろうか。
不安や焦りがあり、ともかく今見たいものをみようと思ったとき、
真昼の海を見なければ、と思ったのだろう。
「消しゴムのように」という表現は「消しゴムが消すように」なのだろうが、
省略されているからこそ、そこに詩的な飛躍が生まれるのだと思った。
「生で」もとても効いていて、この目で、という強い意志を感じ取ることができる。

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