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【公開記事】静かに問いかける(『歌壇』2024年2月号作品評)

『歌壇』2024年2月号掲載の作品評(批評対象は2023年12月号)を公開します。


◇巻頭作品三十首「細道を」より

秋場所は始まりたれば終はりたり奔流のごと時は過ぎゆく

少年にほのかに髭のえそめて 女自転車に乗る恥づかしさ

さまざまな人の来たりて弾いて去る「駅ピアノ」よし「空港ピアノ」も

背に負へるリュックを降ろし旅人はエルトン・ジョンを弾きはじめたり
          
                    小池光

秋の暮らしを詠いつつ、社会問題や自らの老い、亡き妻、昔観た映画などを静かに思索する。
一首目、十五日間の大相撲は、あっという間に千秋楽を迎える。
増水した川がごうごうと流れるように過ぎてゆく時間。
せつない体感だが、大相撲を持ち出すことでユーモアのある一首となっている。
二首目、主に男性の乗り物だった自転車が女性用にも改良・販売された。
そのような自転車を「女自転車」と呼んで当時は区別していたのだろう。
主体は思春期を迎え髭も生え、女性用自転車に乗るのがとても恥ずかしくなった。
そんな強い羞恥の感情も今となっては懐かしい。
三、四首目は連作最後の二首。公共の場に自由に演奏できるピアノが置かれている、そこでの一幕。
旅の途中で通りかかった人がエルトン・ジョンを華麗に弾きはじめ、やがて去ってゆく。鮮やかなシーンだ。
その自由さ、若々しさを作者は眩しく感じている。
全体に淡い孤独を滲ませる一連だが、その終わりに至り、ピアノが鳴り響く爽快感がある。

◇巻頭作品二十首「花の三つ四つ」より

わが影を連れて歩くに陽ざかりにしやしやり出たがる先へ先へと

ふたりには命をつなぐ手となりぬどこへ行かうか秋の来ぬれば
               
                    外塚喬

自らも術後一年でありながら、連れ合いの介護をする日々を詠う連作。
一首目、身体は思うように動かないが、影はまるで若い頃のように先へと進みたがる。
「しやしやり出たがる」に、主体の無意識的な「腹立ち」が感じられる。
二首目、お互いに高齢で身体もいつどうなるかわからないという不安を抱え、外出する時は転ばぬよう手をつなぐ。
温かな行為は、今や命綱のような意味合いを持ってしまった。
それでもようやく暑さが和らぎ、二人で出掛ける先を思案する主体。
その優しさが伝わる。

◇巻頭作品二十首「野牛肩」より

ブルカはアフガニスタンの衣
全身を青く包まれ小さなる窓の網から呼吸いきするひとよ

ただ肉の塊として抱かれける夜もありたり冬のはじめに
                 
                    前田康子

薬の副作用で顔や背中に脂肪がつく症状が出ている主体。
そこからルッキズムや性差別の問題に思いを巡らせ、読者へ静かに問題提起する。
一首目、肌を見せないよう全身を布で隠して、口元の網目状の穴で息をする女性たち。
女性だけがそんな不自由を強いられる理不尽を問う。
淡々と詠まれることが作者の憤りをむしろ鮮明に照らしだす。
二首目、自らの身体を「肉の塊」に喩えて強烈だ。
「夜もありたり」と言うことで、そうでなかった幾つもの夜を読者は想像する。
「わたし」という一人の個性ある人間として相手に受け入れてほしい。
悲しみ、怒り、無念などが渦巻く一首だ。

◇巻頭作品二十首「シノニム」より

国を守ることがすなわちみずからの命を守ることの同義語シノニム

救うと書いてやっぱり掬うに直したりレコンキスタのを思いつつ
      
                    大松達知

シノニムとは英語で同義語のこと。
直前の歌にガザ地区が出てくるのでパレスチナ問題と取ったが、紛争は各地で広がるばかりだ。
ただそこに生まれただけで「国を守らなければ死ぬ」という不条理を背負わねばならない。
その体感を真に理解するのは難しいが、作者は「シノニム」という不穏な響きの用語で、途方もない恐怖を表現した。
二首目、短歌での漢字表記のことか。
レコンキスタはイベリア半島の「国土回復運動」とかつて習ったが、スペイン語の意味としては「re=再び」「conquista=征服」。
国土回復という純粋な正義は感じられない言葉だ。
「救う」という言葉には強弱の二者がはっきりと感じられるので、「掬う」という漢字に変えたのだろう。
難解な言葉や言い回しを使うことなく、「大義」と「正義」について深く考えさせる一連である。

◇特集・伊勢志摩の旅より

五十鈴川の川辺にかがみ手を浸し流れにわれの火をもひたせり   
          「天の岩戸の湧き水」中川佐和子

伊勢神宮内宮参拝の前に五十鈴川で手を清め、同時に私の内なる火も浸した。
普段は隠し持っている激しい感情も、神様には見透かされてしまうだろうから。

邪悪さやら神々しさやら扱き混ぜて風の出で来る穴に向き合う           
          「神々の森」長澤ちづ

天の岩戸近くの風穴。そこから吹く風には神々しさも禍々しさも混ざり合っている。
それらは人智を超えたもので、元来人間が選別することなどできない。
ただただこちらに吹きつけてくるこの世ならざるもの。

◇作品十二首・作品七首より

「白い人がとても優しくしてくれた」夜の子どもは生き生きと告ぐ      
          「秘密と幽霊」石川美南

「白い人」は西洋の人だろうか、危うい表現だが子どもは無邪気に使っている。
親切にしてもらった嬉しさをただ母親に伝えたいのだ。
それでも「白い人」にどうしても含まれる差別的な響きを主体は聞き取ってしまう。

水は水を乗り越えむとする大滝の大きいぶきの水煙あびる          
          「一期の華」小川恵子

様々に滝を詠む一連。
「水は水を乗り越え」るというスローモーションのような景の捉え方が印象的。

花火師の作業しまひてゆく秋の森のほとりに扉を閉ざす          
          「夏から秋に」河田育子

問題提起も含まれる連作だが、最後の一首は幻想的。
「秋の」の上すべてが「秋」にかかる序詞めいている。
たった一人で作業している花火師の背中が浮かぶ。

退院のパーティー構想口にする母を前にしてたわむ言葉は           
          「母の右手」笹公人

半身が麻痺した母を救急車で病院へ連れてゆく。
緊迫したシーンを時系列で詠い、それが凄味となって迫る一連。
退院の日はパーティーがしたいと呑気に言う母を前に、大変な負担を強いられている主体の言葉は「たわむ」。
複雑な感情が湧き出す瞬間を「たわむ」に凝縮させている。
たわむのは言葉だけではない。そこには主体自身が異世界に入り込んでしまうほどの脅威がある。

会いたいときは会いたい人のかたわらに猫やポトフがありますように

ねむれ饕餮ねむれ世界が滅ぶまでねむれタルトを焼いたのだから
     
          「ねむれ饕餮」高山由樹子

異国にいるあなた。会いたいけれどすぐには会えない。
そんな相手の傍にせめて温かいものがあればと祈る。
人のために祈る行為の尊さを童話のような世界観で詠む。
二首目は連作タイトルでもある初句七音に陶酔感があり、「ねむれ」を繰り返す一首はまるで呪文のようだ。
饕餮とうてつは中国の神話に登場する怪物。

消去法なれど自分で進路決め秋のむすめはどこか優しい            
          「神無月」富田睦子

なりたいものが思いつかないけれど、どうにか進路を決定した娘。
不安な気持ちが落ち着いたのか、母親に対しても少し丸くなった。
「秋のむすめ」以外に「春のむすめ」など少なくとも四人はいるように聞こえて楽しい。

茹だるやうな今朝の暑さと言ひかけて被爆の実相に遠きわれあり      
          「揺れてゐる」稲垣紘一

原爆で焼け死んでしまった人のことがよぎり、主体は上句の言葉を言わなかった。
「遠き」と詠うが、そこへ思いを馳せる想像の力が、誰かを傷つけるかもしれない言葉を言わせなかったのだろう。

言い残しし言葉あるがに供花のなか蔦がこの世へ根を伸ばしたり        
          「湖の月」芹澤弘子

「この世へ」とすることで、まるで他の花や蔦の葉の部分はあの世へ落ち込んでいるような気配がある。

◇角川『短歌』十二月号より

咲きこぼれ花は此岸をゆきいそぐ絢爛たるは無惨なるかや

内省は遅れてきざす鶏の肉食ひをればやがて春雨

          「閻浮」渡邊新月

一首目、見事に咲き誇った花であるほど、散ってしまえば無惨な姿を晒す。
零れた花弁はまだこの現実世界にあり、自らの醜態を恥ずかしがるように「向こう岸」へと急ぐのだ。
「花」は「人」にも置き換え可能だろう。
二首目、鶏肉を食べることが降雨という自然現象とつながっているようなイメージ。
全体に水の気配を漂わせる静謐な一連だ。
第六十九回角川短歌賞受賞者の受賞後第一作三十首から。
「書くこと」に対する懐疑を吐露するような歌も混じる。
読むほどに理解が深まり独特の世界観に囚われる作品である。

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