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子どもから学ぶ。

現在、「A.Aの自室」ブログから引っ越し中です。

私の受け持つ子どもで実に優秀な子がいる。
その子は、周りをよく見ており、積極的な性格で自己主張ができる。クラスの中でも進みが早くて、とても授業にも熱心だ。質問も多い。とても張り合いのある子だと思っている。
一方、他の先生からの評価は、いまいちだ。むしろ、悪いと言える。
よくケンカをする。
周りを巻き込んで騒ぐ。
すぐに調子に乗る。
なのに、一人だと静かでいい子。
、、、という評価だ。

「そういう具合なのだけれど、どうしたらいいか?」
と私は相談を受けた。
その場で、周りをよく見ていていい子ですよ。と先に述べたようなことを伝えた。また、自己主張が強いという長所が裏目に出ているのではないか、とも伝えた。
その先生は大凡納得してくれたのだが、私の所感ではなく、解決策がほしいようだった。無茶振りである。
その子どもを仮にBくんとしよう。BくんもBくんなりに考えがあって動いてる訳であって、その意思決定に干渉する程Bくんの信を勝ち得ているわけではない。仮に勝ち得ていたとしても、余計なお世話はしたくない。一人の人として尊重してやりたい。その姿勢を伝えることが、どうも私の教育の芯のようなのだ。しかし、教育である。育てる教えは施すべきだ。だから、その子の触れられたくない一線でなければ、土足で上がる気だし、塩梅も譲歩も調停も注意を払うつもりがある。
その上で、その先生には、それだけ周りが見えているのだから、相手の気持ちにまで意識が行けばそういった悪目立ちは無くなるのではないか、とその先生の視点を慮った言葉選びでお伝えした。
――とそのような夕方のやり取りを思い出しながら、湯冷ましをしていると思いついた。

ああ、Bくんはそんな風に自然にはならないな、と。
望遠鏡である。Bくんという望遠鏡だ。惑星や衛星、流星群を望む。ズームインもズームアウトも自在だ。単眼鏡でさらに広範囲を探すこともできる。しかし、足場は動かせないのだ。
足場とは軸である。Bくんの軸は、自分にとってどうか?という一点である。性格もあるが、まだ8歳の子だ。当たり前というより、私には立派にさえ映る。守るべき自分があるのだ。
では、Bくんで”相手の気持ち”を望んでみよう。うん。見えっこない。それは自分にとってどうか?という着眼点からするとどうでもよいとは言わないが、自分の次に考慮するべきものとなる。だって、見えないからだ。自分にどう影響するのか判断できまい。相手の気持ちの推測はBくんはある程度できると思う。けれど、まだ8歳だ。経験が足りな過ぎるし、自分のことで精一杯でいいし、自分のことを精一杯に考えて大切に育んで欲しいとすら思う。となると、ケンカ上等なのではとすら思ってしまうのが私という者だがBくんが本来動かないその足場を動かさざるを得ない何かに出会った時、たぶん、泣いたり落ち着かなかったりもしくは声すら出ないような状況になった時に、自分本位でないものを観測できるようになると思う。観測したいと思ってくれると思う。
ならなきゃならないでも、たぶんBくんは生きていくだけの能力を身につけることが出来ると思う。なにせ、自分を守ることができるのだから。その時できないとしたら、それは自分を否定したくなる何かが起こったということで、きっと足場を動かすか否か決断を迫られることになる。はたまた、足場を動かすこともなく、推測で読み切ってしまう程の洞察を身につけることで解決するかもしれない。
とと、、、色々と可能性はあるのだけど、私は、そういう膨大で無遠慮で循環する縁に揉まれて変化していくであろうBくんが楽しみなのだ。
だから、私という先生の回答としては、子どもなんだからケンカぐらいしていいじゃない?ということ、でもいつかただのケンカだったつもりの何かで一生後悔するかもよ?と思いながら目の前で何もなければ見守ってBくんの思うように育ててやりたいと思ってる。
ただ、一流の教育者はきっと指針を示して、子どもの思ってもない望外の結果を示して、何が正しく間違っているのか教えてくれる人なのでは思う。私はそんなのになれないしなりたくない。だって、私はあくまで占い屋なのだから。人様に必要以上の口出しをすることは私が私に禁じている。流れ者はどこにだって行けるが、一つの所に留まらない。私は縁を回遊してきたし、これからもそうなのだと思う。そんな人間が受け持ったクラスの子どもたちのかけがえのない何かでいるべきではないのだ。そういうスタンスだから、今日の内の数時間を私に割いてくれた子どもたちに私の全部で応えてあげられる。でも、それは今だけだからなのだ。そういう記憶に残らない出会いになれたら私は嬉しい。


2021年11月8日 22:16 A.Aの自室にて公開

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