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ドリフと「国民的」「喜劇」について考える

「えっ、笹山さんがドリフを書くの?」
京都駅の新幹線改札内の本屋でこの本を見つけたとき、僕の頭に浮かんだ言葉だ。
著者の笹山敬輔さんは1979年生まれで、銭湯の風呂桶で有名な頭痛薬「ケロリン」を製造販売している富山の製薬会社の経営者であり近代演劇研究者である。その研究範囲は演劇のみならず、お笑いやアイドルから興行師にまで及び、何冊もの著作を出版している俊英である。世代的にはダウンタウンに一番強く影響されたはずだろうし、実際、ご本人もそう述べられていたと思う。
そして何より、「8時だョ!全員集合」は富山では放送されていなかったからリアルタイムで観てない筈なのに、何故ドリフなんだと思ったのが冒頭のセリフだ。
富山にTBS系のチューリップテレビが開局したのが、全員集合が終わって4年経った1989年なのだ。

1977年に大学入学のため上京して、1981年に就職で大阪に移った僕は、このテレビ局開局を全く知らなかったし、子供の頃から高校を卒業するまでは
「てなもんや三度笠」も「8時だョ!全員集合」も、石川県境にある母の実家に行ったときにたまに観る程度だった。先日も、日テレの小杉さんと話していて、「世代的なものもあるけど、僕らはドリフよりクレイジー・キャッツでしたよね?」「うん。シャボン玉ホリデーと東宝の映画の影響でクレイジーだよね」という話になった。
では、全員集合を観てなくて何を観ていたのかというと、吉本新喜劇や関テレの「爆笑寄席」を観ていたのだ。
吉本新喜劇は今でも続いているが、「爆笑寄席」は僕の小学校高学年から始まって高校生の時に終わった。西川きよし・横山やすし、コメディNO.1が中心キャストで月亭可朝、笑福亭仁鶴等の先輩格や間寛平などの新喜劇の若手人気者も多く出演していた。舞台セットも、脚本も演出もなかなかアヴァンギャルドで、僕の一番好きなコメディだった。VIDEOが関西テレビにも1本も残っていないのが残念だ。あの澤田隆治さんも探していらっしゃったが、とうとう見つからなかった。残念でならない。

話を戻そう。そんなドリフ世代には少し若い著者が、何故、いかりや長介と志村けんに拘ったのかといえば、この二人は「国民的」「喜劇」を作ろうとしたからだった。「国民的」ということは、日本人であれば老若男女誰でもが知ってて、誰もが好き(そして少数のアンチ)でなければいけない。
そもそもお笑いは、一般的にはかなり相対的なものと言われている。
年齢、性別、出身地、学歴等々、いろんな要素によって笑いの好みも変わるので、どんな人にでも、少なくとも日本にずっと住んでる人なら誰でも笑うという絶対的なネタがあるとは考え難い。

そんな限界に挑戦したのが、いかりや長介と志村けんだったということだろう。ミュージシャン出身の「いかりや」らしく、LIVEにこだわり、目の前のお客様を楽しませるのを第一義とし、結果としてテレビの向こう側の観客も楽しませるという手法で、国民的喜劇を追い求めた。そして、その「いかりや」に反発しながらも、弟子として志村けんもその手法を踏襲し、日本の国民的喜劇を作ろうとした。亡くなるまで十数年続けてきた志村魂が、その答えだったのだと思う。この舞台では、松竹新喜劇のリメイクも上演していた。
ミュージシャンであったがゆえに、ストイックに舞台を作り上げていったのだろう。
いかりやは、リハを何回もやって、その中で出てきたアドリブは拾ったが、本番中はリハで固めた内容を崩さず、本番でのアドリブは許さなかったそうだ。
リハは決め事を確認するだけで、本番の空気でアドリブをどんどん入れていった方が、ビビッドなお笑いが生まれるという吉本の手法とは真逆な作り方だ。

既述の通り、ドリフ経験が浅く、テレビのために作った吉本新喜劇や「爆笑寄席」が子供の頃から大好きで、吉本入社後は、明石家さんまのマネージャーとしてひょうきん族に関わって(植木屋の役でタケちゃんマンに出演経験あり)打倒全員集合の側にいた僕は、観る側から創る側に回ってしまったこともあり、その後の「加トちゃんケンちゃん」もあまり観ていない。

これをきっかけに、改めて全員集合やドリフ大爆笑も観てみようと思う。彼らの夢はどこにあったのか確かめるために。

それから、世界に通用する絶対的なお笑いはあるのかという問いに、松本人志は「あると思います」と答えました。20年以上前のことですが、これもこの先、見ていきたい、あるいは、機会があれば彼と探してみたいと思います。

吉本新喜劇は、テレビで放送するために劇場で上演された演劇です。これも吉本が起こした沢山のイノベーションの一つです。これに関しても、追々書いていきます。

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