見出し画像

映画「全身小説家」を観て

これは、フォローしている方のNoteの感想を読んで、観たいと思ったドキュメンタリー映画(少し古い)です。

内容は、井上光晴という作家の晩年に密着した映画なのですが、実は私はこの作家さんの本は、一冊も読んでいません(読んだかもしれませんが、覚えていません)。

あとは亡くなった瀬戸内寂聴と近しい人だったという認識ぐらいでしょうか。
しかし、何よりも「全身小説家」という魅力的な題名に惹かれました。

洋画、邦画に関わらず、小説家が主人公の映画はだいたい観て来たので、今回も期待を持って観ました。

題名から連想をすると、なんとなく、ストイックに全身全霊を込めて文学の世界を突き詰めている人物像を想像していたんですが、見事に裏切られました。

たぶん、私が小説を書いていなかったら、きっと違う感想を持ったのかもしれません。(あらすじ等はウィキペディア等を参照してください)。

ちなみに、この井上光晴という作家さんは、劇中の中で、作家の丸山健二さんが書かれた「まだ見ぬ書き手へ」の中にある、作家としてダメになることを、すべてやってしまっています。

お酒をガバガバと飲む。文学好きの取り巻き連中を作る。寄ってくる女性ファンを近くにはべらかせる。そして彼らを集めては、自分がいいたいこと(虚言も含む)を気持ちよく話して悦に入る。

小説だけではなく、彼らに話される自分の生い立ちも、武勇伝も嘘。作り話。そういう意味での、まさに全身小説家だったのです。

しかし、こうした描かれようでも、いち小説書きとしては、井上さん自身には深いシンパシーを感じました(自分も自覚なき嘘つきタイプなので)。

気になったのは、その描かれ方です。監督さんはかつて、「ゆきゆきて神軍」という有名な映画を撮った人です。小説家、井上光春の経歴詐称という真実をあぶりだすという意図はわかりますが、その描き方で井上光晴という作家に対する視線が、いじわるというか暴露趣味に満ちていて、そこにリスペクトを感じない点でした。

それは、いぜん「尾崎豊を探してという」ドキュメンタリー映画でも感じたことですが、

ドキュメンタリー映画というのは、取り上げる人物については、よほどの悪党でない限り、最低限の敬意に基づいたものであってほしいと常々思っています。

このドキュメンタリー映画では、ただ業なのか、職業病なのか、嘘をまことのようにしなくては生きられない小説家という人種を、人間としてまるでダメな奴とあぶり出したかったとしか思えませんでした。

私見ですが、小説家というのは商売でも、職業でもないと思っています(結果としてなることもありますが)。自分がつかみ取った真実を武器に、何とか過酷な人生を生き残ろうとする精神的悪あがき。
それは、生き方というよりもひとつの生きる態度だと思っています。そういう気持ちは、小説家だけではなくきっとドキュメンタリー映画作家にもあると思います。

夏目漱石の文学論にあるように、ある特定の人物を描くとき、それもセンシティブな内容であればあるほど、真実のほかに、善、美と荘(荘は夏目漱石オリジナル)が、表れていないと、ただの醜い「俗」に陥るだけだとは思います。

真実を晒すことは無条件に正しいというのは、今流行りの他人の私生活の暴露行為と変わりない気がするのは私だけでしょうか。

今回久しぶりに記事を書いたら、ちょっと辛辣になってしまいました、ごめんなさい。

ではまた


この記事が参加している募集

映画感想文

夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com