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児童文学の未来

長らく児童文学を書いてきたのですが、小説を書き始めた頃は、まさに純文学一本勝負といった感じでした。

しかし、なかなか芽が出ずに、ある人から「児童文学の方が向いている」と言われて、あっさり転向しました。今でも、純文学を書いてはいますが、メインはあくまで児童文学です。

ただし、ご存じのとおり、文学でも食えていかれないのに、児童文学はなおさら食えないカテゴリーだと言われています。つまりは、レッドオーシャンです。

というのも、児童文学は絵本と同じく、大人の本に比べて、定番が圧倒的に強い世界だからです。

誰かがこれをカップヌードルマーケットと同じだと評していましたが、まさにその通りだと思います。

いくら画期的でおいしいカップヌードルを新たに発売しても、一時は売れても、なかなか定番化しない。味でも量でも既製品を凌駕しても、決して追い越すことができない。つまり、それだけ、定番化してしまった世界なのです。子供のときに食べていたから、子供にも与える。迷ったときはやはり定番の味。その思考回路を覆すのが大変なようです。

たぶん、これが児童文学が食えないと言われる最大の理由だと思います。その代わり、一作品でも定番化、それも「世界の」がつくと、莫大な財産を得ることができます。たとえば、最近では「ハリーポッター」、古くで言えば、「星の王子様」や、「モモ」、「チョコレート工場の秘密」などなど。

つまり、逆を返せば、国内のレッドオーシャンを泳ぎ切り、ひとたび世界の海に出ることができたら、そこにはワンピースが待っている・・・。といった感じでしょうか。

若しくは、西野さんの「えんとつ街のプぺル」のように、しっかりした原典を踏み台にして、映画化や歌舞伎化など、多チャンネル化させるのも一つの道かもしれません。

ただ、それでも、ちゃんとした作品を作ること。それができないと、お話にならないでしょう。

私としては、児童文学はまだまだ大きな可能性を秘めていると思います。ジブリの映画のように、子供も楽しめるが、大人も大人として楽しめる作品を作れれば、食べていくという点で充分勝機があるような気がします。

小さい子から大人まで読める。それはつまり、読者数のパイが大きくなることですから。だとしたら、大人を取り込める深さ。これがキーワードだと思います。

それは、やはり出てくる登場人物の役割が大きいと思います。ちゃんとした大人が出てくる作品。それが、青虫の世界でも、機関車の世界でも、指輪をめぐる世界でも、顕著です。

子供の世界を描くには、大人の世界もしっかり掴んでおかなくてはならない。大人の世界、つまり、それは生きる悲しみや、苦しみ、老いること、死ぬことでしょう。

それらについて、考えること。自分なりの回答とまではいかなくても、見解がないとどうしてもお花畑の世界観で終わってしまいます。

しかし、大人の小説のように、ただ現実の大人、真実はこうだと、人間の本性はこんなにひどいといった事実を、そのままを取り入れても、たぶん子供は目を背けるだけです。 
 子供は可能性の生き物です。別に道徳書や教育図書のようなものを作るつもりはありませんが、可能性を肯定し、さらに広げること、言い換えれば生きていたくなるような物語を届けることが大切だと信じています。

その、絶妙なバランスの中で、世界まで届けられる作品。それは、まだまだ作れる可能性を充分秘めていると思います。

ではまた


夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com