【愛知県の皇室伝承】15.「御所名残」の地名起源譚:淳和天皇の第三皇子「東山親王」居住伝説(豊田市)
「御所名残」の地名起源譚:
淳和天皇の第三皇子「東山親王」居住伝説
愛知県豊田市の三河上郷駅(愛知環状鉄道)のすぐ東に、「御所名残」という地域がある。いうまでもないが「御所」とは身分の高い人のお住まいを意味する言葉である。
この地名は、かつて皇族が一帯にご住居をお構えになっていたという伝説に因んだものであるそうだ。周辺には、その皇族に関する伝承地がいくつか存在する。
御所山誓願寺
御所名残の中心部にある寺院である。伝承によれば、宮内庁の『皇統譜』には記載されていない「国長親王」なる人皇第五三代・淳和天皇の第三皇子が何らかの理由で流罪となり、この辺りにお住まいになっていたというが、往時を偲ばせるものは何もない。
稲荷山隣松寺
御所名残からおよそ五〇〇メートル東にある。寺伝によれば、淳和天皇の第三皇子が承和十(八四三)年に薨去した後に、従兄にあたらせられる人皇第五四代・仁明天皇がその菩提を弔うために造立せしめ給うたという。当寺の「隣松寺」という寺号は、親王の戒名である「隣松院殿一位相国大居士」に由来するそうだ。
御所名残に住まっていらっしゃったという淳和天皇の第三皇子の御名は、誓願寺の寺伝では「国長親王」だったが、こちらでは「東山親王国長公」と伝えられている。
昭和十八(一九四三)年に出版された書籍の中に、かつて境内に東山親王の「墳陵」が造営されたと受け取れる記述がある。
その「墳陵」に合致するかどうかはわからないが、境内の墓地には、当寺の「開基」と位置付けられた東山親王の御墓所がある。
背面に「昭和五十年九月吉日建立」と刻字されているから一見ごく新しい御墓のように思えるけれども、その台石は(わざとそのように作ったのかもしれないが)歪な形状をしており、色合いからしても昭和五十年よりも前のものという印象を覚えた。あるいは昔からの墓石を活かしつつ竿石と水鉢・花立を追加するようなリフォームをしたのかもしれない。
車塚
御所山誓願寺のすぐ北に車坂という地区があり、車塚古墳という古墳がある(豊田市指定史跡)。伝説によれば、東山親王の薨去後、生前にお使いになっていたお車を埋めた場所だという。
参考文献
・碧海郡教育会『参河国碧海郡誌』(大正五年)
・『岡崎市史 第六巻』(岡崎市、昭和三年)
・仏教専門学校『浄土宗辞典』(大東出版社、昭和十八年)
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