【補記】汚職事件に「私に徳が足りないのが悪い」と心を痛めた…「保守政治家」が肝に銘じるべき昭和天皇の逸話【プレジデント社『プレジデントオンライン』寄稿】
先般、プレジデント社『プレジデントオンライン』より拙文が新たに公開された。執筆にあたりお世話になった皆様には改めて篤くお礼申し上げる。
【出典付】汚職事件に「私に徳が足りないのが悪い」と心を痛めた…「保守政治家」が肝に銘じるべき昭和天皇の逸話
自民党・安倍派の「裏金作り」疑惑…風雲急を告げる永田町
よく知られる「権力は腐敗しやすく、絶対的権力は絶対的に腐敗する」という格言を残したのは、19世紀イギリスの歴史家であるアクトン卿だ。彼が言ったように、あまりにも長く権勢を振るいすぎたのであろうか――。
憲政史上最長の在職日数を誇った故安倍元首相などの出身派閥として、長く我が世の春を謳歌した自由民主党最大派閥・清和政策研究会(安倍派)の話だ。この派閥が政治資金パーティー収入の過少申告による組織的な「裏金作り」をしていたのではないかという疑惑が今、自民党そのものを揺るがしている。
政治ジャーナリストの田﨑史郎氏曰く、「規模としては、リクルート事件級の広がりを持つ事件になるのではないかと、政界でも思われています」。実際、政権運営の要である内閣官房長官が約19年ぶりという異例の更迭となるなど、非常に重大な政局と化している。
自民党といえばここ最近、皇室の存続を「喫緊の重要課題」と位置付ける岸田首相のもとで、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)問題への対処などを理由に停滞していた「安定的な皇位継承」の確保のための党内議論を再開させる機運が高まりつつあった。
11月17日には党総裁の直属機関として新設された「安定的な皇位継承の確保に関する懇談会」の初会合が開かれ、会長に就任した麻生副総裁が「事柄の性質も考えて、限られたメンバーで静謐な環境の中で、議論を深めていきたい」と述べたばかりだ。麻生氏としては、国会での議論も静かにやるのが望ましいと考えていることであろう。
そんな中、またしても「静謐な環境」での議論が望み薄になってきたのである。自民党はどの派閥も「裏金」疑惑への対応に追われ、また野党は与党攻撃に邁進し、国会はしばらく皇室の議論どころではなくなるだろう。そのような観点からも筆者はこの新たな政界の不祥事に対し、憤りを覚えずにはいられない。
今こそ顧みられるべき「元侍従」の回想録
ところで筆者には、いわゆる「政治とカネ」を巡る問題が取り沙汰されるたびに思い浮かべるものがある。昭和天皇の侍従だった木下道雄氏による回想録『宮中見聞録:忘れぬために』(新小説社、昭和43年)だ。
木下氏はこの回想録の「天皇とその御責任」という一節の中に、「昭和の初めの頃」に自身が体験した昭和天皇との「一生忘れることのできない」とあるやり取りについて記している。
刊行当時はきっと大勢の人が一読したに違いないが、半世紀以上の歳月が流れて、昭和も遠くなった今となっては読んだことがある人も少なくなってきているだろうから、この機会に紹介したい。
ある秋の夕暮れのことだ。内閣書記官が慌ただしく馳せつけてきて、侍従である木下氏に「一刻を争う至急の上奏書が入っているから、速やかに御裁可を得るように特に配慮していただきたい」と言って、上奏箱を手渡してきたという。
箱の中に入っていたのは「司法(現在の法務)大臣の起訴理由書」だった、と木下氏は語る。とある人物について、身分がある者ながら汚職事件に関わったから起訴したい、と司法大臣が言ってきたわけである(※大日本帝国憲法下では、高位の叙勲者を刑事事件で起訴するには天皇の裁可が必要だった)。
彼は「個人の名誉に関することであるから」として、汚職をした人物が誰なのか、いつの出来事なのかを明らかにしていないが、長田幹彦『人間叙情』(要書房、昭和28年)によると、これは昭和4(1929)年に発覚した「越鉄事件」のことであるという。
問題の人物について木下氏は「当時ひじょうに政治的権力のあった人」「政界の某巨頭」と別の書籍で表現している。越鉄事件の当事者といえは、佐竹三吾鉄道政務次官、小橋一太文部大臣などが挙げられるが、本当に越鉄事件の時の話であるかは定かではないので、深入りはしないでおこう。
「私の徳が足りないのが悪い」…昭和天皇は政治家の汚職にそう零された
さて、上奏書と起訴理由書を差し出された昭和天皇であるが、「汚職といえば、陛下の最も忌み嫌われる問題であるから、陛下はすぐ裁可の印をお捺しになるだろう」――そんな木下氏の予想は大きく外れた。「非常にご当惑の御態度をお示しになった」後、起訴理由書を繰り返しご覧になるばかりで、なかなか捺印しようとなさらなかったそうだ。
しばらく後、ようやく捺印された書類を木下氏がいただいて、待っている内閣書記官に一刻も早くそれを渡そうと思って退出しようとしたその時、昭和天皇は彼をお呼び止めになった。何か別の御用がおありなのだろうか、と思った木下氏に対して、昭和天皇はただ一言、沈痛なお声でこうおっしゃったという。
「わたしが悪いのだよ」
また、昭和天皇はその直後にお部屋の縁側にお出になって、悪いのは自分なのだという内容のお言葉を木下氏相手に繰り返されたらしい。
木下氏のこの回想から、昭和天皇が捺印をお躊躇いになったのは、自らの「不徳」のせいで政治家を汚職に走らせてしまったとお思いになったがゆえのことだと拝察できる。
最初の一言を聞いた時点で「われわれの仲間の犯したあやまちが、かほどまでに、陛下のお胸を痛めるのか」と申し訳ない気持ちになっていた木下氏は、もはや「あふれる涙を抑えて、ただ無言でお室を退出」する他なかったという。
木下氏は後年に至るまで「秋の非常によく晴れた夕暮、空を仰ぐと」しばしばこの出来事を思い出したそうだ。よほど印象深い光景だったのであろう、彼は同様の文章を『忘れ得ぬこと』(憲法の会、昭和40年)、『天皇七拾年:天皇陛下皇后陛下御訪欧記念』(国際情報社、昭和46年)などにも掲載している。
昭和天皇は最後の東アジア的帝王か
世の中が乱れるのは君主に「徳」が足りていないせいだという考え方は、説明するまでもなく古代中国で生まれたものだ。
中国史上における帝王たちは『論語』に「政を為すに徳を以てす」とあるように、その徳を以て人民を教化すべき存在だと考えられた。民が利己的に行動する社会は、聖天子がいた理想の古代から堕落した「小康」の世(『礼記』)とみなされたが、理論上この責任は帝王に帰せられよう。
彼らはまた、「天人相関説」の思想――政治が良くなければ災異という形で天に警告されるという考え方――に基づき、自然災害や疫病などに際して「罪己詔」という自らの過ちを反省する詔書を出した。そしてこの思想が日本に伝来して以来、多くの天皇が災異について自らの不徳のせいだと表明してきた。
先に示した昭和天皇のエピソードは、このような伝統的な徳治思想の流れを汲むものだといえよう。その意味においては、そこまで独自性がある逸話でもないわけである。
しかし、昔ながらの女官制度の改革に意欲的でいらっしゃったり、新宮殿の建設に際しては「天子南面」の伝統にこだわらない姿勢をお示しになったりした開明的な君主であられた昭和天皇が、一方ではこんな旧時代的な考え方がごく自然に出てくるような人物でもあられたということは注目に値する。
先述の木下氏は、マッカーサー連合国最高司令官との会見時の昭和天皇のお振る舞いについて重光葵元外相の手記から知った後、元侍従としての体感からも「皇祖皇宗に対し更に上天に対し、絶対の責任を自覚せらるるおん方」だと考えざるをえない――とも述べている。
現代では聞き慣れない言葉かもしれないが、前者の「皇祖皇宗」は皇室の始祖と歴代天皇のことだ。そして後者の「上天」とはこの場合、中国思想における天地万物を支配する最高神「天帝」のことに他ならない。
韓国皇帝、清国皇帝(一応「満州国皇帝」も併記しておこう)、ベトナム皇帝などが歴史の中に消えていった20世紀中に、日本の天皇は東アジア文化圏で唯一の君主となったが、木下氏の言葉を信じるならば、昭和天皇は単にこの地域において唯一残った君主というだけではなく、名実ともに最後まで残った東アジア的帝王であられたわけだ。
「保守政治家」は何よりもまず襟を正せ
さて、ここまで昭和天皇について述べたうえで気になるのが、昭和天皇の孫にあたられる今上陛下が、昨今の「政治とカネ」を巡る騒ぎを目の当たりにされてどうお感じになっているのかということである。
昭和天皇は「東宮御学問所」という特別な教育機関でお学びになったが、戦後生まれの今上陛下は際立って特別な帝王教育をお受けになったわけではない。それでも、漢籍を典拠に「徳仁」とご命名されたことの影響もおありなのだろうか、しばしば徳について触れられている。その代表例が花園天皇の著作『誡太子書』へのご言及だ。
これは文脈上、過去の天皇のように国民に寄り添いたいというお気持ちを表現なさったにすぎないけれども、もしかしたら陛下も昭和天皇をはじめとする歴代天皇と同様のお考えを実は持っていらっしゃるのかもしれない。
いや、否定する材料は特にないのだから、皇室の長い歴史と伝統の継承者という立場上そうお考えになっているとみなしておこう。そのほうがいわゆる「保守政治家」たちを戒めるためにはよいであろうから。
今は亡き安倍元首相がそうであったように、安倍派には皇位継承について強いこだわりを持つ者が多い。筆者は彼らと同じく男系男子による皇位継承を尊重する立場から「旧宮家」の皇籍復帰を支持しているが、今はただただ「皇室を大事に思う心があるのならば、まずは天皇陛下を悩まし奉ることのないように襟を正せ」と思うばかりである。
収録文献一覧
今回の記事で取り上げた昭和天皇のエピソードは、本文中で述べたように木下道雄『宮中見聞録:忘れぬために』(新小説社、昭和四十三年)を出典としているが、この逸話が記載されている書籍は他にもいくつかある。当然のことながらそれぞれ内容に多かれ少なかれ差異があるので、可能な範囲で収集したそれらを比較の用に供したいと思う。
『公民教育叢書 第一輯 青年と公民敎育』(文部省社会教育局、昭和十二年)
管見の限りでは最古の文献である。同書第八節「畏れ多き陛下の御逸事」で、「今上陛下のお側近くお仕へを致して居りました侍従を勤めて居られた方から直接に伺つた事」として同じ逸話が紹介されているが、その「侍従を勤めて居られた方」というのは間違いなく木下道雄氏のことであろう。
長田幹彦『人間叙情』(要書房、昭和二十八年)
昭和天皇が裁可をお渋りになった時についての長田氏の記述は、木下氏の回想と大きく食い違う。おそらく長田氏はうろ覚えの部分がかなりある状態でこの文章を書いたのだろうが、それでもしまいには昭和天皇がご自身の責任である旨を仰ったという一点だけは木下氏の回想と同じである。
小山いと子『皇后さま』(朱雀社、昭和三十四年)
作家による伝記であるから、関係者の回想録や日記などと比べれば史料的価値がぐんと下がるが、それでも著者自身が「調べた中から私自身が事実に近いと思うものをとつた」と述べてもいる。
木下道雄『忘れ得ぬこと』(憲法の会、昭和四十年)
木下氏が御座所へと赴いた時の昭和天皇について「折から陛下は何か御読書中であった」という記述がある。前掲書『宮中見聞録:忘れぬために』のほうでは、昭和天皇がその時何をなさっていたかについての記述はない。
矛盾する箇所は特に見当たらないが、同じ筆者でも本によってこのように細部が微妙に異なる。組み合わせることで当時の光景の解像度がより高まるだろう。
『天皇陛下 皇后陛下御訪欧記念 天皇七拾年史』(国際情報社、昭和四十六年)
分厚い記念書籍の中に、木下道雄氏が寄稿したごく短い文章である。
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