ポーランド共和国より顕彰され、市民に敬愛される墺皇室の末裔「ジヴィエツ・ハプスブルク家」
ポーランドの町「ジヴィエツ」に根付いた「ハプスブルク家」
ポーランド共和国の南中央にある町、ジヴィエツ。今でこそポーランドに属しているが、第一次世界大戦が終結するまではオーストリア=ハンガリー二重君主国を構成する「ガリツィア=ロドメリア王国」の西端部、すなわちハプスブルク君主国全体のほぼ北端に位置していた。
そんなこの町には、「ジヴィエツ新城(Nowy Zamek w Żywcu)」という古典主義建築の宮殿がある。ハプスブルク家の一門アルプレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェン(※ナポレオン戦争で活躍したカール大公の長男)が建てさせたもので、「ハプスブルク宮殿(Pałac Habsburgów)」とも呼ばれている。
欧州には竣工からそう時を置かずに所有者が変わった宮殿も少なくないが、この宮殿はただ単にハプスブルク家が建設させただけのものではない。アルプレヒト大公と血縁が近いハプスブルク家の分家――民族的にはドイツ系でありながら愛国的なポーランド人として生きることを選択した、俗に「ジヴィエツ・ハプスブルク家」と呼ばれる家系――の代々の領主館であった。
ジヴィエツ・ハプスブルク家の人々はポーランド語が堪能だったことなどから、第一次世界大戦中には中央同盟国側の傀儡国家として構想されたポーランド王国の国王候補に挙げられたが、敗戦による一九一八年のオーストリア=ハンガリー二重君主国の崩壊に伴い、一国の君主になるどころか一皇族としての特権すら喪失してしまった。
さて、その後の同家の歩みについてであるが、第二次世界大戦に際して当時の領主カロル・オルブラフト・ハプスブルク(※貴賤結婚をしたことから彼の家系は「アルテンブルク」姓になったはずだが、それはあくまで王朝内でしか通用しない理屈ということだろうか、ポーランド国内では依然として「ハプスブルク」姓で知られる[1])公は、ポーランド軍に資金援助したり宮殿を宿営として提供したりして、その結果「ドイツ人であることへの長期間にわたる裏切り行為」として広大な所領や一家が運営していたビール醸造所などの資産をナチス・ドイツ当局に収奪されてしまい、また収監されて片目を失明するほどの拷問すら受けた。
そしてソ連が戦後に樹立した共産主義政権(※一九五二年に「ポーランド人民共和国」と国名を変更)は、ハプスブルク家が民族的にドイツ系であることを理由に挙げて、それまでのポーランドへの献身にもかかわらず同家の資産返還要求に一切応じなかった。かくしてカロル・オルブラフト公は、妻アリシアの祖国であるスウェーデンへの亡命に追い込まれた。
宗家が治めるオーストリア=ハンガリー二重君主国が瓦解してからというもの、このように散々な目に遭い続けてきたジヴィエツ・ハプスブルク一家だが、二十世紀も終わり頃になると状況に大きな変化が現れ始めた。
中東欧の多くの国々が加盟する「中欧イニシアティヴ」の発足にあたってハプスブルク家が共通の記憶として参照されたように、共産主義政権が相次いで崩壊した後の中東欧では、広くハプスブルク朝時代が肯定的に扱われるようになったのである。――京都産業大学の岩﨑周一教授の言を借りれば、旧東側が自国のことを「欧州の一員と主張するためのレトリックとして」。
ポーランドの場合は、かつての愛国的な態度の数々も大いに評価されて、ジヴィエツ・ハプスブルク家の歴史が注目されるようになった。二〇〇一年に、四十年以上スイスで生活していたアルテンブルク公カロル・オルブラフトの長女マリア・クリスティナ公女が、町の当局に招待されて少女時代までを過ごしたハプスブルク宮殿の一隅で再び暮らすようになったことは、それを最も象徴する出来事だといえよう。
このアルテンブルク公女マリア・クリスティナ――父親同様にポーランドでは「マリア・クリスティナ・ハプスブルク」として知られる――についてさらに付け加えると、八十八歳の誕生日である二〇一一年十二月八日には共和国政府より「ポーランド復興勲章」のコマンドルスキ十字型章(=三等)を授与されているし、翌二〇一二年十月十一日の葬儀(※同月二日に薨去)に際しては大統領府長官によって大統領の追悼文が読み上げられている。
ジヴィエツ・ハプスブルク家の名誉回復がジヴィエツというごく限られた地域だけの話ではないことを示す具体例はこれだけでも十分だろうが、もう少しだけ続けよう。わけても二〇二三年は、ポーランド共和国において同家の再評価がどれほど進んでいるかが顕著に表れた年であった。
「ジヴィエツ・ハプスブルク家」顕彰を絶やさなかった二〇二三年のポーランド
二〇二三年五月、故マリア・クリスティナ公女の父親カロル・オルブラフト・ハプスブルクが「ポーランド復興勲章」大十字勲章(=一等)を、母親アリシアが同勲章のコマンドルスキ十字型章(=三等)をそれぞれ没後叙勲された。マリア・クリスティナ公女は自身が叙勲された時に「これをハプスブルク家そのものに対する栄誉として扱う」と感想を述べていたが、この没後叙勲により本当にジヴィエツ・ハプスブルク家そのものが顕彰されたといってよいだろう。
この叙勲式典はスペインの首都マドリードにあるスペイン駐箚ポーランド共和国大使館において催され、故マリア・クリスティナ公女の実妹レナータ公女――叙勲対象者の末娘で、目下ジヴィエツ・ハプスブルク家の「最後の生き残り」だとみなされている――が代理人として勲章を受け取った。
この共和国中央政府による没後叙勲は、ジヴィエツ町長アントニ・シュラゴールの働きかけが奏功したものだろう。国営報道機関『ポーランド通信社』によると、彼は二〇一七年に記者団に対して、最後の領主夫妻へのポーランド復興勲章の叙勲、そして夫妻の長男で第二次世界大戦中に「スタニスワフ・マチェク将軍が指揮する第一機甲師団の兵士だった」カロル・ステファン公の士官昇進を政府に申請したことを明かしている。
この没後叙勲が二〇二三年という年に実現したのは、まったくの偶然なのか、それとも意図的なものなのだろうか。マリア・クリスティナ公女の生誕百周年にあたる二〇二三年を「マリア・クリスティナ・ハプスブルクの年」として祝おう――。叙勲に先立つ同年一月、ジヴィエツ町議会がそんな決議を採択しているのである。
そして実際にジヴィエツでは、二〇二三年を通じてマリア・クリスティナ公女を中心とするさまざまなジヴィエツ・ハプスブルク家関連のイベントが催された。きりがなさそうなので列挙はしないが、一部を例示しよう。
記念の年の間、ポーランドでは『最後のハプスブルク家の女性(Ostatnia Habsburżanka)』、『アリシアとカロル、わが両親のハプスブルク(Alicja i Karol. Moi rodzice Habsburgowie)』という二本のドキュメンタリー映画が公開された。
公女のちょうど生誕百周年である十二月八日には、「ルクシュ・シカルスキのレンズを通して見たマリア・クリスティナ・ハプスブルク(Maria Krystyna Habsburg w obiektywie Lucjusza Cykarskiego)」と題する写真展が開幕した。
おわりに
ジヴィエツ町の「マリア・クリスティナ・ハプスブルクの年」との関連は明らかではないので余談としておくが、二〇二三年十一月二日には亡命先のスウェーデンに眠るカロル・オルブラフト公夫妻、そしてその長男カロル・ステファン公の墓から採った土を入れた骨壺が、ジヴィエツ・ハプスブルク家の代々の納骨堂に納められた。
この土というのは、埋葬から長い時を経て土と化した遺体だとはいわれていないので、本当にただ墓にあっただけの土かもしれない。土をこのように納骨堂に入れることになった経緯も、掘り下げてみると非常に興味深いものだったので、少しだけ触れておきたい。
ここまで何度か名前が出てきたジヴィエツのシュラゴール町長であるが、なんと父親がハプスブルク家の執事だったそうで、それゆえかハプスブルク家にかなり強い親近感を抱いているようだ。彼は遅くとも二〇一六年九月の時点ですでに、「偉大な愛国者」だった最後の領主カロル・オルブラフト公夫妻の遺骨をジヴィエツに持ち帰りたいと考えていた。
そんな町長からの提案を受けてジヴィエツ町議会は、二〇一八年の「ジヴィエツ町制七五〇周年」ならびに「ポーランド独立回復百周年」の記念として最後の領主夫妻の遺骨を迎えたい旨を決議した。この動きに遺族(※当時まだ存命だったカロル・ステファン公とレナータ公女)も賛成したのだが、スウェーデンの当局がこれを拒否したので裁判沙汰になり、係争が続いた。その間にスウェーデンに住んでいたカロル・ステファン公も薨去してしまい(※二〇一八年六月二十日、享年九十六)、両親と同じようにスウェーデン国内に葬られた。
スウェーデンがジヴィエツ・ハプスブルク家の三人の改葬を拒否した理由だが、ポーランドの地域情報ポータル『beskidzka24.pl』の報道によると、同国の法律では、故人が埋葬地についての意志表示をしていなかった場合、埋葬された場所が本人の望んだ場所だとみなされるそうだ。要するに「故人を改葬する権利は誰にもない。たとえ家族であろうともだ!」というのがスウェーデン側の主張である。
この法的な障害のせいで改葬はかなり望み薄だったので、ジヴィエツ側は妥協を余儀なくされ、遺骨の代わりにその墓にあった土を納骨堂に納めることにしたというわけだ。カロル・オルブラフト夫妻の移葬について、「軍の援助を得た国葬(pochówek państwowy)とされるべきだ」として大統領、首相、国防大臣に連絡を取ったことを構想段階で明かしていたシュラゴール町長にとっては、非常に残念な知らせだったはずだ。
最後の領主一家の遺骨が欲しい。遺骨そのものの持ち出しはどうあっても駄目だというのならば、せめて遺骨の近くの土だけでも持ち帰ってあげたい――。現代のジヴィエツは、旧領主のハプスブルク家に対してこれほどまでに強い愛着を抱いているのであるが、考えてみるとこの状況はほとんど奇跡のようなものではないだろうか。
ポーランドといえば、国力が衰退していた十八世紀後半に、ロマノフ家のロシア、ホーエンツォレルン家のプロイセン、そして他でもないハプスブルク家のオーストリアに領土を幾度も奪われ、最後にはおよそ百年間にわたり世界地図上から消滅させられてしまうという憂き目に遭ったことを忘れてはならない。
この「ポーランド分割」という苦い歴史があることから、ポーランド人の中にはハプスブルク家に対して強い反感を抱いている人も当然いるはずだ。また、一般的に共産主義政権下では、封建制は悪だと教えられる。それらの理由からもしかしたら危険があるかもしれない故郷ジヴィエツに、勇敢にもマリア・クリスティナ公女は戻って、高齢ながら式典への参加や施設訪問といった多くの公的活動をこなし、ついには地元住民からの敬愛を不動のものにしたのである。
さて、すでに書いたように、現時点では故マリア・クリスティナ公女の妹のレナータ公女――一九三一年生まれですでに九十歳を超えている――がジヴィエツ・ハプスブルク家の「唯一の生き残り」として扱われている。ということは、そう遠くない未来のことであろう彼女の薨去を以て、残念ながらジヴィエツ・ハプスブルク家は「御家断絶」になってしまうはずだ。
しかしながらジヴィエツには今、二〇〇六年に「マリー・クリスティニ・ハプスブルク第八幼稚園(Przedszkole nr 8 im. Marii Krystyny Habsburg)」と改名された公立の幼稚園や、二〇一〇年に設立されたオーケストラ「マリー・クリスティニ・ハプスブルク大公女管弦楽団(Orkiestra im. Arcyksiężnej Marii Krystyny Habsburg)」など、亡き公女にちなんだ名称の団体がいくつか存在する。ポーランド人として生きたジヴィエツ・ハプスブルク家の歩みを、ジヴィエツの人々はもちろん、きっと全ポーランドの人々がいつまでも回顧し続けることだろう。
【参考文献】
●ティモシー・スナイダー著、池田年穂訳『赤い大公:ハプスブルク家と東欧の20世紀』(慶應義塾大学出版会、二〇一四年)
●岩﨑周一『ハプスブルク帝国』(講談社現代新書、二〇一七年)
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