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インカ皇帝の末裔:擁立運動の今昔

File:Peru Machu Picchu Sunrise.jpg©Allard Schmidt(CC BY-SA 3.0)を改変して作成

はじめに

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マチュ・ピチュ
©Diego Delso(CC BY-SA 4.0

 かつて南米大陸の西部に繁栄したインカ帝国。「空中都市」などの雅称があり、世界文化遺産にも登録されているマチュ・ピチュで名高い。

 同帝国は、天然痘の大流行により人口が著しく減少し、さらに内戦により国力が消耗していたところを、やってきたスペイン人に征服されてその歴史に幕を閉じた。

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最後の皇帝トゥパク・アマルの処刑

 最後の皇帝トゥパク・アマルが処刑されたのは、1572年の出来事である。しかし、これを以て皇統が断絶してしまったわけではない。その血脈は後世に伝えられており、自称皇帝になったり、君主候補として挙げられたりと、折に触れて南米大陸の人々に注目されてきた。

 勃興から滅亡に至るまでのインカ帝国史については、すでに数多の書籍が世間に溢れている。よって、この記事では帝国滅亡の経緯については詳しく触れず、いきなり帝国滅亡以降の皇裔(=皇胤)について見ていくことにする。

コンドルカンキの蜂起

 1572年のトゥパク・アマル処刑から約二百年後の1780年のことである。

 トゥパク・アマルの娘の5代目の子孫だというホセ・ガブリエル・コンドルカンキ(José Gabriel Condorcanqui)が「トゥパク・アマル2世」を自称し、現ペルーで蜂起した。

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「皇帝トゥパク・アマル2世」こと
ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ

 佐藤勘治「旧スペイン領非スペイン系住民によるスペイン語姓名の受容」(獨協大学国際教養学部言語文化学科『マテシス・ウニウェルサリス』、2015年)によると、インカ貴族層の威光は維持されており、スペイン人征服者たちも婚姻などを通してその威光を利用していたという。皇帝の末裔ともなれば、かなり大きな求心力を発揮したであろうことは想像に難くない。

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