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【書録切書】 五月五日条伊 (『意味の深みへ』ほか)

※直近で読んだ本の中で、心に残った箇所をスクラップしてまとめました。
  気になる著述があれば、ぜひ本をお手に取ってみてください。


■ 一覧 ■

井筒俊彦『意味の深みへ 東洋哲学の水位』(岩波書店、2019年)
佐藤弘夫『日本人と神』(講談社、2021年)
鎌田東二『現代神道論 霊性と生態智の探究』(春秋社、2011年)
斎藤英喜  「異貌の <日本宗教史>をもとめて 折口信夫・陰陽道・いざなぎ流」(『現代思想 総特集 陰陽道・修験道を考える』青土社、2021年
安藤礼二「聖不動論」(同)
ファビオ・ランベッリ 「山の彼方、大海へ 海の日本宗教史への航路」 (同)



■ 井筒俊彦 『意味の深みへ  東洋哲学の水位』 ■


 井筒俊彦の哲学は「東洋思想」として仏教道教スーフィズム(イスラームの神秘思想)・カバラ(ユダヤ教の神秘思想)など多岐にわたる分野をまとめて取り扱っており、とにかく壮大である。本書第1章の「人間存在の現代的状況と東洋哲学」にはエッセンスがまとまっている上、講演形式で書かれているのでオススメしたい。彼の文章の中では比較的読みやすいと思う。

こういう自然的態度を、現象学的社会学者アルフレト・シュッツは、存在世界についての「日常的エポケー」と呼んでおりますが、東洋哲学はまさにこの自然的態度特有の判断停止(エポケー)そのものを中止することから始まる、と言っていいかと思います。簡単に言えば、それは、自分自身の内面の深層をどこまでも追求することによって、存在の深層を底の底まで究明しようとすることでありまして、そこに東洋哲学の大きな特徴があります(38-39頁)。


「無」と「有」のあいだ、つまり無分節と有分節とのあいだ、を往還する多層多重的意識構造の全部を、観想的に一挙に自覚した主体性が、すなわち東洋哲学の考える「自己」である(51頁)


異文化間の対話の可能・不可能を考える前にーーそして、この問題については、可能・不可能を不決定のままにしておくことこそ正しい態度なのだ(59頁)

>「正解を出さないのが正解」、ということはたしかによくあると思う。


人間は存在の本源的カオスのなかに生きてはいない。生きられないのだ。人間として生存することができるためには、カオスが、認識的、存在的、行動的秩序に組み上げられていなければならない。そのような秩序づけのメカニズムが「文化」と呼ばれるものである(64頁)。


日本語の「花」を、砂漠的生活環境に負うアラビア語の zahrah に翻訳したとたんに、「花」に纏綿する日本的自然感情の匂いは、跡かたもなく消えてしまうのだ。これでは、異文化間の対話など成り立ちようもない、マクロ的にはともかく、ミクロ的には。しかも、異文化間の対話において一番大切なのは、表層的・マクロ的な概念の流通ではなくて、深層的・ミクロ的相互理解なのではなかろうか(72頁)。


コトバが文化の源であると言う時、我々は、「コトバ」を、このような意味で、社会制度的「言語」表層からアラヤ識的「意味可能体」の深層に及ぶ有機的全体構造において理解しなければならない。辞書に登録された語の表層的存在文節のシステムが、それだけで直ちに「文化」を構成する、とは考えないのである(95頁)。

cf. )ビアス『悪魔の字典』辞書 (dictionary n. ) ある一つの言語の自由な成長を妨げ、その言語を弾力のない固定したものにしようとて案出された、悪意にみちた文筆関係の仕組み。とはいうものの、本辞典に限り、きわめて有用な製作物である。


※「1 人間存在の現代的状況と東洋哲学」と「2 文化と言語アラヤ識」より。



■ 佐藤弘夫 『日本人と神』 ■


 佐藤氏の著作『アマテラスの変貌 中世神仏交渉史の視座』(法蔵館、2000年/文庫2020年)には、卒論を書く際に大変お世話になった。日本の神仏を「神/仏」という近代的な枠組みから離れて捉え直そうとする視点は非常に重要だろう。

わたしは、この列島の宗教世界を「神」の領域と「仏」領域に二分して、その中央に太い区分線を引き、両者の関係性において日本の宗教史を語ろうとする方法そのものが、近代的思考のバイアスのかかったものと考えている(16頁)。


社会構造の変動に伴うコスモロジーの変容は日本列島固有のものではなく、さまざまなヴァリエーションをもちながらも、世界の多くの地域に共通してみられる現象であるとわたしは考えている。一回限りの偶然の出来事や外来思想・文化の影響が、カミの変貌を生み出すのではない。社会の転換と連動して、精神世界の奥底で深く静かに進行する地殻変動が、神々の変身という事件を必然のものとして招き寄せるのである(236頁)。


はじめに基本ソフトとしてのコスモロジーの変容があった。それが応用ソフトとしての個別思想の受容と展開のあり方を規定するのである(236-237頁)。

>「はじめにコスモロジーありき」、これが佐藤氏の学問的態度と言えようか。


カミによって立ち上げられた公共の空間は、羊水のように集団に帰属する人々を穏やかに包み込み、人間同士が直にぶつかりあうことを防ぐ緩衝材の役割を果たしていたのである(241頁)。


現代社会におけるゆるキャラは、小さなカミを創生しようとする試みであるとわたしは考えている。この社会からカミを締め出した現代人は、みずからを取り巻く無機質な光景におののいて、その隙間を埋める新たなカミを求めた。その先に生まれてきたものが、無数のキャラクターたちだった。群生する大量のゆるキャラは、精神の負荷に堪えかねている現代人の悲鳴なのである(254頁)。

>普段何気なく見ているゆるキャラにはそんな深い事情があったというのか...


※序章・終章より。



■ 鎌田東二 『現代神道論 霊性と生態智の探究』 ■


 「神道ソングライター」。書店でなんか気になったので買ってみた。

神道の生死観を考える時、そこでの根源語は「むすび」と「ひらき」である。「むすび」とは、いのちを生成するはたらき、対して、「ひらき」とは、開放するという意味ばかりではなく、その反対に、解散するとか消滅するとか無くなるという含意を持っている。例えば「おひらきにする」と言ったら、おしまいにする、解散するという意味合いである。とすれば、無くなるということは単なる消滅ではなく、もう一つの世界へ開いていくという意味合いも持っているということになるが、この生死観を古くからの大和言葉を使って言えば「むすびとひらき」であろう(18頁)。

「有から無」(ひらき)の中に「無から有」を見るという観点は先の井筒哲学にも通じる。
>「ひら」くというと、「黄泉比良坂(ひらサカ)」・「金比羅(コンぴら)」・「枚方(ひらカタ)」とか?


古代の時代精神と特徴とを「歌うこと」であるとすれば、中世は「信心すること」、近世は「学問・修養すること」、近現代は「科学すること」であると特徴づけることができる(31頁)。


まず第一に「神は在るモノ/仏は成る者」。(中略)第二に、「神は来るモノ/仏は往く者」。(中略)第三に、「神は立つモノ/仏は座る者」(44頁)。

>「」は「」ではなく「モノ」だという。
>そういえば、浄土思想(「他力」とか)や天台本覚思想(「常行三昧」など)はどうなるんだろう。これとかって、むしろ「神」の特徴に近いような気もする。


序章で少し述べたように、わたしはこれまで繰り返し「現代大中世論」という持論を展開してきた。それをここで「スパイラル史観」と呼んでおく。/この「スパイラル史観」とは、歴史はけっして直線的に発展ないし変化していくのではなく、螺旋構造的に前代および前々代の課題を隔世遺伝的に延引させ引き継ぎながら、拡大再生産していくという史観である。/その「スパイラル」は、日本の歴史において、古代と近代、中世と現代が対応する(61頁)。

>時間という円環の中で、エントロピーは増大してゆくのだ。


※第一章・第二章より。



■ 斎藤英喜  「異貌の <日本宗教史>をもとめて 折口信夫・陰陽道・いざなぎ流」 ■

■ 安藤礼二 「聖不動論」 ■

■ ファビオ・ランベッリ 「山の彼方、大海へ 海の日本宗教史への航路」 ■


※以降は次へ>>>「【書録切書】 五月五日条ロ


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