Enigmatika

フランス文学翻訳。埋もれた怪奇小説や探偵小説を翻訳紹介しています。 モーリス・ルヴェル…

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フランス文学翻訳。埋もれた怪奇小説や探偵小説を翻訳紹介しています。 モーリス・ルヴェル『地獄の門』(白水Uブックス) https://www.hakusuisha.co.jp/smp/book/b602633.html

最近の記事

バベルの塔

BABEL 1910.3.28 初出 モーリス・ルヴェル 中川潤 訳  三月一日の朝七時頃、操舵手が横手に陸地を指し示した。霧が濃いせいでその陸地は見えず、われわれは帆を揚げて直進していくしかなかった。しかしながら、その陸地はよく知られていたのだ。われわれは数年来、おもに捕鯨船に物資を補給するためにこの〈南〉海域を航行しているのだから。「陸地」と呼んでいるが、要するに小島の連なりのうちで最初に見える、最も小さい島のことなのである。そこは季節を通じて植物が生えることのない

    • 視線

      LE REGARD 1906.5.4 初出 モーリス・ルヴェル 中川潤 訳  薪の火は消えかかっていた。低すぎるランプの発するぼんやりした光が、大きめの食器棚とどっしりした椅子のいくつかを照らしていた。カーテンは重々しい襞をつくって艶やかな床まで垂れ下がっていた。置き時計が単調な振り子の行き来で時を刻んでおり――つまりは部屋全体が何だかわからない、陰気で人を寄せつけない雰囲気に満ち、部屋に入るとたちまちわたしは背筋が寒くなった。  わが友が前に進み出てきて手を差し出した。

      • 伴侶

        LA COMPAGNE 1912.8.29初出 モーリス・ルヴェル 中川潤 訳  かつてはあんなに楽しげだったこの家が、朝の太陽にもかかわらず、わたしには悲しげに見えた。子供の頃、好んで遊んだ庭には、きれいに均された小道はもうなかった、歩くごとに足跡がついてしまうほどきれいだったあの小道は。芝生にももう、ビロードのような美しい色調は見られなかったし、ヘリオトロープの茂みから、ヴァニラのような香りが漂ってくることもなかった。蔓をなす薔薇の木では、枯れた花と葉が、開いたばかり

        • 足枷(あしかせ)

          LE BOULET 1902.10.15初出 モーリス・ルヴェル 中川潤 訳  一月十五日の午前十時に、ジャルディ氏は亡くなった。夫の目を閉じてやると、未亡人となった妻は愛人宛てに短い電報を打った、 《自由になったわ。来てちょうだい》  彼女はさっそく、家政婦の助けを借りて死んだ夫の体を清め、衣装を着せ、レース模様のシーツを掛け直し、ベッドの横に祝別された柘植の枝を置き、カーテンを引き、蠟燭を点け、自らは黒服を羽織ると、故人の肘掛け椅子に座った。  右のような準備作