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視線

LE REGARD
1906.5.4 初出

モーリス・ルヴェル 中川潤 訳

 薪の火は消えかかっていた。低すぎるランプの発するぼんやりした光が、大きめの食器棚とどっしりした椅子のいくつかを照らしていた。カーテンは重々しい襞をつくって艶やかな床まで垂れ下がっていた。置き時計が単調な振り子の行き来で時を刻んでおり――つまりは部屋全体が何だかわからない、陰気で人を寄せつけない雰囲気に満ち、部屋に入るとたちまちわたしは背筋が寒くなった。
 わが友が前に進み出てきて手を差し出した。
「会いに来てくれて嬉しいよ、とても嬉しい……」
 テーブルの周囲を照らすランプの光のもとだと、友がいかに老いているのかがわかった。いや、友と認めるのが困難なほど変わってしまっていた。友は暖炉の方角に手を伸ばすと、つぶやくように言った。
「友人のジャンヴィル……妻だ……」
 非常に白っぽい、ほっそりした人影が認められた。軽く身を屈めると、霞のかかったような、喪の夢の中にいるのを乱された人が発するような、苦しげで物憂げな声が言った。
「よくいらしてくださいました、ムッシュー」
 わが友はわたしに椅子を指し示した。白い人影は不動の姿勢に戻り、すると静けさが、暗い思考が滑り込みがちな大いなる静けさが、われわれにのしかかってきた……
 友との再会がこのようなものになるとは予想していなかったので、わたしは何を言っていいのかわからなかった。このふたりの人物は、数カ月前に結婚したのだ。晴れて結婚できるようになるまで、何年も愛し合っていたはずなのに、夫妻との再会がこんなようなものになるとは!
 このふたりの間で醸し出される異様な雰囲気からわたしが感じたのは、つかの間の不機嫌とか、絆の深い夫婦の間に時たま起こる諍いの名残とかいうものではなかった――そんなものでは決してなかった。
 友のほうから、この静けさを破った。引きずるような口調で、言葉を探しながら彼は話したが、口から出てくる言葉とは裏腹なことを考えているように思えた。
「きみは満足しているのかね?……仕事のほうは上手くいっているのか?……」
 わたしは答えた。
「ああ、すこぶる上手くいっているよ……で、きみは? 患者がひきもきらないってわけか?」
 それから少し声を低めて尋ねてみた。
「きみは幸せなのかね?……」
 友は頷いて言った。
「ああ……」
 それから肘掛けの上で両手をいらいらと動かしはじめ、鼻で笑うような口調で言葉を継いだ。
「ああ、とても幸せだよ……とても!……」
 妻が軽く咳払いして立ち上がった。
「申し訳ありません、ムッシュー、今晩はちょっと疲れているので……わたしはこれで失礼いたします……どうぞごゆるりと……」
 妻は食堂を横切りながら一瞬夫のほうを向くと、顔を伏せたまま退出した。
 扉覆いが垂れると、友は苦渋の表情を浮かべながら部屋を行ったり来たりしはじめた。扉のところまで行って、ちゃんと閉まっているのを確かめ、また数歩行き来してからわたしの前で急に立ち止まると、こちらの肩に手を置いた。
「さっきぼくは幸せだと言ったがね! あれは噓だったのだよ。ぼくはこの上なく不幸な男なんだ。この上なく不幸な、ね。ぼくの人生は終わりのない責め苦なのであり、四六時中針の筵にいるようなものなのだ」
 わたしは驚き、黙って友を見つめた。友はさらに続けた。
「ぼくが理性を失ったと思っているんだろう?……まだそこまでは行っていない。だけどそうなるのも遠くないかも……そもそも、不吉な何かがこの家を支配しているとは思えないかね?……」
「きみは奥さんともども、何か心配事を抱えているように思えたのは確かだが……重大に考えすぎているんじゃないのかね……」
「いや……考えすぎどころか……これは本当の話なんだ!……恐怖が壁のいたるところに引っかかっていて……そいつが絨毯の上にまで蔓延っているんだ……
 妻との間で、犯罪を共有しているのだ……わかるだろう……犯罪だよ!……
 きみはぼくのかつての生活を知りすぎているから、きみには本当のことを隠すわけにはいかないな。今、ぼくの妻である女は、長い間ぼくの愛人だった。ぼくが彼女をどれほど愛していたか、きみは知っている……いや、むしろ、きみは知らないんだ……誰も知りはしないのだ……ぼくは彼女を熱愛していた、崇めるかのように……狂おしいほどに……彼女がぼくの生活に入ってきた日から、全てがぼくにとって存在することをやめてしまったのだ。その時から彼女は、ぼくの必要欠くべからざる存在となり、ぼくの生きる理由となり、ぼくの悪徳にもなった。ぼくがこうして完全に心を奪われてしまったのは、ぼくの意志がこんなふうに薄弱になってしまったのは、長い期間を要したことではなかったのだよ。彼女に会った瞬間から、ぼくは彼女のものになってしまった。彼女が身を任せてくるや、彼女でないものは全て消えてしまい、ぼくはもう、ひとつの考えしか抱けなくなった、彼女を絶対人に渡さず自分ひとりのものにするのだ、という考えしか。
 まさにこういうことなんだよ! 法が決めたことだけを、人々の先入観によって規定されたことだけを行う生活に堕してしまうや、誰しも花崗岩の塊を叩き割ってしまいたい衝動にかられるものなのさ。
 ぼくは彼女と一緒に逃げようと思った、醜聞を引き起こしたって構うものかと思った。だけどふたりとも財産を持っているわけではない。生活していくにはぼくの仕事しかない。まさか外国に高飛びするわけにもいかないだろう? どんな手段があるかね?……かといってこのままパリにとどまり続けるのは論外だ……ではどうすりゃいい?……
 そこでぼくは、道徳心とか潔癖さなんかはかなぐり捨ててしまおうと決めたのだ。彼女ともっと頻繁に会うために、できるだけ長い時間彼女と一緒にいるために、ぼくは夫に紹介してもらうことにした。こうして、夫婦の食卓に親しく招かれるようになったわけだ。
 つまりぼくは、人知れずほくそ笑みながら、平然と主人の好意につけ込む卑劣な闖入者に成り下がった。ぼくは二心ある嫌な人間となったが、そんな人間に限って親切な言葉をかけてもらえたりする――
『ちょっと出かけなけりゃならん。家内と一緒にいてやってくれないかね?』などと。
 ぼくはいろいろ口実を設けては、不意打ちみたいに夫妻の家を訪れた、『これはこれは嬉しい訪問だね!……』というような歓待を受けられるのを期待して。
 きみにはわかるだろうね!……
 一年近くの間、こんな忌まわしい生活を続けた。そうすると、全てのことに慣れてしまうものさ、どんなに醜い行為にだってね。最初のうちは、きつすぎる服を着せられたような不快を覚えるものの、やがてそんな違和感にも慣れてしまい、もう締め付けられていると思わなくなり、最後には居心地よくなってしまう、着古した服のほうが体に馴染んで身につけやすく感じるようにね。
 ある時、休暇を過ごしに夫妻の家に行ったのだよ。狩猟好きな夫が猟場に出ている間、ぼくは彼女と居残っていた。気取られないように注意していたため、卑劣なまでの巧妙さで隠しとおしていたため、周囲の誰ひとりとしてぼくたちの関係を疑う者はなかった。
 というわけでその日、ふたりして彼女の家にいた。すると庭のほうで大声がするので、ぼくたちはびくっとした。ぼくが急いで降りていくと、動転した使用人たちが取り巻いている中に夫が横たわっていた。
 長椅子に寝かされた夫の顔は血の気を失い、髭は汚れていた。苦しそうに顔を揺らしながら、小刻みに呼吸しており、出血した腹部に痙攣する手を押し当てているのだ。
『これはこれは! 先生』主人の狩猟に付き添っていたらしい男が言った。『こういうことなんでさ!……旦那さまが山鴫を撃ち落としたので……葦の茂みに向かって走り出したところ、手にしていた銃が突然作動して、爆音を発したってわけなんで……恐ろしい悲鳴が聞こえた時にはすでに、旦那さまは倒れていたんです、こんなふうに顔を泥の中に突っ込んで……何とかして……あっしがここまで運んできたってわけなんで……』
 ぼくはさっそく怪我人の服を脱がせにかかった。脱がせてしまうと、すぐにわかったよ。散弾を左半身に受けており、感覚がなくなっているように思える腰から太腿にかけてぱっくり開いた傷口は酷く、そこから血が断続的に流れ出し、身震いと引き攣けに見舞われた腹部は、飛び交う蠅にくすぐられているようにびくついていた……
 最初のその時点では、彼女の夫はぼくにとってあくまでひとりの怪我人であり、ぼくはといえばひとりの医者にすぎなかった。だからぼくは冷静に、彼の怪我の具合を調べた、いつも病院で患者に対する時と同じようにね。変な考えがぼくの心の内に入り込む余地など、その時には全くなかった。傷口を確かめながら、これなら何とかなると、安堵のため息をつきさえしたよ。怪我の程度は、つまるところ大したものではなかった。傷は腸まで達していないようだった。ただし太腿の血管は広範囲にわたって傷んでおり、内出血も見られた。何としても結紮する必要があった、しかもできるだけ早く。出血を抑えるため血管に指を添えたまま、使用人に命じた。
『医療用鞄を持ってきてくれ……テーブルの上だ……早く!』
 近くに来ていた老家政婦が手を合わせながらつぶやいた。
『まだまだ神様に見放されちゃいないね、お医者さんがたまたまここにいてくれたんだから!』
 その時ふと、ぼくは顔を上げた。すると目の前に〈彼女〉がいたのだ。扉を背にして青ざめている。ひどく震えており、それにつれて衣服の襞まで揺れ動いていた。ぼくは名状しがたい不安に胸を締め付けられた。叫びそうになったが……何とか気持ちの昂りを抑え、彼女に言いつけた。
『ここにいてはいけない……出て行きなさい……』
 彼女は『いいえ』と言い、前に進み出た。ぼくの目はもう、彼女の目から離れられなかった――彼女のほうからとらえて離さなかったのだ。ぼくは怪我人の傷に手を当てたまま、彼女のほうに体をねじってその視線を受けとめた、今にも喉をかき切ろうと差し出された刃に見入るように。刃の淡い光に幻惑され、その切っ先に思わず魅せられてしまったように。
 彼女は前に進み出てきた、するとぼくの理性に影が差した。彼女の視線は計り知れなく、恐ろしい衝撃に充ちていた。ぼくはこの視線にわし摑みにされていた。視線は語りかけてきて、ぼくが何を求められているのか理解するのにもはや言葉はいらなかった……視線はこんなふうに語りかけていたのだ。
『あなたはわたしをものにできるわ……わたしをつかまえて、とどめておける……わたしはあなただけのもの。あなたの喜びのためにだけ、わたしは身を震わせ、あなたの愛撫のためにだけ、身を任せる……あなたが望むなら……』
 ぼくは再度、小声で言った。
『とどまっていないで……出て行きなさい……』
 だが視線はなおも語り続けた。
『意気地のない人……怖気づいてしまって……さっきまでの望みはどうしたの?……見なさい!……偶然があなたの夢を実現しようとしているのよ!……』
 おお! そうしたい気持ちが高まっていった……ますます高まっていった!……
 血管はぼくの指の下で脈打っていたが、少しずつ、そうする気はないのだが締め付けている力が抜けていった。ぼくの血管の鼓動と対応していた怪我人の鼓動が、乱れたように思えた。大いなる静けさが部屋の中を支配していた。漠然と、何か恐ろしいことが起こりつつあるのがわかった。ぼくが責任を持って何とかしなければならない何かだが、ぼくはそれに対してなすすべがないのだ。
 彼女はぼくのそばにいた。少し上半身を傾けた。彼女の息がぼくの髪の毛にまとわりつき、きつい匂いがぼくを支配した。彼女が発するお馴染みの匂い、すでにぼくの身に帯びている匂い、ぼくの手や唇に染みついた匂い、ぼくを狂わせていたあの愛の匂いが。
 時間が迫っている、もたもたしていては危ない、早く何とかしなければ、という気持ちも、ぼくの理性を取り戻す力にはならなかった。
 ……その時突然、扉が開き、使用人が鞄を差し出した。その鞄を見るや、ぼくは自分の職業と役割を思い出した。ぼくをとらえていた恐ろしい無力感は消え去った。ぼくは叫んでいた。
『よこしなさい! よこしなさい!』
 だがその時……その時……ぼくの指の力が抜けてしまっているのに、気づいたのだ……指の下ではもう何も鼓動していないのに……ぼくの手が血の中に浸っているのに……怪我人がもはや動かなくなっているのに……彼の半ば閉じた目に不透明な靄がかかっているのに……彼の口が開いてくすんだ歯を見せているのに……上に引きつけられた唇が笑っているように見えるのに、気づいたのだ……つまりは……終わっていたのだ!……
 彼女とぼくはお互いを見合った。すると突然、影がぼくたちの上に落ちてきた、嘲笑うような血なまぐさい影が、要するに死の影が……
 ぼくはまず、これは悪夢であってすぐに消え去るものと思った。偶然によって全てが生じたのだと、何とかして確かめたかった。そしてそれはほとんどできるように思えた……
 だが彼女がぼくの妻になった日から、そんなことを確かめるどころではなくなってしまった。
 四六時中、どこにいても、あの不吉な影がぼくたちの間に兆している。それについて語ることはないけれど、ぼくたちにはその影がはっきりと見えているのだよ。
 ぼくは彼女の目を見ると『わたしはあなたのもの。わたしを奪って。ふたりで自由になりましょう!』と語っていたあの視線を思い出す。彼女は彼女で、ぼくの手を見ると、夫の傷口からゆっくりと離れ、魂が出ていくに任せた時のぼくの手を思い出しているのだろう。それから、憎悪を感じるようになった。無言の憎悪、互いに依存し合っていながら互いを怖れているふたりの殺人者が抱き合う憎悪だ。
 ぼくたちはきみが見知っているように、何時間も黙ったまま過ごす。あの影のもとに佇みながらね。お互いに言いたいことは山ほどあって、今にも口から出かかっているのを何とかこらえ、口を噤む――そうするほうがよっぽど心を苛むことがわかっているのだがね。
 ぼくが愛し、幸福だった時期の名残と言っては、こんな有様ってわけだよ!」
 友はテーブルの上のナイフを手に取り、その切っ先の具合を親指で確かめながらつぶやいた。
「こいつを腹に突き立てるというのは、なかなか勇気のいることだな!……」
 それから友は散らかった書類の上にナイフを抛り、頭を抱え込んですすり泣きはじめた。

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