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伴侶

LA COMPAGNE
1912.8.29初出

モーリス・ルヴェル 中川潤 訳

 かつてはあんなに楽しげだったこの家が、朝の太陽にもかかわらず、わたしには悲しげに見えた。子供の頃、好んで遊んだ庭には、きれいに均された小道はもうなかった、歩くごとに足跡がついてしまうほどきれいだったあの小道は。芝生にももう、ビロードのような美しい色調は見られなかったし、ヘリオトロープの茂みから、ヴァニラのような香りが漂ってくることもなかった。蔓をなす薔薇の木では、枯れた花と葉が、開いたばかりの花と混じり合い、蠅が蜂とともに光の中をぶんぶん飛び回っている、打ち捨てられた庭園を自由に飛び回っているかのように。わたしの友人自身も老いて、ずいぶん変わったように思えた。かつてのまっすぐ伸びた背丈と、筋ばった手と、ゆったりした物腰が思い出された。三年の月日が老いを深めており、彼はなるべく多く話し微笑もうとするものの、そこには深い憂愁が感じられた。老いた友人が言った、
「きみが知っているかつての庭を思い出せないかね? 今や花々は好き勝手に生い茂っている……人は全てに飽きてしまうものだ……誰しも齢をとるものだよ! ここに留まっていてもしょうがない。家の中のほうが涼しいだろう」
 わたしたちは家の中に入った。閉まった鎧戸の隙間から、日の光がほんのわずかに差し込んでいた。かつては廊下に立ち入るや、果物とラベンダーの芳しい香りが鼻をとらえたものだった。今では、庭と同様に家の中でも香りが失われているように思われた。わたしから旅行鞄とステッキを受け取りながら、老いた家政婦は控えめな挨拶をしたあと、忍び足で退室していった。
「さてと!」家の主人は言った、「今は十一時だ。田舎では昼食が早いから、きみはお腹が空いていることだろうね。食事をしながら、きみの両親の近況や、きみの仕事についての話などを聞かせてくれ。さあ、テーブルにつくとしよう!」
 ちょっと驚いてわたしは尋ねた……
「待たなくても……」
 主人はわたしに最後まで言わせなかった。
「いいや。家内はここで食事はしない……ちょっと体調が悪いのでね」
「それは申し訳ありませんでした。事前に知っていたら、訪問を延期していたでしょうに……お邪魔をしてしまいました」
 わたしはぽんと肩を一度叩かれた。
「気にせんでいいよ。それどころか、きみがここに来てくれて、わたしはとても嬉しいのだよ」
「大したご病気ではないんでしょうね? 午後になったら会わせてください」
 相手は躊躇しているようだった、
「うん……うん、たぶんな……努力してみよう……」
 食事中、主人はかなり陽気に、わたしの家族のことやこれからの計画について質問をし、また、わたしの子供時代の数多な思い出話などを持ち出した。本当にすばらしい記憶力の持ち主で、長い間わたしが忘れていた細かな出来事なども思い出させてくれた。ただ、わたしは気づいたのだが、話の間も妻の名前を口にすることがなく、また話の途中で二、三度、何かわからない物音に耳を傾けるために話を中断することがあった。それからまた話しはじめるのだが、陽気な口調を取り戻すのに苦労している様子だった。わたしは心配になって思わず口を挟んだ、
「奥さんのほうがご心配でしたら、わたしには構わないでください」
 主人はわたしの提案に嬉しそうな表情を浮かべ、立ち上がった。
「それはありがたい。それじゃちょっと見てくるとしよう。すぐに降りてくるから」
 席を外していたのはほんの数分だった。戻ってくると、前より心配そうな顔つきをしているので、わたしは訊いてみた、
「どんな具合でしたか?」
「いつもと変わらんよ」膝の上にナプキンを広げながら言った。
 食事を終えるとわたしたちは応接間に戻り、昼下がりの時間が単調に過ぎていった。夕方になると、妻の様子を確認するために主人はまた中座した。戻ってきた時、彼は動転した表情を浮かべていた。
「よくないのですか?」
 今度はもう、冷静さを保とうとはしていなかった。
「ああ、よくない……」
「医者を呼ぶべきだと思いますが」
 相手は肩をすくめた。
「それが何になる?」すると頭を抱えて泣きはじめた。
「でも、このまま放って置くわけにはいきません! わたしが街に医者を呼びに行きましょうか?」
 彼はつぶやき声で言った、
「いや、誰も……誰にも何もできやしない……」
「ということはそんなに悪いのですか?」
 答えがないのでわたしは、こういう場合に言うべき決まり文句を並べ立てるしかなかった。
「諦めないでください……そんなふうに絶望してはいけないのです。何が起こるかわかりませんよ。人間の体にはとてつもない力が宿っているのですから! 奥さんはあんなに元気だったのですから……」
 やっと顔を上げると、わたしの腕に手を置いて、
「いや、きみ、だめなんだ、何もなすすべがないのだよ……何も、何もな!……危なくなっているのは体のほうじゃないのだ。あらゆる手を尽くして名医を訪ね歩き、一度でも外科医の執刀に委ねられる症状ならよかったんだがな、いや、いかさま医師の噓だって聞いてやりたいくらいだったが……だがわたしにはお手上げだし、科学の力ではどうにもならないのだよ。要するに家内は、理性を失ってしまったのだ」
 今度はわたしのほうが顔を伏せる番だった。相手は続けた、
「今では理解できるだろう? ああ! それはまさに、わたしの人生が終わったようなものなのだ! わたしたちふたりが夢見ていたこと、そして互いに望んでいたごく慎ましい幸福を思うとな! 若くして結婚したのだよ、彼女が二十歳でわたしは二十三歳だった。恋愛結婚で……時期が経った当時も新婚時のように愛し合っていたのだよ!……意見が一致しなかったり、喧嘩したりということは一度もなかった。『そっちに行きたいのかい? ならばそっちに行こう!――帰りたいのかい? ならば帰ろう!』というような具合さ。覚えているかね、きみが小さかった頃、この家が楽しげで平穏だったことを! 曇りひとつなくて、『あの人がいなくなったらわたしはどうなるのだろう?……』などと、歳をとると抱きがちな心配をすることもなく。わたしたちは体の調子もよかったし、お互いの年齢差もほとんどなかったので、いつも笑いながら繰り返していたものさ、『ふたりのうちのどちらかが死んだ時に、残ったほうが死ぬ準備を始めればいいだけさ!』とね。そうこうしているうちに、こんなふうになってしまった……予想もしていなかったことが起こったのだ! 理性を失ってしまうということがね。まさに、一方が死んで他方が生き残ったわけさ!」
 わたしは慰めにかかった。
「そういう病気を治療してくれる施設があります……」
 主人は気色ばんだ。
「癲狂院のことを言っているのか? ああ! そいつはいかん! それだけはいかん! わたしが家内を閉じ込めるなんてことは、囚人扱いするなんてことは……あそこで手荒に扱われ、虐待されるなんてことは……わたしにこんなことを言ってくるなんてことは――『奥さまは不満なんか言っていませんよ』、泣いているのを聞くことはないのですから、とか、食事療法や水療法で痩せたのですから、などと理屈をつけて! ああ! とんでもないことだ!……それに、家内にはそんな扱いをされる謂れはない……狂ってなどいないし、常軌を逸した行動も取らない。子供なんだ、単なる小さな子供なんだよ。わたしは家内を世話する。家内はわたししか知らず、わたしにしか会いたがらない。不満を抱くことはないし、怒りをあらわにすることもない。あの貧弱な頭の闇の中では、過去に属する、かつての比類のない伴侶に属する、優しさと限りない忍耐力しか存せず、しかしもう光はなく、ひとつの記憶もないのだ。子供なのだ、全く小さな子供なのだよ……ああ!……もうこんな話はやめにしよう……日は落ちつつある。夕食前に、庭をひと巡りしよう。その前に、家内が何か必要としていないか確かめに行ってくる。ではあとでまた」
 夕食は愉快なものではなかった。主人はわたしに話しかけようと、またわたしに話をさせようとするのだが、先ほど聞いた悲痛な話がどうしてもわたしの頭から離れないのだった。会話が途切れると、沈黙がわたしたちの上にのしかかり、料理を運んでくる使用人の控えめな足音も、食器がぶつかる乾いた音も、この重たい沈黙を乱すことはなかった。わたしは突然、老いた友人が青ざめるのがわかった。日中の熱気と悲痛な話をした時の興奮で、動揺していたのかもしれなかった。座っていた椅子を押しやると、立ち上がろうとしたが、また座り込んでしまった。わたしはコップの水を差し出した。彼は口を潤してから、体を後ろにのけぞらせた。彼の目には何だかわからない恐怖が宿っていた。汗だくになった額まで手を伸ばそうとしたが、もはや体を支えられずに床の上に倒れてしまった。
 わたしは襟を開いてやろうとした。使用人の男が声を上げた、「フェリシー!」
 老いた家政婦が駆けつけて来て、腕を大きく広げながらため息をつくように言った、
「こんな終わり方をするのではないかと思っていましたよ!」
 そして、扉のほうに向き直ると呼ばわった、
「奥さま! 奥さま!……」
 階段を足早に降りてくる音が聞こえ、小柄な老女が現れた。室内用の胴衣と化粧着を身につけ、白い縁なし帽をかぶっている。さっそく、母親がやるような仕草で病人の頭を持ち上げると、自らの膝の上に凭せかけ、襟を外してシャツを広げ、湿らせたナプキンでこめかみを擦りはじめた。彼女は穏やかな声で、短く指図を与えた、「わたしの部屋の卓の上にある塩の瓶と……抽斗の奥にしまってある水薬を持ってきてちょうだい……辛子膏薬は棚から降ろして……」その間病人に声をかけていた、
「よくなっているでしょ、ねえ、あなた? ほら……治っていく……もう心配ないわ……」それから使用人に、「フェリシーとピエール、旦那さまを寝室のベッドまで運ぶの手伝ってちょうだい」
 彼女は枕を揃えると病人を横たえ、その上に毛布を掛けて包んでやってから、声をかけた、「もう心配ないわ!」使用人たちは退がっていった。それから彼女はやっと、わたしのほうに顔を向けた。
「挨拶している暇もなくてごめんなさいね、急いでこの人の世話をしなければいけなかったものだから……こんな悲しい場面をお見せしてしまって……」
 返す言葉もなく、わたしは目の前の女性を見つめていた。彼女は続けて言った、
「わたしの夫が、長年連れ添ってきたあの人が、気の毒にもこんな病気にかかってしまうとは、何とやり切れないことなんでしょう! あんなに若々しくて、才気煥発だったあの人が! わたしたちがどんなに愛し合っていたか、あなたがご存じなら!」
 わたしは聞いていた、ただ聞いていた……そして、わたしが啞然としているのに気がつくと、彼女は両手をこすり合わせた。
「本当なんですよ! あなたは知らなかったのです! 夫から聞いたのですね……あなたはその話を信じた……わたしが……ああ、何ということ! わたしのほうは、全く正気なんですよ! 理性を失ってしまったのは、夫のほうなんです。固定観念に取り憑かれていて、それが昂じて、わたしが子供時代に帰ってしまったと、思い込んでいるのです。最初の頃は、そうじゃないのだと、何とかして理解させようとしましたが……すると、夫は気の毒なほどがっかりしてしまって、だからわたしはこの人の気まぐれに従うことにしたのですが、そうすると彼は満足げでした。この人にはひとつの喜びしかないのです、わたしの世話をし子供のようにあやすというのが、あの人の喜びなのです。わたしに出ていかせようとしない寝室の中に――おお! 悪意があるわけではなく、ただわたしが自分を傷つけないようにするためだと言って‼︎……――日中ずっと留まっているのです。簡単な言葉をわたしにかけるだけで、あとは食事を運んできて、まるで母親のように細心の注意を払ってわたしに食べさせてくれます……わたしにはなすすべがありません。そうしている間はこの人は幸福なので、この人の最後の楽しみを奪う気にはなれません、こんな気持ちをおわかりでしょう……ただし夜になると、わたしはいつも泣いています……
 あら、この人目を覚まそうとしているわ。わたしが枕もとにいるのに気がつかれてはいけないのです。お医者さんが言うには、こういう病気の人の頭には、時々理性の光が閃くことがあるそうなのですが、彼がたとえ一瞬でもそれを認識したならとても恐ろしい結果が生じるのです……お暇しましょう……音を立てないようにしてくださいね……もし今後、彼から何か訊かれたら、何も知らないと答えてください、わたしには会わなかったと、わたしからは何も聞かなかったと。そろそろ、わたしが眠っているかどうかこの人が確かめに来る時間ですので、わたしは寝室に戻ります……さようなら……ご挨拶は要りません……どうか静かにお引き取りくださいませ……」

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