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足枷(あしかせ)

LE BOULET
1902.10.15初出

モーリス・ルヴェル 中川潤 訳

 一月十五日の午前十時に、ジャルディ氏は亡くなった。夫の目を閉じてやると、未亡人となった妻は愛人宛てに短い電報を打った、
《自由になったわ。来てちょうだい》
 彼女はさっそく、家政婦の助けを借りて死んだ夫の体を清め、衣装を着せ、レース模様のシーツを掛け直し、ベッドの横に祝別された柘植の枝を置き、カーテンを引き、蠟燭を点け、自らは黒服を羽織ると、故人の肘掛け椅子に座った。
 右のような準備作業に加えて必要な事務手続きを済ますうちに午前が過ぎ、正午ごろ、シャランドレ氏が話をしに来たと告げられた。
 愛人であるその男は、やや青ざめた顔つきで、狭い応接間の煖炉を背にして未亡人を待ち受けていた。
 まず、ふたりは無言で長いこと抱擁し合った。男は、女をあやすように揺すりながら、額と目と髪の毛に接吻していき、甘い言葉を囁きかけるのだった。
 ふたりは身を寄せ合って座り、互いの手をとった。こうしてふたりきりでいると、余計なことを考えないでいられる安心感があった。ふたりきりになれるのを長い間待ち望んでいたのだ。この四年間、何度もここで逢引したものだが、愛撫をかわしながらも夫が突然帰ってくる事態を常に気にしていなければならなかった、ふたりにとって害悪でしかないあの老人が突然帰宅する事態を! そして、ふたりが密かに暴君と呼んでいた男が病気になり、ここ数日のうちに容体が急変して死亡するに至った。こうして妻は未亡人となり、自らの運命を自由に決められるようになったのだ!
 低い声で、女は自分の希望と今後の計画について語った。
「自由なのよ! わたしは自由になったの! 二日後に、パリを離れましょう。どこか人里離れた場所に身を隠しましょう、気兼ねなく愛し合うために……」
 男がやんわりと口を挟んだ、
「二日後って、それは無理だと思うな」
「どうして? 誰もわたしを止められないわ」
「避けて通れない手続きがいくつもある。金銭がらみの問題に向き合わなければならないし、ジャルディ氏の一族だって権利を主張してくるだろう。そういったことに時間を取られ、難問が次々と生じてくる、わかっていると思うけど……」
 女は微笑んだ、
「わたしの計画を妨害するのがそういったものだけならね! これほど簡単に済む相続ってないでしょうよ。わたしがたったひとりの相続人なんだから。そのことで心苦しかったとでもいうの、あなた?」
 男がすぐさま遮った、
「きみのための、きみひとりのための財産だと言っても……人というのがいかにたちの悪いものか、考えないとな! だけど、きみが遺言書を見たというなら、話は違ってくる」
「見たことないけど、どこかに隠してあると思う。だったら、探してみることにする」
 女は出ていった。ひとり取り残された男は、応接間の中を行ったり来たりしはじめた。
 隣の部屋の半開きになった扉から、大きな白いベッドが蠟燭の煙った光に照らされて見えた。女は寝室を横切り、家具の中を探りはじめた、そんな様子を眺めていると、男は何か痛ましい印象を抱いた。
 彼は飾られた絵画や絨毯をぼんやりと眺めた。しかし少しずつ、漠然とした喜びが湧き上がってきて、今後はこういった物全てが自分のものになるんだ、おれは金持ちになるんだ、という思いに耽った。とはいえある苦しさを喉もとに感じた、と、その時愛人が戻ってきた。赤い封蠟をされた大きな封筒を手にしている。彼女は封を開けるや、たちまち顔色が青ざめ、倒れそうになった。男が慌てて駆け寄り、紙片を奪い取ると読みはじめた、
《我が財産の全てを〈孤児救援友の会〉に遺贈す。――ジャルディ》
 男は紙片を返した。
 ふたりともしばし茫然自失した。このわずかな文言によって、彼らの計画は水泡に帰したも同然だった。ジャルディ夫人は、遺言書を手にしたまま呟き声で言った、
「とんでもない!……とんでもないことだわ!……」
 それに対して男が言い返した、
「ああ! ぼくたちの夢は遠くなったね! ついさっきまできみは、二日後に出発し……一年後には結婚しようと言ってたのに!……」
「でもそれはまだ可能よ……別に金持ちじゃなくたって、愛し合ってさえいれば……」
 男はせせら笑った、
「とはいえ先立つものがなければね! きみには何もない。ぼくだって、知ってのとおりだ。悲惨な結果になるね……もうご破算にしよう。ぼくは出発する。どこへ? わからないね。でもパリにはいられない、今となっては」
「どうして〈今〉はいられないの、きのうはいられたの? あなたの生活の何が変わったの?」
「何が変わったって? そう訊いているのか? ぼくがここにいるのは、きみのせいだと、きみひとりのせいだということを忘れたのかね?」
 心の中に溜まっていた恨みの念が、口の端まで登ってきた。最初の冷ややかな口調が激しさを増してきて、しまいにはその灰色の目に悪い光がよぎった。
「何が変わったって?」
 同じ台詞を、怒りで嚙みつぶすように繰り返した。相変わらず大股で応接間を歩きまわりながら、荒々しく家具を叩いたり、クッションを足蹴にしたりしている。
「ぼくはこの四年間、きみとの関係を維持することに腐心してきたし、そもそもほかの関係を求めることなんて考えもしなかった、そのことをわかっているのかな? きみと一緒に過ごしている間に、別の場所で様々な人間関係をつくる機会が、ぼくにはいくらでもあったと思わないの? X夫人をきみが嫌っているから、ぼくは彼女と会うのをやめたし、彼女の取り巻きとの関係も絶った。Z氏がきみの悪口を言えば、ぼくは彼を嫌わなければならなかった。こうしてぼくの人間関係は、きみの気まぐれと馬鹿げた嫉妬心のためにずたずたにされたんだ。当時は、そういうことを仕方がないと思っていた。だけど今じゃ、何て馬鹿なことをしてたんだと思うよ。砂漠の真ん中にいるよりも、パリの歩道の上でのほうがひとりぼっちなんだと、ぼくは感じている。
 ぼくのまわりは、ぼくに無関心な連中か、ぼくに敵意を抱く者ばかりだよ。何が変わったの、なんてよく言えたものだな!」
 女はこんな怒りの奔流を黙って聞いていたが、やがて痛ましい言葉を繰り返すしかなくなった、
「あなたって不誠実な人ね!……何て不誠実な人なんでしょう!……」
 男は腕を組んで、
「きみに何か解決策が出せるのかね? 出せないだろう? だったらぼくが不誠実だなんて言わないでほしい。ずいぶん長いこと、きみはぼくの心を弄んでくれたね。きみは〈財産〉のことや〈自立〉できることや、自由になった暁の生活について語った。ああ! ご立派なものだったね、きみの財産、きみの自立、きみの自由ってのは! 今となっては、ぼくはどうなるというんだろうね?」
 女は顔を上げた、
「あなたいつまでも自分のことばかり話しているのね! わたしのこれからの生活が羨むべきものになると、あなた思っているの?」
「男の場合と女の場合は同じじゃないよ。女の場合……特に若い女の場合は何とか乗り切れるものだが、男であるぼくの場合は、たちまち破産することになるのさ! 一週間前には、取り付けていた約束がいくつかあったけれど、今となってはもう果たすことができない」
 女は立ち上がり、言葉を区切りながらまた話し出した、
「約束を取り付けていたって? 何の権利があって? 何を当てにして? まさかわたしの財産を当てにして?」
 突如として、真実が彼女に明らかとなった。まさにこの男の本当の姿が白日のもとにさらけ出されていた、エゴイストにして噓つき、かつ強欲な男。数年もの間彼女は、この男の上辺だけの優しい振る舞いに騙されていたのだ!
「そんなふうに、まだわたしのものでもない財産を自分のものにできるつもりになっていたのね? 四年間、わたしはあなたの愛を信じていたのに、あなたはわたしの財産を自由にすることしか眼中になかったんだ! あなたがわたしを大事にしていたのは、いずれわたしがお金持ちになるのを当て込んでのことで、そのあと、わたしのお金が期待できず、残っているのはわたしの身柄ひとつと知るや、あなたは怒りを爆発させたんだわ!」
 男は反論しようとしたが、その言葉には力がなかった、
「とんでもない! いいかげんにしてくれよ! いやはやぼくがきみのことを熱愛していたとはな!……呆れてものが言えない!」
 ふたりは憎悪と敵意にかられ、すっかり仮面が剝がれるまで、相手に向けて恨みと侮蔑の言葉を投げつけ合った。初めて、互いの本性が白日のもとに晒されるのを目の当たりにした。こうして怒りが解き放たれてしまうと、もうとどまるところを知らず、取り消しようのない言葉が次々と発せられた。
 互いの心を引き裂くことに残忍な喜びを感じているごとく、ふたりは言い争いを続け、いちばん大切な思い出までも踏みにじっていった。こうして時間が過ぎていった。
 夕方になって、家政婦が公証人の来訪を告げに来た。
「通してちょうだい」未亡人は言った。
「マダム」と公証人は言った、「ジャルディ氏から数日前に承った遺言書がございます、氏が亡くなった後にあなたさまにお渡しせよとのことでした。こちらです」
 やっと気持ちを鎮めて封筒を受け取ると、未亡人は言った、
「わかっています、ムッシュー、わかっていますとも……」
 彼女は何の気なしに封筒を開けると、たちまち震え出した。遺言書はたった数行の文章で成り立っていた。
《わが全財産を妻に遺贈す、但しそのための唯一絶対の条件として、妻はシャランドレ氏と再婚することとする。――パリ、一九〇二年一月六日。――ジャルディ》
 公証人はさらに続けた、
「旦那さまから、こちらの手紙もあなたさまに手渡すよう言われております。わたしの職務は終えましたゆえ、これにてお暇いたしますが、今後も何か必要がありましたらご遠慮なくお申し付けください」
 公証人は挨拶すると、退出していった。
 手紙は一月六日の日付で――遺言書と同じ日付だ――以下のような内容だった、
《マダム、
 わたしがあなたと結婚した時、あなたは二十五歳で、わたしは六十歳だった。あなたは貧しく、わたしは金持ちだった。そんなわたしたちが一緒に生活しようなんて、先のことを考えない無謀な試みだった。あなたがわたしを愛さなかったからといって、わたしはあなたを怨んではいない。あんなに恥知らずなやり方をしていなければ、あなたがわたしを騙していたことを許しもしよう。ここ数週間ばかりの間に、わたしの死期が近いと知ると、あなたは本心を隠そうともせず、わたしが死んだあとの計画を口にしはじめた。わたしが死ぬやあなたの夫の地位に収まろうと、あなたの情夫が隣室で待ち構えていた。あなたの罪はまさに、そんなことを許したといううちにある。
 わたしが最期の吐息を吐くや、あなたたちはふたりしてわたしの遺言書に飛びつく。そこにはあなたに財産を遺贈しない旨が記されている、そしてわたしはあなたの愛人の心根をよく知っているから、財産持ちだったあなたに妻の義務を怠るように仕向けた時と同じく平然と、その男がもはや財産を失った愛人を捨てるのは確実だと思っている。そういう彼の性質を知ったうえで、あなたが財産を維持したいなら、あなたはその男と結婚しなければならない。そのようにして、あなたの生活は、あなたが軽蔑する男に縛りつけられるのだ。
 わたしは、そんな足枷をはめられているあなたの姿を思いながら、楽しい気分で死の床での眠りにつくのだよ》
 小声で手紙を読んでいた女は、最後の行に達した時、肘掛け椅子に崩れ落ちて泣き出した。愛人が近寄ってなだめようとすると、激しい嫌悪と怒りがこみ上げてきて、全身を震わせた。夫から恐ろしい復讐をされたのだと、今さらながら気がついた、そして新しい主人の顔に向けて手紙を投げつけて叫んだ、
「最低な男! 最低な男!」


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