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中川州男大佐―ペリリュー島の戦い・4つの守備ポイント

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前回の記事では、「世界のなかの日本⑤」と題して、親日国であるパラオと日本の関係について迫りました。

その中で、

この話は別枠で詳しく取り上げたい!

と思ったのが、ペリリュー島の戦いと、それを指揮した中川州男大佐

ペリリュー島はパラオ諸島の一部で、第二次世界大戦下の激戦区の一つです。

今回は、ペリリュー島の戦いと中川州男大佐の戦い方について、ご紹介していければと思います。




「絶対国防圏」やぶれる

1943年9月、日本は「絶対国防圏」を設けます。

「絶対国防圏」とは、米軍による日本本土への空襲をふせぐために、日本が死守すべきラインのことです。

ところが、日本海軍は1944年6月のマリアナ沖海戦で大敗。

中部太平洋での制空・制海権を失い、「絶対国防圏」もあえなく破れます。

絶対国防圏内のサイパン、グアムを攻略した米軍にとっても、フィリピン奪還の悲願を果たし、台湾、沖縄、九州に上陸するためには、パラオの攻略が必要でした。


狙い目はペリリュー飛行場

ペリリュー島はパラオ本島から南に約50キロ。

フィリピンの南東方向にあたります。

面積にして約三平方キロ(二十数キロ)の小さな島でしたが、フィリピン攻略をする上では、喉から手が出るほどほしい立地です。

そして、米軍がフィリピンを奪還するためには、ペリリュー島の飛行場を占領する必要がありました。

日本海軍のペリリュー飛行場は「東洋一」と名高く、数百機もの戦闘機を置くことができ、各方面に睨みを利かせている十字滑走路が特徴でした。

米軍はこのペリリュー飛行場を拠点にして、フィリピン・レイテ島の日本軍を叩こうと考えたようです。

さらに、日本でも有名なダグラス・マッカーサー元帥は、当時は南西太平洋方面最高司令官

かつて日本軍によってフィリピンを追われ、「I shall return(私は戻ってくる)」という言葉を残していたというマッカーサーにとって、フィリピン奪還は悲願でした。

名将と名高い太平洋方面最高司令官チェスター・ニミッツ提督も、「フィリピン・レイテ島に上る前に、まずペリリューを落とさなければならない」と考えていたといいます。


迎え撃つは、中川州男陸軍大佐

中川州男陸軍大佐(引用:Wikipedia

当然、日本側も米軍の次の標的がペリリュー島だということは予測していました。

パラオの守備は第十四師団が担当し、ペリリュー島の守備は歩兵第二連隊が中心となります。

このペリリュー島の部隊を率いたのが、中川州男陸軍大佐でした。

中川大佐は熊本県出身。
父親は西南戦争の薩摩側で戦った経験があり、学校の教師でもありました。

中川大佐は「現場たたき上げ」の軍人で、性格は「情に厚く、曲がったことを嫌う」という典型的な肥後男児。

合理的精神の持ち主でもあり、仕事においてはきめ細やかな配慮が行き届く方だったそうです。

中川大佐は、米軍とまともに戦ったら、日本軍に勝ち目がないことは分かっていました。

日本軍が島における戦い方、島嶼戦に弱いことも見抜いていたといいます。

特に、米軍の艦砲射撃の破壊力はすさまじく、いかにこの攻撃を無力化するかも考えたといいます。

その結果、独特の戦い方を編み出し、思わぬ善戦をするわけです。


中川大佐の徹底した4つの守備ポイント

中川大佐はペリリュー島の守備にあたって、以下の4つの守備ポイントを徹底していました。

いわゆる、勝ち目の薄い、弱者の立場に立たされた場合に有効な方法かもしれません。

限られた兵力で何ができるかを考える人であり、強靭な精神の持ち主

クリエイティブな創意工夫ができるリーダーでもあり、今の日本に生きていたら、すごく仕事のできる人だったのだろうな、と感じます。


①島を丸ごと要塞化


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