8/21 鬱屈とした精神

 これこそ私たるもの、というようなものがあるだろうか。
 なんでも良い。趣味や特徴、仕事、性格。なんでも良い。これこそ自分である、というものが存在しているだろうか。
 所謂「自分軸」というものだ。もっというと、これだけは譲れないという価値観や信念、目標、他人の意志決定に左右されないものなのだそうだ。
 存在するなら結構。それを大切に掲げて生きていくと良いと思う。そういう生き方は、とても素敵だ。きっと、誰もがあなたの事を認め、信頼し、慕ってくれるだろう。

 正直、そんな生き方をしてみたかった。黄金の錦の旗を掲げ、信念を貫き、己の意志で歩む。そんな人生を送ってみたかった。
 過去の職場で言われた「自分がない」。この言葉は今でも深く突き刺さっている。
 自分というものは、過去で棄ててきた。自我などあったとて、それまで生きてきた過去の邪魔になるだけだったからだ。自分を欺き、疑う。周囲に存在が知られぬように、流れるままに身を任す。そうすることで、生きてきた。自分などあったところで傷付くだけだ。傷付くならば、棄ててしまった方が良い。
 その結果が、これだ。
 私は、酷く絶望した。過去の全てが間違っていた。私の選びとった生き方は間違えていたのだ。そして、途方にくれた。自分とは何か、棄ててしまった過去をなんとか拾い集めたら酷く醜いものが出来上がってしまった。承認欲求、自我、自己欺瞞……。
 そして、落胆した。私は、再びそれを棄てようと思う。醜い自分など要らない。醜い自我など要らない。私は絶望した自分を棄てようと思う。しかし気付いた。それらが「奇死念慮」というものへと、姿を変えてしまったということを。背後にへばりつく陰として、私の耳許で、常に甘美な死を囁く。私が死ぬまで一生囁き続けるのだ。無味乾燥な現世から甘露に満ちた彼岸へと、ボソボソと陰鬱な声で過去を暴きたてて誘う。
 卑屈に項垂れた顔をあげた。私の目の前にあるのは仏の輝く蜘蛛の糸ではなかった。陰鬱で鬱屈とした自分が確かにそこにいたのだ。羞恥や欲求や後悔や自尊心をごちゃ混ぜにした汚ならしい自分がそこにはいた。奇死念慮がそこにはいた。こいつは、どこに棄てたら良い?自暴自棄になりながら、走り続けてきたがもう限界だ。私はもうヤツの手の中だ。ヤツが私の手綱を握っている音が聞こえた。正直ホッとした。あとは断頭台から飛び降りるだけだと思ったから。そう思うと、生きることに対して少しゆとりが出来た。鬱屈とした精神が私を生かしてゆくのだろう。

ここまで読んでくれた諸兄に深い感謝の意を表すると共に、睡眠薬と抗不安薬の微睡みの夢の中で会おう。私はまだ生きねばならぬのだ。

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