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ロバート・ツルッパゲは綺麗な瞳をしてる【エッセイ】

そもそも後書きは本文よりも先に読んで良いものなのだろうか?
何の話かと思われるかもしれないがワタナベアニさんのnoteの話だ。

かいつまんで説明すると、出版前の本の後書きを先行公開するから読んでねってことだ。ついでにシェアしてくれて良いと書いてある。こんなでたらめな話があるというのだろうか?どうにも私には読み始めの三行で頭の配線がショートする音が聴こえた。気のせいだろうか。

12月初旬から予約していた書籍なので正直待ち遠しい。少しでも読めることはありがたいがそれが後書きとはどういうことなのか?夏休みの読書感想文を如何にサボろうかと企む中学生ならいざ知らず。こちらは楽しみに待っているのである。そう考えるとひどい話である。

でも嶋津亮太さんが先行公開されたワタナベアニさんのnoteを是非シェアしてくださいと呼びかけてるし、読んだらとても感動したし、ここまで来たら何か書きたいとキーボードの前に座るのはとても自然なことのように思えた。

さて困った。いざ書こうと息巻いても全然筆が進まないのだ。
これはあれかな?いい文章を読んだ時に訪れる頭の中がまっしろになって書けなくなるあの現象かと疑ったが、2秒考えたのち、「違う。そもそも発注した本がまだ届いてないからだ」という結論に落ち着いた。手元に無い本のことを語ることはとても難しい。

まぁ、先ほどのリンクを辿ってもらえばワタナベアニさんの後書き、あれは後書きそのものが一つの章として独立できるほどの読み物であることが分かっていただけると思う。だから素直にあの後書きの感想を書けばいいのだが、後書きの読書感想文を送り付けるほど野暮なこともあるまいと指先が私の脳みそを拒否しだしたのだ。もどかしい。

なら一体どうしたいのだと自問した後、導き出された答えは「それなら本を予約してまで何故発注したのかを素直に書けばいい」という諦めにも似た境地だった。しかしながら、「そうか、素直になるべきは自分の心であるべきだ」と今更ながらに合点がいった。これなら書けそうだ。

話は30年前にさかのぼる。
とここまで書けばまたいつものように冗談を言い始めたと私の読者なら思うかもしれないが、本当に30年前までさかのぼるのだ。1990年。これは写真家土門拳が逝去した年である。

土門拳は私の地元、奈良にもよくおいでくださって寺・仏像を撮影された写真家だ。そんな説明をすることほど野暮な話もないがどうかここでは許してほしい。
もちろん直接の面識があるわけでもないので、自在に語ることはできない。でもその足跡は本でうかがい知ることができる。驚いたことに、写真はもちろんのことだが土門拳の場合、その文章が残っているのだ。これがとてもいい。

さきほど30年前といったがおそらくその文章が書かれたのは60年ほど前のものだろう。それが今読んでも間違いなく面白いのだ。本当にしびれる。

その中の一節にホームシックにかかった助手の話が出てくる。ちょっと紹介したい。内容はこうだ。撮影は遅れるものである。一週間程度で帰れる見込みだったものが遂には帰れなくなり、助手が突然泣き出す始末に陥った。何がそんなに悲しいのかと訊けば実家の茶箪笥にある飴玉が誰かに食べられやしないかと不安になったと言うのだ。そんなわけあるかと叱責する土門拳だったがあまりのくだらなさに笑ってしまいその後の撮影が思いのほか上手くいったという話だった。そのまま土門拳はその助手の親御さんに「チャダンスノアメダマトツテオカレタシ」と電報を打ったと言う。なんなんだその話は?

でも、そんな文章が山のように出てくるのである。
私はむさぼるように読み耽った。彼は写真家でありながら屈指の文筆家でもあったのだ。

幡野広志さんといい、ワタナベアニさんといい。どうして写真家の人にはこう魅力的な文章を書く人が多いのだろう。

ここから私が出した結論は名だたる写真家の文章はとにかく面白いものが多いから縁ある本は買うに限るというものだった。これをジンクスというべきかマーフィーの法則の亜種というべきかは分からないが、とにかく写真家の文章でハズレに当たったことは一度もない。

そしてもれなく面白い写真家の文章には人生が描写されているという大きな共通点を見つけた。だれも撮影技術の点については多くを語らないという共通点も見つけたのはその後の話である。

さて、上記の法則よりワタナベアニさんの書籍は間違いなく面白い。そのようなわけで購入を決めこんだわけだが、ちょっと待ってほしい。今更ながらこの理由は後付けでしかないなと思い至った。なぜならたとえワタナベアニさんが写真家じゃなかったとしても本が出版されたなら購入したいと思っていただろうからだ。

けっこういい線で書けたと思っていたのにまた振出しに戻ってしまった。残念である。でも自分の心に嘘をつくぐらいなら謝ってしまった方が気が楽である。やりなおしだ。

理由。
そんなものがあるのだろうか。分からない。
分からないが私はロバート・ツルッパゲとの対話の表紙を眺めることにした。そこに答えがあるのかどうかは分からない。

そこにはツルッパゲのおじさんが一人写り込んでいる。
名前に騙されそうになるが、そこにいるのは水玉のシャツに白いひげ、高い鼻に、深く刻まれた目元の皺がかっこいい一人の男性である。

奇麗な瞳をしている。
じっと見つめられると吸い込まれそうになる。そんな魅力がある。
モデルはモーリス・マーティというパリ在住の芸術家だそうだ。
ワタナベアニさんがこの人しかいないと頼み込んだという。

ここにいるおじさんは磯野波平ではダメなのだ。

そう考えるとすこし見えてくるような気がする。
選び抜くこと。許可を得ること。そしてその人の前に立つこと。それらを自分の身一つでこなすこと。これが写真家の仕事の本質なのだろう。

そうか、私はそれを見たいのかもしれない。

答えは分からないが私はモーリス・マーティの奇麗な瞳を信じることにした。書籍よ、早く私の手元に来てほしい。

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ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んでくれたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことだなー