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人間行動の物理と精神の話

おっすー。
ヤスでーす。
ちーっす。

今回はちょい難しめのテーマにしてみたっすー。
ただコレ、最近俺っちが今の社会を見て個人的にスゲェ気になってることなんすよ。
どこまで書けるか不安しかないっすけど、とりあえず書いてみるっすー。

さて、世の中には絶対的な基準で「できること」と「できないこと」があると思うんすよ。
例えば、「明確にできない」ことで言えば、天下人クラスの俺っちでも、「自分の足で千里を1秒で走れ」って言われてもできないっすよね。
まぁ、技術が発展して筋力増強ギプスとか瞬間移動装置とかめっちゃ足が速くなる薬とかができれば話は別っすけど、今は少なくとも無理っす。

その一方で、「頑張ればできるかも」みたいなものもあるっす。
たとえば、「水の中で1分半息止めろ」って言われたら、まぁ頑張ればできなくもないけど、ちょっと難しいかも、みたいな感じっすよね。
ちょっと背伸びしないとできないことっすけど、物理的にはできる可能性があるって感じっす。

で、最後に「明確にできる」ことがあるっすよね。
たとえば、「利き手でペットボトルを持ち上げろ」とかだったらほとんどの人が何の苦労もなくできる可能性が高いと思うっす。

そんで、ここからが本題なんすけど、この分類って「物理的に実現可能かどうか」って話なんすよね。
実際、一般的に社会ではこの「物理的にできるかどうか」ってメッチャ重視される傾向にあるっすよね、当たり前っすけど。
でもそれって当然で、歴史の中における人類の進歩で大切なのは「物理的にできること」を増やしていくことだったからっす。
例えば、「石を磨げるかどうか」とか「火を起こせるかどうか」は原始人にとって死活問題だった筈っす。
だからこそ、寺子屋でおなごから人気の小僧は大概「足の速いやつ」って決まってるんだと思うっす。
更に、現代でもオリンピックで短距離走がメインの種目であり続けているのも、きっとそういう背景があるんじゃないかって想像してるし、物理学が科学の中で特に大きく発展して来たのもそういう経緯だと思ってるんすよ。

でも、そういう中で俺っち達が忘れがちなのって、「精神的にできるか」ってことだと思うんすよ。
なぜなら、「精神」が無かったら「人間の行動による物理現象」は起こらないからっす。
誰にでもできそうな「ペットボトルを持ち上げる」っていう行動だって、「持ち上げたい」「持ち上げよう」と思わないと持ち上がらないじゃないっすか。
つまり、何かをする能力や技能があることと、実際にできることややれることは違うんす。

で、現代の世界で大流行りの機械やコンピューターの世界だったら、この「精神」って部分がそもそも無くて、「物理」だけ考えていればいいんすよ。
だから一度物理的に起こせた現象は同じ条件さえ揃えてあげれば、何度だって再現できるんすよね。
でも、そんな中俺っち達人間と機械の区別を付けなくなってきてしまってるんじゃないかと思っていて、それが良くないなーって、勝手ながら俺っちは思ってるんす。

例えば、会社で人を雇うとき、別の会社で何かできた人であれば自分の会社でも同じようにやってくれると思い込んでないっすか?
去年結婚記念日に花を買ってくれたご主人は今年も当然同じように花を買って来てくれて当たり前と思ってないっすか?
子供が小学生の時素直に言うことを聞いてくれていたから、中学生や高校生になっても同じように聞いてくれると思ってないっすか?
コンビニで、昨日お弁当買った時にお箸を入れてくれた店員さんは今日も同じように入れてくれて当然だと思っていないっすか?
どんな時でも相手は物理的にできる約束であれば守ってくれるのが当然だと思ってないっすか?

こういうことが、人間社会では無限に存在してると思うんすよ。
で、自分の思い通りにならないとき、人間は(まぁ、そこは人間なんで)相手に対して怒りを覚えたり、詰問したり、暴言/暴力を振るったり(ダメ!絶対!)してしまうんす。

でも、このことの根源って言い方難しいんすけど、要するに「思いやり」の話だと思っていて、子供の頃に寺子屋や剣道道場で自然と身につけることだと思うんすよ。
一国一城の主たる人物や、いい歳した大人であれば、そこに至る過程で身につける機会はいくらでもあっただろうと思うんすけど、最近は無頓着な人が多いっすね、老若男女を問わず。
だって相手が人間だとわかったら、この「精神」の部分まで考慮してあげるじゃないっすか、って俺っちは思うっす。
それができない人は、自分も人間で、「精神」に左右されていることがスッポリ頭から抜け落ちちゃってる人だと思うんすよね。
「物理的」にはもちろんできるけど、「精神」の問題でできなかった、それは人間だからしょうがない、って思えないってことなんすよ。

一方で、そういう人が自己正当化するための言葉が「生産性」とか「利便性」だと思うっす。
いかにも賢そうな単語っすよね。
でも、実際は人間的感性の抜け落ちた空虚な概念だな、と個人的には思えるっす。
そういう言葉を日々平気で使う人は、人のことをただの装置だと思っているとしか思えないっす。
全人類がサイボーグや人工蟻になった世界ではそれは大事かも知れないっすけど、本来の人間の在り方はそうじゃない筈っす。
人間が意思を持つことは、即ち「精神」があるって話だと思うっす。
物理の世界をそのまま社会に当てはめることの限界は、そこにあるんじゃないかな、って勝手に思う今日この頃っす。
そして、少しでも思いやりを持つことを思い出す人が増えてくれたらいいな、なんて俺っちは思うっす。

以上っすー。
書いてみたら意外とあっと言う間っすねー。
上手く書けたかは疑問っすけど(笑)

んじゃ、ほなまたー☆

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