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現代人は依存症予備軍?僕のランニングも?

「僕らはそれに抵抗できない 「依存症」ビジネスのつくられかた」    (アダム・オルター著) を読んで考えた…

目標追求の何がいけない?

僕はランニングが好きでGPSウォッチを愛用している。この本を手に取ったのは、その目次で「目標―ウェアラブル端末が新たなコカインに」という物騒なタイトルの章を見つけてしまったからだ。

前提として、現代は、生きることや生活することが主目的である時代ではなく、設定した目標を追求することができる社会であると。それ自体は悪ではないが、自己実現や目標追求という美名のもとに、それに囚われたり、追い立てられていませんか?そこに目標の設定や進捗管理を得意とするウェアラブル端末が巧妙につけこんできていますよ、というのがこの章の趣旨と理解した。

ランナーの端くれに仲間入りできた経緯

僕の愛用デバイスGPSウォッチはまさしく好例ということになるが、それを語る前に僕が市民ランナーと胸を張って言えるまでになった経緯を少々。自慢ではないが僕は三日坊主、熱しやすく冷めやすい。ランニングも通年で継続しようとして何度も失敗している。

そんな僕がGPSウォッチ(Appleではない)を買って、早起き&朝ラン習慣を始めた。最初のころは「今度こそ続けるぞ!」の意気込みを支えるため、ランナー向けSNSを始めたり、週に5日走ったらご褒美に「日曜モーニング」権を与える等、自分の鼻の前にニンジンを吊り下げたりした。

結果、苦もなく二年半ほど朝ラン習慣が続いている。フルマラソンも4回走り、目標だった4時間切りも達成、素直に嬉しくて達成感に涙を流した。

これは自分の強い意志と工夫のおかげに尽きる…なんて自画自賛したいところだけど、この本を読んだ後では半分以上は勘違いだったのか?と疑ってかからざるを得ない。SNSの中毒性についてはそこそこ自明なので脇に置くとして、GPSウォッチがいかに優れた野郎かについて考えてみる。

GPS ウォッチの功罪

まず、距離、タイム、平均ペースは当然として、心拍数、強度、カロリー、日数、月間走行距離に至るまで、あらゆるデータを計測・記録してくれる。もちろんスマホのアプリに連携しており、蓄積されたデータを魅力的なビジュアルにまとめ、プレゼンしてくれる。

そもそもこれらの多様な数値データは市民ランナーに必要なの?その機能が必要だからデバイスに実装されたのではなくて、実装されたから重要視されるようになったのでは?デジタル社会では需要よりも供給が主導権を握っている?そんなことを考えさせられた。

それはさておき、これだけのデータが揃えば、大きなもの目標から小さな目標まで設定は無制限だ。そして設定された「目標」は「達成」されるために存在する。ここで、目標→「ミッション」、達成→「コンプリート」に置き換えてみると…横文字にするだけで自分がゲーム中毒な気がしてきた。

加えて、アプリが発するコメントが秀逸なのだ。例えば今朝の里山30分ランについてのコメント:
⭐️このルートの最短時間
⭐️今週のアクティビティは先週より1アップ
⭐️今月最速のトレイルランニング

自分以外には全く意味のない単語の羅列だが、まだ汗も乾ききらないハイな状態でこれを見たら朝からドーパミンシャワーである。ムクムクと次の記録更新(=プチ目標達成と言える)、アプリに褒めてもらいたい欲求が湧いてくる。これはたぶん「いいね」欲と同類だ。終わりがない。

真面目な人こそ要注意かも

以上のように、デバイスやアプリはよく言えば習慣を継続しやすいように、悪く言えば沼にハマりやすいようにデザインされているのだ。もしアプリに課金が必要であれば、健康維持&目標達成という大義名分のもと、喜んで課金するだろう。健康オタク(あるいはストイックな市民ランナー)と依存症患者は紙一重かもしれない。

ところで、この本では人をのめり込ませるテクノロジーの巧妙な「あの手この手」が描かれているが、誤解を恐れず一言で要約するなら「Appleの創業者スティーブ・ジョブズは自分の子どもたちにはiPad を使わせていない」ということに尽きると思う。

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