「真面目」呼ばわりか
真面目だね、とよく言われる。例えば友人から。上司から。メンタルクリニックの先生から。
はっきり言って、わたしは真面目だと言われるのが嫌いだ。そう評されるのが嫌い。なぜか。自分でもそれがなぜなのか、長らくわからなかった。パートで役所に勤めていた際、与えられる仕事がなさすぎて、棚にしまわれた鉛筆の本数を数える仕事をしながら(信じられないがそれも在庫管理の仕事なのだ)考えてみたことがある。
真面目、というのは基本的に誉め言葉だと思う。真面目さに欠けていたら勉強だって仕事だって継続できない。就職活動ならもちろん真面目な人柄のほうが採用されやすいと思うし、婚活市場でも真面目さは性格において重要な条件だ。
それなのになぜ嫌なのか。現時点での結論はひとつ。「不器用でかわいそうだね」と言われている気がするからだ。
わかっている。ひねくれている。これはコンプレックスから生じる感情でもあると思う。たしかにわたしは物事を器用にこなすことができないし、慎重で臆病だ。元来のそんな性格に加えて、双極性障害、あるいはうつ病の人によく見られるように、正義感が強く曲がったことが苦手だ。きまじめにやろうとしてしまう。線をはみ出して色を塗りたくない。待ち合わせに絶対に遅刻したくない。ミスをする自分が許せない。会社での電話応対の後、相手の声がうまく聞き取れなかったことがあるとそのあとトイレで5分は落ち込む。今ここの部分を3分とするか5分とするかも悩みました。ほら真面目でしょう。
肩の力を抜きつつ、適度な加減でさらりと、要領よくこなすことができない。仕事も人間関係も。何事もね。
不器用なことは自覚がある。そこに、かわいそうだね、のまなざしが含まれている気がして、ひっかかりを覚えるのだ。一度、パート先の一番偉い人に呼び出されて、要領の得ない面談をして、最後に言われたことがある。めぐるさんが一生懸命にとっている仕事用のメモを見ると、こっちまで苦しくなるの、と。
わたしは仕事で教えられたことを一回で覚えるのが苦手なので、いつもノートにメモをとっている。手書きで書いて、そのあと自分用のマニュアルを作ることもある。新卒のころから30歳までそうだった。はたから見れば不格好なことかもしれない。でも、同じことを先輩や上司に何度も聞いて手を煩わせるよりはいいと思っている。だいいちわたしは障害者雇用で採用された際に、直属の上司に、障害への配慮事項として、不安が強いので仕事を教わったらメモを取らせてほしい、と伝えていたではないか。まぁこの件に関しては、偉い人のマネジメント(っていうのかな)が下手だったんだと思う。諸々あってわたしはその1か月後にこのパートを辞めた。
不器用な人はかわいそうなのだろうか?ずっと不器用として生きてきたから、わからない。不器用じゃない側の目線で不器用な人を視た経験がないのでわからない。中学の体育の授業で、バスケの試合中に私にだけ永遠にパスが回ってこなかった。図工の授業で、電動のこぎりがどうしてもうまく扱えず、できあがったわたしの作品を見た男子数人が笑っていた。初めての自動車教習所の実技で、わたしは運転は苦手だし絶対に下手だろうと思っていたら、案の定運転が苦手で下手だったから、怖すぎてトイレで一人泣いた。これを書いている今すら不器用エピソードがいくつも湧き出てきて、なんだか過去の自分のいたたまれない気持ちを思うと、泣けてきそうな。
ここからは極端な話になるが、「真面目だね」といつも誉められる(?)ことが嫌すぎて、この前、ある友人のラインをブロックした。その友人と疎遠になることを決めたのには、ほかにもいろいろ理由があるんだけど、ここでは割愛する。彼女はいつもラインのやり取りのたびにわたしを褒めてくれた。めぐるちゃんは真面目で、一生懸命で、頑張りやさんだね。と。いつからかそのことに息苦しさを感じていた。
それでもさすがに能動的に友人関係を断つことへの罪悪感が募り、そのことを別の友人に相談したとき、「でも『真面目だね』って、あんまり友達にかける言葉じゃないよね」と言われた。たしかに、と思って心の折り合いをつけた。
でも、やっぱりこれは私自身が真面目であることへの恥ずかしさ、コンプレックスによるのかな。向こうは誉め言葉で言ったつもりなのに、わたしがあいまいにほほえむ陰で、内心口をひん曲げてるなんて思いもよらないだろう。こんなに不満を抱えているのに、たとえばいつか就職活動の面接で、「あなたの長所は何ですか?」って急に聞かれたとして「・・・真面目なことです!」って面白みのない返しをしたりしてね。あんまりいい締めが思いつかないのでこの辺で終わります。