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食と感謝

みなさん食事は好きですか?
僕は3度の食事より好きです(?)
美味しいご飯を食べることはとてもシンプルかつダイレクトに幸福感を得られます。
だからこそ料理は発展していくし、企業は努力して更なる美味しいを追求します。
しかしそんな美味しい料理の裏には素材となった生き物たち、それを加工した人たち、調理してくれた人たち、さまざまな過程があります。
その終着点としてそれを食する我々がいるわけです。

食べるということ

全ての過程を得て、あとは食べられて血肉になるのみとなった料理に対してあなたは何を思うか。
素材となった生き物たちの姿、加工してくれた人たちの思い、自分に食べさせてくれるために調理してくれた人の思い、僕はこの3つを特に大事だと思っています。
同じ生き物として、食べられるために死ぬということがどんなことか想像してみてください。
きっとどの生き物だって生きたいと思っていたことでしょう。
この無念は食べる側が背負わないといけません。
生き物を食べるということはそういうことです。
決して無下にしてはいけないのです。

次に加工してくれた人たちの思いについて
生き物は基本的に加工されて、我々が目にする形になって売られています。
生き物はその過程で死に、部位ごとに分けられていきます。
買う側の人間はその死の過程を直接見ることはほとんどありません。
命が失われる瞬間というのはとてもショッキングなものです。
この過程を直視しないからこそ我々は簡単に生き物を食べることができるのです。
ではその死の過程を直視してる人たちはどうでしょうか。
直接話を伺ったことはないので想像で書きますが、その過程を一身に背負っているという負担はとてつもないことだと思います。
代わりにやってくれる誰かがいるというのはとても幸せなことです。
考えたことがないからこそ当たり前なことになっていますが、普段から生き物を食べている人は絶対に頭が上がらない存在であるべきです。

最後に調理をしてくれた人たちについて
料理は食べる人がいるから作ります。
食べる人がいなければ料理を作る必要はありません。
飲食店では基本的に注文を受けてから調理をしますね。
何故なら注文をした人が食べると示したからです。
つまり注文をした時点で注文した側には作ってもらったものを食べる責任があるのです。

感謝について


ここからは僕のかなり偏った考えを書いていきます。
僕は食べ残しというものが許せません。
前述した3つの思いを考えると残すだなんていうことは出来ません。
食べると示した自分のために全ての過程を経て、やっと目の前まで来てくれた命のバトンとも言える奇跡を無下にできますか?
そんなこと僕には出来ませんし極力したくないです。
飲食店の場合、金を払ってるからいいんだよ!なんていう人がいます。ここだけの話ですがそういう人を僕は内心軽蔑しています。
お金がどうこうではないんですよね。
自分は客だからどうこうって話でもないんですよね。
そこには命のやりとりがあるんです。
命が乗る天秤にそんなしょうもない理屈を乗せないでください。
そういう考え方は僕が本当に無くした方がいいと思ってるもののひとつです。

明日からいきなり食べるものがなくなるとします。
そんな時、今まで何不自由なく食事をしていた人は今まで食べることが出来たという事実に感謝することでしょう。
こういう本当に大切なものは無くさないと分からないものです。
何故ならそれだけ当たり前のことになっているからです。
今これを読んでるあなたの生活で当たり前になっている事をピックアップしてみてください。
それがどれだけ自分にとって有難いことなのかを考えてみてください。
自分がその当たり前にどれだけ支えられているか気付けるはずです。
気付いたのであれば感謝しましょう。
それが人であるなら尚更その感謝の思いを伝えて下さい。
失ってからでは伝えることができません。
失う前に気付いてください。
そしてその感謝を胸に日々精一杯生きてください。

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