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【演奏会 感想】アリス・アデール ~「フーガの技法」(2024.2.12 武蔵野市民文化会館)

 かねてから実演を聴きたいと切望していた名ピアニスト、アリス・アデールが初めて来日している。その初日、バッハの「フーガの技法」だけを弾くリサイタルを武蔵野市民文化会館で聴いた。

 私の耳に狂いはなかった。

 いや、私の審美眼のことを言っているのではない。もう10年以上前、アデールが弾く「フーガの技法」のCDを初めて聴いたとき、私の中に生まれた直観が当たった、ということだ。

 その直観とは、アリス・アデールという音楽家が、私にとってかけがえのない存在であり、一生聴き続けていくべき音楽を届けてくれる人に違いないというものである。その後、彼女のいくつものディスクを聴いてきて、私が音楽に求める「核心」のようなものが、彼女の演奏の中にはあると感じている。しかし、今日の演奏会で、音盤を聴いていたときと同じように、いや、それ以上にはっきりと認識できたのだ。

 その「核心」が何なのか、言葉にするのはとても難しい。何しろ相手はバッハが生涯最後に到達した、とてつもない高みにある楽曲だ。ときに極度の静寂のなか、悠然たる時間の流れに身を置いて深く沈潜し、ときに絡み合う複数の声部を冷たく燃えさかる炎のごとく対話させながら、ミクロにしてマクロな音の宇宙を現前させたアデールの演奏を前にしては、ただただ言葉もなく聴き入るしかなかった。

 その音楽には、「美しい」という言葉は似合わないのかもしれない。彼女のピアノ(スタインウェイ)の音色や表現は、2007年に録音されたCDと比べて艶消ししたようなモノクロの色調を帯びていて、渋い。ごく一握りの名手だけが備え得る高度な技術や美的センスは、簡素な佇まいをもった音の背後に慎ましやかに隠されている。そう、背筋をピンと伸ばして上半身をほとんど動かさず、ペダルを踏んでいるのか踏んでいないのかさえ分からないようなミニマムな所作で、丁寧に切り貼りした楽譜(おそらく彼女の手製)を見ながら淡々と演奏している彼女の姿そのままの音楽なのだ。

 だが、彼女が紡ぎ出す音が、そして音と音のつながりが、私の心に「触れる」のだ。いや、ただ触れるというのでは言葉が足りない。私の心の一番奥底の柔らかいところで、はっきりとした触覚を感知せずにはいられないくらいに「触れる」のだ。私の心の琴線が共鳴し、何かを奏で始められるかのような錯覚に陥ってしまうくらいに。

 その感覚の内側には、どこか「痛み」があるように感じる。孤独とか、生と死とか、ひりつくような言葉を重ねたくなるような「痛み」がある。極端なほどにテンポを緩めて静かに語られる音楽であっても、複数の声部が快速の運びのなかで激しく絡み合う曲であっても、それは常に音楽の中心にあって私の心に突き刺さってくる。

 いい歳をして青臭いことを書くが、その「痛み」にこそ、私は生の実感を見ているのだろうと思う。バッハにしても、ベートーヴェンやシューベルトにしても、あるいはマーラーでもショスタコーヴィチでもいい、私はそういう「痛み」を孕んだ音楽を求めていて、好んで聴く人間なのだろう。

 そんな「痛み」を、とてつもない強度と深度をもって私に実感させてくれる音楽家の一人が、まさにアリス・アデールというピアニスト、音楽家なのだ。だからこそ、彼女は私にとってかけがえのない存在であるということを、10年以上も夢見てきた実演を聴くことで、はっきりと確認することができたのだ。それ以上に幸せな聴体験はあるだろうか。

 どうしてそんな音楽を演奏することが可能なのか。彼女の高度なテクニックや、純度の高い響きへの美的感覚、詩的というか哲学的とも言える語り口、そして何よりも音楽の的確な把握能力など、様々な根拠をもって説明することは可能なのだろう。でも、そうした専門的な話は専門家やマニアに任せ、私はただただ心から愛する音楽、心から求める音楽に触れることができた幸せを噛みしめていたいと思う。

 100分近い演奏の最後、バッハがついに完成できなかったフーガは、途中で突如断ち切られた。アデールは長くそのままの姿勢でとどまり、舞台と客席で長い長い静寂を共有した。その後、あたたかい拍手が湧きおこったが、彼女は意外にもアンコールを弾いた。しかも2曲。

 最初はバッハの「ゴルドベルク変奏曲」の第25変奏。ト短調の哀し気な響きが特徴的な曲だが、これもまた「痛み」を孕んだ静かな音楽で、アデールのピアノにはとてもよく合う。最近の若い演奏家のフレッシュな演奏に惹かれることは多いけれど、人生の機微を知り尽くしたような名人の手による演奏にもまたとてつもない魅力を感じる。彼女の弾く「ゴルドベルク」、是非とも全曲聴いてみたい。

 そして、まさかの2曲目は、まさかのシューベルトのワルツ!彼女は80年代にHarmonia Mundiに舞曲集を録音(名盤!)しているし、いくつかの小品やソナタ(第21番!)の動画もYouTubeに上げているので、彼女もまたシューベルトの音楽を愛しているのだろう。

 これもまた哀しくて、孤独の痛みを抱えた音楽だった。まるでテオ・アンゲロプロスの映画「永遠と一日」の一場面のような、あるいは、アデールが傾倒しているという小津安二郎の映画で原節子が号泣するシーンのような。

 時間にしてたった2分ほど。ひりつくような心の痛みを共有しつつ、ああ、これが私の求めている音楽だと、言いようもない幸福感を味わった。いつまでも、いつまでもこの音楽と戯れ、踊り、対話していたいと願わずにはいられないほどに。

 恐らく、一生忘れられない演奏会になるだろうと思う。もしもこれが人生で聴く最後のコンサートとなったとしても、まったく後悔しないだろう。

 はるばる日本にまで来て素晴らしい演奏を聴かせてくれたアリス・アデールに、そして、幻のピアニスト状態だった彼女を日本に招聘して下さったオフィス山根のスタッフの方々に、心の底から感謝を伝えたい。ありがとうございました。

 彼女の次回の来日を心待ちにしている。得意のメシアンやドビュッシー、ラヴェルのみならず、シューベルトやモンポウなんかも聴きたいところ。もっとも、今度の土曜日(2/17)には彼女のもう一つのプログラム、フランス音楽特集(セヴラック、ドビュッシー、ラヴェル、エルサン)を聴くのだけれど・・・。

アリス・アデールの言葉
(演奏会パンフレットより)

 アリス・アデールについては、個人ブログ Langsamer Satzではこんな文章を書いてきました。そこで毎回、毎回、彼女の来日を望むとしつこく書いてきましたが、ようやく実現して嬉しい。


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