見出し画像

ハロー、マイベイベー。コロナ禍で子どもを産んだ初産婦の日記。

これから、コロナ禍で、一人の女の子を生んだ初産婦の話をしようと思う。

入院初日

予め約束された午後1時半ごろ、横浜市内の総合病院に行く。帝王切開手術ということが決まっていたからだ。

妊娠30週目ぐらいの検診で、すでに「逆子」だった我が子。ヨガのポーズのような、逆子体操なるものを実施して、逆子を「正常」に戻そうと母も努力をしてみたが、「正常」に戻ることなく、ドデンとわたしのお腹に居座り続けた我が子。出産予定日を目前にしても逆子のままだったので、帝王切開手術の実施されることになっていた。

陣痛を感じることもなく、破水を経験することもなく、手術日=誕生日が決まる。どことなく事務的な感じがするが、締め切りを決めて物事が進むように、まぁ日にちを決めてお産に臨むのも悪くはないなと思った。

入院時に必要な書類を提出し、およそ10日間を過ごす6階へ。案内されたのは、リクライニング式のベットとテレビ(テレビカードなるものを買わないと見られない)と棚があり、カーテンで仕切られている3畳ほどの部屋。病室(妊婦しかいないが病室という言い方でいいんだろうか)は4人部屋で、わたしは運良く窓側が当てられた。

画像1

病院では、新型コロナウイルスの影響で、出産時の立ち合いも、入院中の面会さえも禁止となっていた。それは、出産の時の緊張や喜びをリアルタイムで夫や家族とシェアできず、細かいところでいえば「ちょっとアレを家から持ってきて」や「アレが食べたいな〜」ができないことを意味する。とんでもない緊急事態であるが、仕方がない。noteで見かけた「コロナ禍の中で出産するということ」を熟読し、事前に用意できるものをできる限り用意していた(記事を書かれたhannah1229さん、本当に助かりました、ありがとうございます)。

簡単に荷ほどきをし、助産師さんに簡単な病院の説明などをうける。病院から支給されるピンクの(ダサい)パジャマを着て、手術前日の診察を終え(逆子のままだった)、部屋に戻る。

すぐに、夕食の時間になった。病院の夕食は早い。18時台に夕飯が出てくる。初日のメニューは、めかじきの生姜焼きと野菜ソテーとほうれんそうのピーナッツ和えと鶏レバーの旨煮、そして米200グラム。「絶対うちじゃ作らないな〜」と自信を持って言える品々が並び、バランスの取れすぎた夕食だった。うまいかまずいかでいったら、まぁ食べられる、といった評価だろうか。

特にやることもない。スマホをいじりつつも、明日は手術当日ということで、早めに寝ようと消灯時間の21時より前に眠りにつき、清々しい気持ちで朝を迎える

...

はずだった。

「ふんぎゃーーーーーーーー!」
「ぎゃおぎゃおぎゃおぎゃおぎゃお...ぎゃおーーー!」
「んがー!んがー!んがー!んがんがんがー!んんんんんんんんがーーーーー!」

しかし、ここが4人部屋だということを忘れていた。わたしより先にお産を終えた先輩ママさんたち3人は、母子同室を開始していた。つまり、3人の赤子がこの部屋にいたのである。その彼/彼女たちの泣き声が夜通し、かわるがわる、鳴り響く。

赤子たちは「おっぱい飲みたい!」「おむつを換えてくれ!」「暑いんだ!」などといった要求を泣き声で表現する。特に新生児は3時間おきの授乳が必要と言われており、夜中もお乳をあげなくてはいけない。そんなことは事前に読んだ本で知っていたが、いざその壮絶な現場を目の当たりにすると(正確には泣き声しか聞いていないが)、「あぁ、もう夜通し酒を飲みまくってベロベロになって記憶を飛ばしたり、海外のクラブでガンガンに踊ってストレスを発散したりするあの日々には後戻りはできへんのやな」と思ったりもした。つまり、まともに眠れなかった。

入院2日目/手術当日

大学のサークル同期が「帝王切開の予定だったのだけど、手術当日に元に戻って、結局普通のお産をした」という話をZoom飲みでしていたことを急に思い出し、「も、もしや?」と思ったが、朝6時の時点でまだ「逆子」だったので、手術実施が最終決定した。

わたしの手術開始は13時。食事は昨日の夕飯以降禁止だったし、水分補給も午前10時まで(経口補水液2本まで)だったので、少しお腹が空くが、我慢。術後しばらく入られないシャワーを浴びて、徒歩で5階の手術室へ向かう。

「手術で何かあったときのため」に呼び出された夫に会う。会うといっても、「どう体調は?」といった他愛もない会話を移動しながらするだけ。いわゆるぶら下がり取材(会議室から出てきた政治家や家から出てきた取材対象者にボイスレコーダーを向けてコメントを一言もらうアレである)のようなスタイルで、6階から5階に移動するだけで、3分も話していなかったと思う。それでも緊張は少し和らいだ。

助産師さんに連れられ、手術室に入る。

思ったよりも幅が狭い手術台に乗せられ、パジャマを脱がされ、点滴やら心電図やらを瞬時に取り付けられる。そして硬膜外麻酔という部分麻酔をする。全身麻酔でない理由は、赤ちゃんが生まれたときに寝てしまうから、そして母親も生まれた瞬間に立ち会えないからだという。なるほどである。

で、この硬膜外麻酔は背中の神経に麻酔針をぶっさす。まぁ注射は得意やないけど、背中やし見えへんやろうと思っていたが、とんでもなかった。麻酔を担当したのは、黒髪を一つ結びにした35歳ぐらい(推定)の女医。術前に「どうも、よろしくです」とクールに挨拶していたが、思いの外、麻酔にてこづっていた。

実際痛いのは最初の一瞬だけで、あとは背中をぎゅーぎゅー押されている感覚に近いのだが、35歳ぐらい(推定)の女医が

「...うーん、おかしいなぁ」

「9センチのくれる?」

などと指示を出す度にわたしは泣いた。9センチってなんや。針?針の太さ?長さ?え?おかしいって何が?神経ないの?脂肪に埋もれていて見当たりませんか?と、狭い手術台で背中を丸めながら思っていた。

体感でおよそ15分。手術の序盤でこんなにてこづるん?なんなん?恐怖を通り越して、たぶんわたしは若干怒っていたと思う。そして、35歳ぐらい(推定)の女医はついに諦めて「〇〇先生に代わりますね」と言った。さらりと言った。その○○先生のことをわたしはそれまで知らなかったし、顔さえまともに見ていないが、その先生に代わった途端、麻酔が効いた。なんやねん。

そして、執刀のフェーズへ進む。

執刀するのは若い女医(仮にK先生とする)と、いつも診察をしてくれていた男性医師(仮にA先生とする)。2人体制である。なんと手厚いことか!と思ったのだが、ここでわたしは気づいてしまう。

全身麻酔ではない分、わたしの頭はクリアで、耳も目も自由なのである。

つまり、無音の手術室で繰り広げられるK先生とA先生の会話が聞こえた。分娩室は好きな音楽が流れると勝手に思っていて、ミスチルかサカナクションにしてもらおう〜と思っていたが無駄な妄想だった。

「五月女さん(わたし)、切りますよ〜」(by A先生の優しい声)のあと

「...見当たらない」(by K先生の焦った声)
「よく探して?」(by A先生の厳しい声)
「ありました!」(by K先生)
「よし」(by A先生)

そんな声が聞こえるのである。K先生は研修生なの?というぐらい不安そうな会話しかせず、A先生もそれに対して厳しくいろいろと指導しているのである。下半身は麻酔が効いているので、痛みは全くないのだけれど、そんな二人の会話が聞こえるので、不安感は増すばかり。

さらには、頭上にある銀色の手術ライトに、わたしの腹部が反射してぼんやりと見えることに気がついてしまった。社会人になるときに目のレーシック手術を受けた自分をこのときばかりは呪った。目がよすぎる。なんで見えないものを見ようとするんだ。赤い血まみれのわたしのお腹。どれが子宮なのか、どれが腸なのか、細かく判別はつかないが、開腹していることははっきりと分かった。

時間の感覚がなかった。この状況でも寝られるぐらいの大らかな人間でありたかった。涙があふれ出る。この涙の感情を説明するのはむずかしい。女はときどきそういう涙を流す、ということにしておきたい。そばにいた助産師さんがガーゼでそっと涙をふいてくれた。赤子には無事に生まれて欲しかったけれど、とにかく手術は早く終わって欲しかった。そう思っていたら、ぎゅっとお腹に力がはいるような感じがして。

んぎゃっ...んぎゃっ...んぎゃ?んぎゃーーー

午後2時1分。娘の声がした。う、生まれた?生まれた、生まれた!生まれた!!感動というより、安堵の気持ちの方が大きかった。娘は3500グラムを超える「決して小さくはない赤ちゃん」(by A先生)だった。一瞬だけ娘をこの目で見て、頬を撫で、手を握ることを許される。第一印象は髪の毛がふさふさだな、ということ。しっかりと手を握り返してくれた。

画像2


はじめての出会いはほんのわずかで、娘はそのまま新生児室へ連れて行かれ、わたしはそのままお腹の縫合作業へと移行した。相変わらずK先生とA先生の会話は聞こえ、「早く終われ」と祈るだけだった。

手術が終わっても麻酔は効いたまま。ベットに寝たまま部屋に戻る。

途中、再びぶら下がり取材スタイルの夫に会い、短く言葉を交わしたが、率直な出産の感想は「娘に会えた喜び」よりも「生々しい体験をしてしまったトラウマ」の方が優っていて、夫にも愚痴を言った記憶がある。ごめん、夫。からだのそのものの痛みよりも、生々しい手術を一部始終目撃してしまったという精神的なダメージの方がはるかに大きかったのだ。

下半身は力が入らず、尿もカテーテルのおかげで勝手に処理される。血栓ができないように、両足は加圧ソックスを履かされ、さらに弱々しい医療用マッサージ器が装着される(分かる人に分かればいいが、英国式のマッサージ並みの弱さだ)。そして、胎盤などお腹に残ったもの(悪露)をうけとめる、びっくりするほど巨大なナプキンや、痛み止めの点滴、心電図などをつけられる。

1時間おきぐらいに看護師さんが様子を見にきてくれるが、ひとりでは何もできないし、本当にボロボロの状態になった。数時間前までお腹にいたはずの娘分の重みは確かに感じないものの、あとは「大事故で奇跡的に生き延びた人」のような感覚だった。

だれだ「帝王切開は楽でいいよね」と言った人は。


入院3日目  

画像3


麻酔の副作用か若干熱っぽく、ナプキンは蒸れ、大量に出てくる悪露は気持ち悪く、2~30分に1回は起きてしまった夜。同室の赤ちゃんも泣いていたのかもしれないが、泣き声の記憶はなく、ひたすらに「不快」な夜を過ごした。できることならわたしもワンワン泣きたいぐらい辛かった。

「動かないと回復が遅くなる」と助産師さんや看護師さんに励まされ、部屋の中にある5メートル先のトイレに行く練習をする。

まず、起きて立ち上がるのがつらい。腹に少しでも力をいれようとすると激痛が走る。え、立ち上がるのってこんなに腹筋必要でしたっけ?と叫びたくなる。

ようやく立てたと思うと、次は悪露の大放出である。はじめて生理になって、パンツを汚す失敗してしまった時の、あの恥ずかしさが蘇る。ポタポタと滴り落ちる血。「あとで拭いておきますね〜」と看護師さん。いや、ほんと、生きててすみませんという気分になる。たった5メートルが途轍もなく遠い。

昼食、夕食と運ばれてきて、食欲はあるのだな、と自覚する。しかしからだは非常にダルいし、痛いし、まだまだボロボロ。自分のからだなのに、他人のからだを操っているような感覚にさえなる。

明日から母子同室となるのだが、歩行訓練も兼ねて、新生児室へ行くことにする。娘を尋ねて30メートルである。点滴棒と呼ばれるコロコロがついた杖みたいなものを握りしめ、一歩一歩。...娘に会うんだ...毎日写真を撮るって決めたんだから...きょうの分は撮れてないんだから...と思いながら、文字通り命がけで歩く。30分ぐらいかかっただろうか。痛みを堪え、生まれたばかりの娘に会う。

From自分の腹の娘なのだが、正直にいうと、本当の意味で産んだ自覚がこのときはなかった。かわいいな〜ちいさいな〜とは思うのだけれど、未確認生命体をみているような気持ちに近い。30分かけて歩いてきたのに、10分程度しか会わなかった。どう頭を撫でればいいのか分からなかったし、ちょっと泣き出しそうな娘をどうあやしていいか分からなくて困った。この子ががわたしの娘なんだなぁ。

入院4〜6日目

妊娠期間中にずいぶんと酷い悪阻を経験し、日に日に大きくなるお腹と強くなる胎動を感じていたから「母になるんだ」という自覚はあったのだけれど、あぁ母になったのだ、この子はわたしが守らなくてはいけないんだと思ったのは、母子同室が始まってからだった。暗い病室で、わたしのおっぱいを求めて「ふぎゃふぎゃ」と泣く娘をみたときに、初めて思った。

からだの痛みは相変わらず残っていて、わたしを苦しめてはいたが、さらなる問題が勃発した。おっぱいである。

もともと巨乳なわたし。学生時代に演劇をやっていたのだが、胸がデカすぎて、キャミソールの衣装から乳が溢れ出そうだというダメ出しをもらい、「とんでもない乳だなぁ」と先輩にしみじみ言われたぐらい巨乳なわたし。そのおっぱいを飲ませることが、これまた一苦労なのである。

母子同室の開始=3時間おきの授乳がスタートということになる。はじめておっぱいを飲ませるときは助産師さんが手取り足取り教えてくれるのだが、それ以外は基本的にわたしの責任で、娘におっぱいを飲ませなければならない。

助産師さんがそばにいてくれるとちゃんとできるのだけれど、いざ一人でやってみようとすると、なかなかうまくできない。娘をどう抱いて、どう乳首を咥えさせるか。角度やらタイミングやら高度な技なのだと思い知る。

乳頭保護器なる便利グッズを使いながら、どうにか母乳を飲ませようと試みるが、娘はあんまり飲まない(出ない)ので、どうしても病院が用意してくれる液体ミルクに頼りがちになる。だって、ミルクはぐびぐび飲むんだもん、娘。

そんな感じでわたしがいじけている間にも、おっぱいはどんどん母乳を量産し、おっぱいはおっぱいのキャパを完全に超えて、それ自体がモンスターであるかのような形状になった。特に入院6日目はおっぱい自体が熱を持って、おっぱいが痛くなった。濡らしたガーゼを当てるとだいぶ落ち着いたが、おっぱいが膨らんで痛み出すという経験は初めてで、感覚だとKカップぐらいあったと思う。たとえじゃなく、まじで石のように硬くなったおっぱいが今度は悩みの種となっていった。

入院7〜9日目

おっぱいやうんちの記録をつけたり、体温や体重を測ったり、小児科や整形外科の検査に娘を送り出したり。日々のルーティーンをこなしているだけであっという間に1日が終わっていく。

おっぱいの上手な飲ませ方をベテランのおばちゃん助産師さんに教わる。「おっぱいが大きいからフットボール抱きね!」「はい!いま!もっと深く咥えさせる!」体育会系の部活の指導かよとツッコミたくなったが、それでもありがたい時間だった。まだまだ授乳がうまくいかないときもあるが、はちきれんばかりのKカップおっぱいではなくなった。指導を終えたおばちゃん助産師さんは、わたしのおっぱいを揉んで「いいね〜!ナイスおっぱい!」とだけ言って去った。

気がつけば、わたしがいた4人部屋で「一番長く入院している人」になった。ほかの妊婦さんとはトイレやシャワーを使ったり、新生児室にミルクを取りに行くときぐらいしか顔を合わせないのだが、部屋はとても静かなので、カーテン越しに看護師さんらとの会話が漏れ聞こえてくる。

初産であること。おっぱいの出があんまりよくないこと。入院の書類が足りないこと。貧血のこと。日本語があまり話せないこと(たぶん外国籍の人なのだと思う)。一律10万円の給付金は新生児ももらえるのかどうか...。いろんな悩みが聞こえてきて、あぁみんな静かに悩んでいるんだな、と妙な連帯意識が芽生える。点滴棒をもってヨロヨロ歩く術後の女性を見かけたり、この世のものとは思えないぐらいの悲鳴(のちに陣痛と知る)を聞いたり。

それぞれがそれぞれにいっぱいいっぱい。一生懸命に、生まれたばかりの命を守ろうとしているのだなと思った。

入院10日目=退院の日。

退院当日の朝は早かった。

最終的に退院できるか判断するための午前5時の採血から始まり、娘を新生児室に預けて(娘も異常がないか確認するための診察があった)、部屋の掃除や荷造りをして、書類を提出して、会計をして。ついに退院か〜と感慨深い気持ちにもなったが、助産師さんたちが盛大に送り出してくれるわけでもなく、思ったよりもドライに退院をした。

夫が迎えにきてくれていた。LINEで連絡はとっていたが、ほぼ10日ぶりに会った。「娘ですよ〜」。娘を夫に託した。初めて娘を抱っこした夫の手は少し震えていた。「これからが本番だね、がんばろうぜ」。そんな感じの会話をした。すごく、心強かった。

こんな感じで、コロナ禍の中で出産するという、なかなか歴史的な出来事を経験した。娘をはじめ、末長く後世に語り継いでいきたいと思う。

画像4

あとがき


娘が生まれてから1ヶ月ほどが経った。

忘れないうちに、と思って書いた今回の出産の記録。緊急事態宣言は解除されたとはいえ、いまもまだ新型コロナウイルスの感染拡大は予断を許さない状況だ。

これから出産を控えている全国の妊婦のみなさんは不安なことが多いと思うが、どうか頑張ってほしい。この記録が参考になったとは到底思えないが、陰ながらみなさまの安産をお祈りしている。そして、医療従事者のみなさまにも改めて感謝を伝えたい。ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?