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PASSION 第5章 テレレと日本食 文化の融合 移民に宿る、甲子園の心  パラグアイ

パラグアイ~歴史は浅いが思いは深い~

  南米諸国と日本人移民の結びつきで、最も歴史が浅いのが南米大陸の中央に位置する国・パラグアイだ。1936年8月に11家族81名がラ・コメルナ移住地に入植したのが始まりとされている。ペルーに日本人が移住してから37年後のことである。
  それでも苦労は他の国と同様だ。原生林を開拓していくために、続々とパラグアイ各地に日本人が入植した。パラグアイの主要作物である大豆生産に多大な貢献をしているのが日本人なのだ。農業への貢献も大きく、パラグアイ人の食生活を改善させたとも言われている。
各地に9つの日本人会とひとつの日系団体がパラグアイ日本人連合会に所属しているという。
   パラグアイの日系人は一世のほとんどが現役であることもあり、日常会話は主に日本語という特徴がある。世界三大瀑布のひとつ・イグアスの滝の近くにあるイグアス移住区は、今や観光地としても旅行者に人気の場所だ。

盆踊りから5日後、ブエノスアイレスからバスで13時間、私はパラグアイ・エンカルナシオンに到着した。くっきりとした青空、照りつける強い日差し、赤土の道、レンガづくりの家。ボリビア・サンタクルスの街並みによく似ている。
パラグアイで特徴的なのが、テレレをする姿。テレレとはマテ茶を冷たくしたもので、緑茶のような味がする。マテの葉を入れるマテ壺と茶こしつきのストローであるボンビージャを使って口にする。何人いようが、マテ茶を飲むときに使用するマテ壺とボンビージャはたったひとつ。つまり、まわし飲みなのだ。「グラシアス」(もうけっこうだ。ありがとう)と言うまで、まわし飲みは続いていく。テレレをするには水の入ったウォータージャグのようなものも欠かせない。
エンカルナシオンのセントロであるバスターミナル周辺は商店に囲まれている。雑貨店では商品が陳列されている棚の隙間にマテ壺が置いてあった。バスターミナルでも数人が、木の下にあるベンチに座ってテレレをしている。学生らしき若い女性たちでさえ、マテ壺が吊るされたウォータージャグを勉強道具と一緒に持っている姿があった。
どこでも、テレレ。それがパラグアイなのだろう。

   野球大会は明後日からだと聞いていたが、それ以上のことは何もわからず、ピラポに宿泊施設があるかどうかも不明であった。メモしておいたピラポ日本人会に電話をかけた。
「野球の取材ですか。知り合いは?…いない。こちらに宿泊施設はないのですが、青年海外協力隊(協力隊)の家に泊まれる可能性があります。明日こちらに来た方がいい。成人式もありますよ。来たら何とかなりますから」
―何とかなる。
宿泊施設はない?色々不安だが、信じて行ってみよう。

ピラポ移住地へ足を入れる ~まさかの成人式参加~


翌日11時半、フロントガラスに「PIRAPO」と書かれたバスに乗り込む。バスターミナルに入ってきた。車体全体が錆びているほどの古いバスだった。
エンカルナシオンからピラポ移住地までは1時間半程度だと思っていたが、すでに2時間近くが過ぎている。不安になっていく…。バスが休憩したところで、スタッフに「ピラポに着いたら教えてください」とスペイン語で伝えておいた。
そこから20分、ドイツ人の移住地らしき欧風の家屋が並ぶ一角を過ぎると「Bienbenido Pirapo」(ようこそピラポへ)との看板が見えた。日本人の姓が書かれた表札を見て安心する。肝心の日本人会館はどこだろうか。辺りは家がポツン、ポツンとあるだけで、静かである。“まち”というような風景がない。
「ここがピラポだけど、どこへ行く?」
バスの運転手が聞いてきた。
「日本人会館です」
そう伝えるとすぐにバスが停車した。行き過ぎてしまったらしい。戻ってと合図され、急坂を上りきった一本道の上でバスを降りた。
道の反対側にある建物から日系人らしき女性が出てきた。バックパックを慌てて背負い、そばに行く。
「日本人会館はどこにありますか?」
この建物はピラポ役場で、日本人会館は急坂を下りきったところにあるようだ。
「その荷物、大丈夫?誰かここを通れば連れて行ってもらえるんだけど」
車が通る気配はない。だがその距離はたったの300mくらいである。
「大丈夫です」
そう答えたものの、急坂は急坂である。バックパックが重い。ブラジルのアマゾン河をフェリーで旅する計画のあった私。フェリーではハンモックで寝る必要があるため、ユバ農場にいた旅人から私はハンモックをもらっていた。その重さもバックパックに加わっていた。
汗をだらだらかきながら、日本人会館の入口に到着した。近くにはゲートボールを楽しんでいる高齢者たちの姿が見える。
入口を過ぎた左側には大きな体育館があり、駐車場をはさんで坂を上がる。右方向には観客席つきの野球場と相撲場があった。その手前にピラポ日本人会館があり、昨日電話で対応をしてくれた日本人会理事長の佐藤さんを訪ねた。会館は成人式の準備の真っただ中だった。
「初めまして。昨日電話した向田奈保です」
「ようこそ。佐藤です」
会議室へ通された。
「宏子、昨日話した人が来たよ」
海外青年協力隊の介護職としてピラポに赴任している宏子さんを佐藤さんは呼んだ。
「初めまして。テレレをやったことはありますか」
首を振る。牛の角を削った形をしたマテ壺、お茶葉、水が用意された。3人でテレレタイムだ。
そうするうちに、この日は宏子さんの家に泊まらせてもらえることになった。佐藤さんは成人式の準備に戻り、私は荷物を置きに宏子さんの家へ。
日本人会館から歩いて10分。赤レンガの家が数件建っている場所が、協力隊のために用意された住宅だという。宏子さんの隣の家から出てきた男性は日本語教師のジュンタさん。昼寝中だったジュンタさんは、宏子さんの携帯電話で無理やり起こされ半裸で登場。
「こんな姿ですみません。あとでゆっくりお話しましょう」
宏子さんの家で一息ついて、お茶をもらってくつろいでいた。
「わたし、このあと仕事があって。夕方には戻るけど、ほかの隊員の家に案内するね。隊員全員が成人式に呼ばれているし、なほちゃんも参加しちゃいなよ。スーツ貸すから」
旅行者でフラッとやってきた私。厳粛な成人式にいきなり参加してしまって良いのだろうか。そんな不安をよそに、宏子さんはスーツとブラウスを持ってきた。
「はい。あとで着てね」
宏子さんが案内してくれたのは、幼稚園の先生として昨年11月に赴任したばかりの隊員・愛さんだった。
愛さんは、食堂を経営しているパラグアイ人の夫婦の家にホームステイをしているという。
「農協に行きませんか?」
帽子をかぶり、愛さんとピラポ移住地を歩きだす。「小児科」と書かれたかわいい看板、「Av・Japon」(日本通り)と名づけられた道がある。
一面茶色の近代的な建物がピラポ農業協同組合=農協だ。店内はクーラーが効いていて心地良い。もちろんパラグアイの食品も置かれているが、しょう油などの調味料、カップラーメンなどの日本食材も多く、地元の人が作った納豆や大福なども売られていた。
愛さんの家でフルーツサラダとパラグアイの名物スナック・チパを食べながらゆっくりしていた。16時すぎ、スーツに着替えた愛さんと、宏子さんの家に戻る。宏子さんもすでにスーツに着替えていて、私も借りたスーツに身を包んだ。この旅でスーツを着る機会があるなんて思ってもみなかった。
「お疲れさま!!」
元気な声とともに女性がひとりやって来た。幼児教育隊員のあやかさんだ。ジュンタさんもやってきて、宏子さんの家はとても賑やか。スーツ姿の若者5人が日本人会館に向かった。


濃紺と純白のリボンで飾られた式場では、ピラポで育った12人の新成人たちがドレス、スーツをまとい、緊張した面持ちで座っていた。私たちもイスに座る。
式目は順調に進んでいった。隊員代表として祝辞を述べたジュンタさんは、あと半年で二年間の任期満了となり日本へ戻る。すっかりピラポに溶け込んでいて、新成人たちとも仲が良い。新成人らをあたたかく見守る目が印象的だった。
式が終わると、豪勢な日本料理の数々がテーブルに並べられた。すべてがピラポの婦人部による手づくり。巻物、いなり寿司、赤飯に、刺身、煮物、唐揚げ、漬物…。私たち5人は、成人以上にがむしゃらに食べていた。 



後ろのほうにはフルーツバーがあり、スイカやメロン、マンゴーなどがてんこ盛りだ。巨大なスイカには「成人式」「20」「祝」といった文字が刻まれていて、文字のない部分はスイカの赤色を活かしたバラのような花びらが彫られている。もはやこれらは芸術作品。すごい。



成人式に参加できたことも、こんなに美味しい日本食を食べられたことも、4人の隊員たちに出会えたことも、すべてが嬉しかった。婦人部の人たちも、よそ者の私に明るく接してくれる。
宿がないピラポ移住地は閉鎖的だと言われることもあるようだが、「パラグアイに来たら、ピラポを見なあかんよ」と言った人がいた。
隊員としてはアフリカで仕事をするのが希望だった愛さん。だが赴任地は南米・パラグアイだった。パラグアイなんてどこにあるのかも知らなかった。でも来てみたら、こんなにも心地良い。
「ピラポに来て良かった」
愛さんはいつもそう思っているという。
今年の夏、両親がピラポに遊びに来てくれる。きっと喜んでくれるはずだ。


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