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PASSION アマゾンの移民のふるさと“花胡椒・トメアスー”

 胡椒の産地・トメアスー

  アマゾンにももちろん日本人は移民として足を踏み入れている。
   ベレンに着いて4日後、私はアマゾンの日本人移民が最初に開拓した土地・トメアスーに向かった。
 
   19世紀中ごろから20世紀初頭にかけて、アマゾンに自生しているゴムの木から採れる天然ゴムが世界需要で一大ブームとなった。大量のゴムがヨーロッパへ輸出されていったのだが、1915年にイギリス人がゴムの苗を東南アジアに植えたことでゴムの生産地はアマゾンから東南アジアへと移っていく。ゴム景気は衰退した。
   それならば、アマゾンが発展していくには農業しかない。外国移民による開拓を狙ったブラジル側。州政府が外国人に土地を無償譲渡したのである。
 そのころ、ブラジルの日本人移民の大半がサンパウロやその近郊を開拓していて、地理的な偏りがあった。日本人の排斥運動を警戒していた政府はさっそくアマゾン地域の調査を始め、移民計画の目星を立てた。
アマゾンに日本人が入ったのは1929年。パラ州のアカラ植民地(のちにトメアスーに改称)に189人が入植したことによる。
  しかし、アマゾンの熱帯農業の知識を日本人は持っていなかった。主作物と想定されたカカオの栽培に失敗し、悪性のマラリアも蔓延した。脱農者が続出する。多くの移民がベレンへと転住したが、ベレンへの移動さえも、当時陸路はなく、船で12時間以上かかってしまう。
   こんなところで何ができる。どうやって生きる。
  1935年から42年の間に374家族・2104人が入植しているが、276家族・1603人が脱農している。留まったのはたったの98家族483人だった。
トメアスーは「緑の地獄」「陸の孤島」とまで称された。
そんな暗闇に光が差したのは胡椒栽培の成功によるものだった。

   1933年、臼井牧之助がシンガポールから持ちこんだピメンタ(胡椒)の苗20本のうち、2本が活着した。この胡椒が1952年に大高騰し、ピメンタブームの到来を告げた。高値で取引された胡椒を「黒ダイヤ」と呼び、ピメンタ御殿と呼ばれるくらいの立派な家が次々と建てられたという。
   1940年代から60年代まで続いたピメンタブームだったが、1974年の異常気象による水害と土壌病害がピメンタ産業に致命的打撃を与えた。
   その後、トメアスーではカカオやパッションフルーツなどの植え付けが盛んになった。胡椒だけでは生活できないことを知ったのである。景気、不景気の波があるものの、野菜やアマゾン特有のフルーツ栽培といった複合栽培農業の成功により、トメアスーはブラジルで確固たる地位を築いた。
    日本人が拓いた土地、トメアスー。
 トメアスーを知らない日系人も、ブラジル人もいないという。
 
    ベレンとトメアスーは約200キロ離れているため、バスで5時間ほどかかる。
 バスの終点はバス会社のオフィスがちょこんとあるだけの一般道の脇だった。一般道といっても赤土で、両脇には小さな商店が連なる田舎道である。
 バスを降りるとすぐに、タクシーの運転手が近寄ってきた。
 「どこへ行く?」
 タクシーに乗る気はなかったが、目的地・日伯協会の場所を尋ねてみた。
 「ここから遠いよ!乗りな」
 運転手は考える時間をくれなかった。私のバックパックをすでに車に乗せようとしている。トメアスーの地図はなく(『地球の歩き方』には全く掲載されていない)、目指す日伯協会までは「バスの終点からまっすぐ進めばいい」という情報しか持っていなかった。
 ここで迷っても仕方ない。乗ろう。
 土まみれの汚れた車内に「禁煙」などという日本語のシールが貼られているものだから、笑ってしまう。運転手と話す時間もなく、日伯協会の入口“トメアスー文化農業振興協会”と書かれた建物に着いてしまった。1キロにも満たない道のりであった。
事務局で訪問の意図を伝えたあとに現れた男性は、マナウスの木場さんが紹介してくれた日系二世・柴田さん(48)だ。
 柴田さんは私が野球について知りたがっていることを知ると、すぐにトメアスーの野球事情について教えてくれた。

 トメアスー周辺には3つの野球チームがあり、現在は子どもから大人まで100人くらいが野球を楽しんでいるそうだ。意外にも、半数以上がブラジル人で、サッカーももちろんやるが、野球を始めるとそのおもしろさにハマり、野球好きになってしまうという。
 毎年7月に北伯野球大会があり、ブラジリアやマナウスから野球チームがトメアスーにやって来る。少年野球、青年野球、35歳以上のベテランチームに分かれて試合を楽しんでいるようだ。
 柴田さん自身は7歳から野球を始めた。そのころチームは11ほどあり、野球がとても盛んだった。

野球をやっていくうえで大変なのはやはり道具。昔は牛の皮をグローブに、馬の皮をボールに、バッドは木を伐採して作っていたよ。
90年代のデカセギブームにより、野球をやらない時期が10年くらい続いたが、柴田さんも含めた友人グループで声をかけて、再び野球熱を上げた。コロニア祭りや盆踊り、バザー等でブースを出し、収益金を野球資金にした。
 野球はいいね。野球をやることで子どもは学校の成績が上がった。人間関係も良好になるし、礼儀も身につく。みんなでやるスポーツだから悪いことはできない。そして、地域を超えて友人ができる。ロンドリーナとか、遠い場所にも友人がいるよ。

 柴田さんが、野球場がある総合運動場に連れていってくれた。
 十分な広さをもつグラウンドのそばには窯があり、調理場がある。ぶたの丸焼きやブラジル式焼肉・シュハスコができるようになっているのだ。近くにはブラジル特有の黄色い実をしたピメンタジェイロという胡椒が栽培されていた。ピメンタジェイロと肉を一緒に食べるのがみんなのお気に入りだそうだ。
グラウンドを囲んでいる塀は、バザーの収益金で工事したという。

 この運動場には広々とした野球場とゴルフ場のほか、フットサル場、ゲートボール場、プールがあって、更衣室もある。相撲以外のコロニアスポーツは、すべてここで行えるのだ。
 もちろん緑も生い茂っているから、木陰でハンモックをぶら下げれば心地よい昼寝ができるだろう。毎週日曜日は野球の練習。家族を連れて、休日を思いっきり楽しめそうだ。
 「将来的にはレストランみたいなものも作って、食事ができるようにしたい。管理人もおいて、ここを発展させていきたい」
 柴田さんは言っていた。
 運動場は、日本人移民の功績の証でもある。

 じわじわ汗がにじんできた。トメアスーは内陸部にあるために、ベレンよりも暑い。
 柴田さんは日系人が経営している宿に案内してくれた。日本語が通じるため安心である。広い一軒家の部屋にはトイレ、シャワー、クーラーが付いている。ベッドの上には日本語の文字が入った温泉タオルが置かれていて、懐かしい感じがした。
 この日の夕食は宿から5分も歩かない場所にあるレストランで「ラーメン・エスペシャル」を注文した。
 麺は日本で口にするインスタントラーメンと同じ味だったが、驚いたのは具材である。野菜炒めのほか、ソーセージが2つ、エビ天が3つ、野菜のかき揚げが2つ、丼ぶりの上に堂々と乗せられていたのである。
 確かに“スペシャルなラーメン”だった。


 
 翌朝8時半、朝食だ。
 パン、何枚にも重なったハム、濃厚なチーズ、コーヒー、搾りたて100%のアセロラジュース、ドラゴンフルーツ、マンゴースチン、パパイヤ、トウモロコシ。
 盛りだくさんな宿の朝食。ビタミンが豊富すぎる。アマゾンのフルーツは文句のつけどころがない。



 エネルギーをたっぷり摂取したところで、トメアスー文化農業振興協会会長の海谷英雄さん(66)に話を聞きに文協へ向かった。帽子をかぶり、強い日差しを避けながら歩いていく。
 入口に着くと、海谷さんも到着したところだった。



 
 1962年に山形県から家族でトメアスーに移住した。入植して3ヶ月後には姉をマラリアで亡くしてしまう。
 海谷さん一家は農場主に3年契約で雇われたが、父は入植一年目で原生林の耕地を買った。月曜日から土曜日までは農場主の下で働いて、唯一の休みである日曜日さえも、自分の土地を耕しに出かける日々だった。その耕地は自宅から10キロある。早朝から晩まで休むことなく、思い描く生活へ向かって歩み続けた。
 水は泥水。飲み水は昼間汲んだ水を外に出しておくことで泥を沈めて用意した。家は茅葺き。夜は月の光が家のなかに差し込んできた。蛇やオンサ、猛獣への恐怖が常にあった。非文化的生活を耐え忍んだ。
 やがて独立したものの、農業だけでの生活はままならない。ベレンの農協に就職した。当時、農協がベレンの文化・医療・経営的基盤などを支える柱となっていたという。
 海谷さんは農協から15キロほど離れた場所に住んでおり、毎朝5時に起き、6時に出発。自転車を1時間こいで通勤し、17時まで働く日々を過ごしていた。
 上下関係も昔ながらの厳しいもので、上司からの酒の誘いは断れず、帰宅が深夜になることもあったが、少々のことではへこたれない力が、これまでの苦労で養われていた。定年まで勤めきった。

現在、海谷さんはトメアスー文化農業振興協会会長であるとともに、ベレン日伯協会の副会長、トメアスー十字路病院の運営委員長でもある。

 2009年は日本人がアマゾンに移住して80周年だった。日系人たちの歩み、実績を知ってほしいと、外部との交渉に奔走した。トメアスーは日本人が拓いた土地で“アマゾン移民のふるさと”とも言われている。そしてまだ、80年前に移住したトメアスー移民一世が、3人ほど健在なのだ。
 その事実も今の日本に伝えたかった。天皇皇后両陛下に来てほしかった。あと10年経てば、一世はいなくなってしまう。その意味でとても大切な80周年だった。
 そこで何をしたか。
 海谷さんは外務省に手紙を綴った。皇室ご来伯の要請書を出したのだ。外務省から宮内庁へ要請は伝えられ、かなり前向きな返答があったという。皇室を向かえるための準備は順調に進められていったが、式典開催3ヶ月前、肝心の宮内庁がノーという返事を出してきた。
  2009年6月5日付けのニッケイ新聞にはこう書かれている。

アマゾン地域の連合会、汎アマゾニア日伯協会の堤剛太事務局長も、「アマゾンの声は届かなかった、ちょっと軽く見られた感じがする、そんな程度にしか思われていないのか、などと言っている人もいる。ここの移住者はアマゾン開拓を成功させた矜持を持っているから」と落胆した現地の声を代弁した。

アマゾン移民80周年の式典には、サンパウロから飛行機を貸し切って、 200人以上がトメアスーを訪れたという。
 ここからまた、歴史が積み重なっていく。


 海谷さんは言う。「協会としてはトメアスーの治安維持はもちろんのこと、盆踊りなどの行事も盛んにやって、日本文化の継承に努めていきたい。人材づくりは何よりも大切。既成のものではなくではなく創意工夫して教育をしていきたい」
 トメアスーは胡椒栽培で成功したが、単一作物だけでは安定した利益を生み出せない。思わぬ自然災害もあるし、土が痩せてしまう。そこで、アグロフォレストリーという森林農業を普及させた。木を植樹して、その間で複数の農作物を育てていくのである。
 森を拓くのではなく、畑のなかに森をつくる。森をつくる農業だ。
環境問題に関心のある研究者などがトメアスーに注目し、毎年200人以上が訪れる。それはやがて人的交流や市場の発展にもつながっていく。種を蒔けば、様々な出会いがある。
トメアスーに来たらアマゾンのすべてを満喫できるような場所にしたい。
海谷さんは強調する。
 「戦前移民の苦労を忘れてはいけない」
過去があるから、今がある。そして未来があるということを。
 トメアスーの未来予想図を、海谷さんは明るく描く。

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