「自分はオシャレになろうとしてはいけない」と勝手に思い込んでいた
長いこと自分の身なりに関して、必要以上に気を揉むことを恥ずかしいという気持ちがあった。
子供がオシャレのことなんて考える必要はない
周囲の大人の、子供はできるだけ手をかけず自然のままでいるべきだ。という期待に応えようとしていたし、
思春期に、少し髪を伸ばして毎朝悪戦苦闘して結んでいるのを見た父親から「そんなことに時間をかけて何になるんだ?」と冷やかしを受けたこともきっかけとなり、
自分の姿を鏡で整えている姿を他人に見られたくないと思うようになった。
手を加えたらなんとかなると思って色々努力している自分の滑稽さを誰かに笑われるのではないかと思っていたのだった。
そして、この歪んだ思い込みはそれ以降ずっと私の心に突き刺さり、ことあるごとにこんなフレーズでオシャレになろうとする気持ちを否定してしまう。
〇〇を最優先すべき者が、オシャレになんか興味をもつなんて
〇〇には私が頑張ってきたこと、勉強、研究、育児、そして直近までは仕事という言葉が入っていた。
その歪んだ思い込みは、そのような状況下にもオシャレを謳歌する他人への苦々しい感情さえ醸成し、ますます自分の「べき論」を強固なものにしていった。
…今、これを書いていても、つくづく自分ってこじらせてたな…と思う。
オシャレは自身の心と体を繋ぐもの
と思えるようになったのは、実は本当にごく最近になってからだ。
心と体は一体であるように見えて、バラバラなことが多々ある。オシャレを学ぶことで日々遷り変わる心と体の声を聴き、両者の乖離を調整することができ、精神的、物理的な安定を得ることができる。
頑張っていることがあるからこそ、オシャレは必要なのだ。
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