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無能の存在意義


何か、しばらく前からほんのり思ってることがあって、その結論としては

俗に言う【無能】なタイプの地球上での役目って、[仕事を生み出すこと]でもあるんだろうな。

と、いう部分に行き着きます。

ただし、いつも書いてるように
「無能」
とか
「頭が悪い」
みたいな分け方は間違いなので、その辺を噛み砕いていく内容です。


世の中には
【頭が良い人】
【頭が悪い人】
がいるのではなくて、
【頭の使い方が異なる人】が様々存在している

という認識があるべき形だと私は思っています。

そして、
【頭を使えてない人】
が沢山存在しているのも事実だとも思ってます。

よく、スピリチュアル界隈なんかでは
「脳は本来、受信機の役割をしている。」
の、ような話もありますが、
『脳はスマホのようなもの。』
と、捉えた方が自分を上手く扱いこなせるのではないでしょうか。

スマホは、電話やメールの、発信(送信)・受信も確かに行いますが、電卓機能を代表として演算も行いますよね。

受信(発信)だけでなくて、演算も行う、要は、確実に自分の脳を使って[考える]という機能も使えるし、場合によっては使うべき時もあるんです。自分の力で考えなきゃいけない場面もあるということです。

その、使うべき時に脳を使えていないと、【無能】というカテゴリーに入ってしまうケースもあるということですね。

で、そもそも、本来は
【有能】

【無能】
が存在している訳ではなくて
【頭や身体、延いては"自分"の使い方】が異なる人が様々存在している

という認識が実際の社会を的確に表現する認識だと私は思っているし、当然
【頭や身体、延いては"自分"を上手く扱えていない人】
も沢山存在してると私は思う訳です。

何なら、自分をフルで使いこなせてる人の方が少ないのではないでしょうか。その位、自分の潜在能力を引き出す(自分をうまく扱いこなす)のは難しいのも事実だと私は感じます。

まぁ、
『自分を扱うのは難しいものなんだ!』
なんて思い込みは持つべきではないですけどね。そんなこと思い込んでたら本当に自分を扱うのが難しくなってしまうので、
『コツさえ掴んでしまえば自分なんて上手く扱える。』
程度に思っておけば良いと私は考えてますけど。



そうは言っても、現実社会に生きる上では2:6:2の法則(あるいは働き蟻の法則)というものが作用して
【有能】2割
【普通】6割
【無能】2割
に分かれてしまうのも、事実ではあるじゃないですか。

こんな風に有能とか無能って言葉だと曖昧なので、具体的な数値として表現してみると、

100人の生徒がとあるテストを行う

【有能】(仮名Aゾーン)
〖81点以上100点以下〗
を獲得した生徒が20人

【普通】(仮名Bゾーン)
〖21点以上80点以下〗
を獲得した生徒が60人

【無能】(仮名Cゾーン)
〖0点以上20点以下〗
を獲得した生徒が20人

こんな感じの分布となります。
※イメージの話ですが



こうして数値化すると分かりやすいと思うのですが、Bゾーンに区分されている60人の中で、
・21点を獲得した人
・80点を獲得した人

って、本来は物凄く差があるんです。でも、区分は同じになるので、21点の人も
『自分は80点の人と同じだから~。』
という顔ができてしまうんですよね。蓋を開けてみれば、21点の人は【無能】に区分されている人の方が近いということが事実であるにも拘わらず、20点の人とたった1点違うだけで、59点も異なる人と同じ区分になるのです。

【普通】チームを更に均等に分割すると

〖61点以上80点以下〗(仮名B-1ゾーン)
を獲得した生徒が20人
〖41点以上60点以下〗(仮名B-2ゾーン)
を獲得した生徒が20人
〖21点以上40点以下〗(仮名B-3ゾーン)
を獲得した生徒が20人

に分かれます。

実際のテストをイメージしてみて貰うと伝わりやすいと思うのですが、【Cゾーン】にいると、
『もう、自分は頑張っても無理だから~。』
『やる気無いし~。』
などと、諦めの境地に陥ってる人が多いはずです。

【B-1ゾーン】にいると、
『あと、何を頑張ればAゾーンに入れるんだろう?ミスした場所は?次は何を気を付ければ良い?』
などと、自分の結果への見直しが気になる人が多くなるのではないでしょうか。

そして、【B-2ゾーン】【B-3ゾーン】辺りの人間ほど、自分より点数の低い人を見ては
『点数低いやん、ププ🤪』
と、他人の結果にあれこれ言う人が増えてしまうのが、世の常だと思いませんか?

あくまでイメージの話ではあるんですけど、私個人は様々な学校や職場において、【B-2ゾーン】【B-3ゾーン】の人間が一番、他人に対してうるさいという状況をよく目撃してきました。それで、私個人的には、諦めの境地に入っているというか、どうでも良くなっているような【Cゾーン】の人たちよりも、【B-2ゾーン】【B-3ゾーン】の人たちに対して
『質悪いなぁ。』
と感じる経験が凄く多かったし、その質の悪いゾーンが人数も多い上に声もでかいというのが、社会のネックなんじゃないかな、なんて感じるシチュエーションも多かった印象があります。多かった…と、いうか、現在進行形かもしれません。



【Aゾーン】や【B-1ゾーン】に入る程、自分の結果への感心の方が強まるのは必須、ということは凄くイメージしやすいと思うのですが、どうでしょうか。例えば【Aゾーン】であっても81点だった場合なんかは特に
『やばい…もう少し詰めないと、すぐランク落ちる…。』
というプレッシャーも感じやすいし、【B-1ゾーン】で点数が高くなる程、
『あとちょっとでランクアップできるんだから、ケアレスミスは徹底して潰してやる!』
みたいなギラギラ感って強まりませんか?これらのゾーンになる程、他人に構ってる余裕の方が無くなる印象が強いのですが…皆さんはどうでしょう?

【Cゾーン】も、これはこれで、本気で
『別にどーでもいーんだよねー😋』
というタイプも増えるから、自分も他人もどうでも良い人が結構多いです。何なら、点数を上げようと思った場合には本気を出さないといけないようなレベルなので、それこそ他人に構ってる余裕も無いゾーンではないでしょうか。

【B-2ゾーン】【B-3ゾーン】は【普通】という区分なので、[一番多い60人の中の1人]という実状に安心感を覚えやすいことや、
『どうせ頑張ったところで、普通止まりだし~。』
や、
『別に焦らなくても21点以上なら取れるから~。』
と、良くも悪くも、自分の点数に執着する理由も感じにくいことから、他人の結果が気になりやすいことも、想像に易いのではないでしょうか。

こうして、【Aゾーン】【B-1ゾーン】【Cゾーン】の60人は他人の結果に対してあれこれ言わない状態が出来上がりやすいのに対し、【B-2ゾーン】【B-3ゾーン】の40人はギャアギャアと"他人の結果"に対して騒ぎ立てる状態が出来上がりやすい訳です。

あくまでイメージの話ではあるのですが、私はあらゆる場面でこういう状況を目にしてきました。



不思議なことに、2:6:2の法則が自然に作用するのも、何となく実感してるんですよ。

【めちゃくちゃ仕事する人】
【普通に仕事する人】
【全然仕事しない人】
みたいな。

で、これまた【普通に仕事する人】の中の仕事してない側の人が他人に対して
「あーでもない、こーでもない。」
ってギャアギャアうるさいのもよく目にする気がするんですよね。黙って自分のやるべき仕事に集中してれば【全然仕事しない人】のことも気にならないはずなのに。

つまるところ、"他人に対して"あーだこーだとうるさい人間の言葉が一番無駄な言葉だし、それらを言わないように気を付けられる人が増えれば、心を傷める人だっていなくなるし、いわゆる【無能】が存在することに何の意味も生じなくなるのだから、【無能】が社会に存在して良いということになる、と、私は言いたい訳なのですが…

【B-2ゾーン】【B-3ゾーン】の人たちほど上記の理屈を絶妙に理解してくれないゾーンなんですよね。分かります。



厳密に言えばこの分け方は変なんですけど、例えとして、
・理論派
・感覚派

みたいなタイプ分けもできるじゃないですか。

それで、
理論的な考え方をすべき場面で
【理論的な考え方ができる】2割
【理論的な考え方は普通にできる】6割
【理論的な考え方ができない】2割
に分かれるのも当然だし、
感覚で捉えるべき場面で
【感覚的な捉え方ができる】2割
【感覚的な捉え方が普通にできる】6割
【感覚的な捉え方ができない】2割
に分かれるのも自然なことです。

そんな中で、
どっちかなら【できるゾーン】に区分される
っていう人の方が圧倒的に多いはずなんですよ。

人間、何かしらのジャンルで【できるゾーン】にカテゴライズされることが至極当然なんです。

逆に言えば、何かしらのジャンルで【できないゾーン】にカテゴライズされることも至極当然ということなんですよ。

だから、
「【できないゾーン】に入って…ププ…プギャアm9(^Д^ )」
なんて指摘することは、
リンゴに
「お前何赤くなってんだよm9(^Д^ )」
って言ってるようなものなんですけどね…。



前置きで物凄く話が膨らんじゃったんですけど、とにかく、特定の場面においてその作業(行動)が
【得手】
【普通】
【不得手】
に分かれてしまうことは自然なことだし、【不得手ゾーン】の一員として区分されてしまう場合があることも自然、仕方のないことなんですよ。

会社という小さい単位じゃなくて、社会とか、世の中、みたいな大きい規模で考えた場合に、
【有能】(に区分される、仕事を片付けるのが得意な人)
【普通】(に区分される、仕事を適度にこなす人)
【無能】(に区分される、仕事を増やす人)

が、バランス良く存在するから、市場が生まれるんだ、って、イメージ湧きませんか?

【有能】しかいなかったら、世の中から仕事が消えるんです。仕事が消えると、経済は動きませんよね。

【無能】しかいなくても、仕事が片付かないで、蓄積する一方だから、経済は動かなくなるんです。

社会活動を育むという視点で考えた場合、【仕事を増やす役割】ってある程度必要なんです。

ただし、これが会社など、小規模な世界の中で発生することや、その作用を上手く活用しきれていないことが、様々な不満を生む原因にもなっているんですけどね。それから、現代はまだ【搾取しようとする存在】も潜んでいるせいで、上手く仕事を増やす→こなす→片付けるのサイクルが上手く循環できてない側面もあるということになります。



これまでの時代では、
有能=良い
普通=まぁ良い
無能=悪い

の、ような変なジャッジが当たり前とされてきてたので、
「無能、プギャアm9(^Д^ )」
と、バカにされたり、
「できるようになりなさい!」
と、怒られるなど、他者からの指摘で心を傷めた経験がある人が大勢いるはずです。

他者からの余計なジャッジ、指摘、が物凄い量の劣等感を生み出し続けてきたし、その物凄い量の劣等感が、おびただしい量の拗らせを生み出し続けてきていました。そしてそのおびただしい量の拗らせが、また別の人を傷付ける…という、負のサイクルを生み出し続けてきていたので、現代社会においては
『よし、自分を上手く扱うぞ!』
みたいな段階にまだまだ届かない、
『まずは、劣等感を取り除くぞ!』
という部分に着手すべき人間の方が多いはずなんですよね。まぁ…その2点は平行して取り組むこともできるものなので、別にとやかく言う必要もないのですが、劣等感は本当に無駄なので、さっさと手放した方が自分のためにも人のためにもなる、と、私は思います。



先ほども書いた通り、
「無能に分類されてんじゃん、プギャアm9(^Д^ )」
という指摘は、リンゴに対して
「お前何赤くなってんだよm9(^Д^ )」
と指摘しているようなもので、無意味だし、無駄だし、何なら他人の足を引っ張る言動でしかありません。

と、いうことは
「無能に分類されてんじゃん、プギャアm9(^Д^ )」
という指摘に対する劣等感も、無意味だし、無駄なんですよね。



『劣等感を埋めるためには優越感を味わうべきだ。』
って思い込んでる人の数も多いでしょうけど、この認識は違います。

劣等感を手放すには、劣等感を感じないようにすれば良いだけだし、劣等感を感じないようにすることと優越感を味わうことは、全く繋がりは無いのです。

優越感のスイッチを入れれば劣等感のスイッチが切れる
のではなくて、
劣等感のスイッチを切るから劣等感のスイッチが切れる

この部分の理解も大事ですね。

ところが、世の中には、
『劣等感を埋めるために優越感を感じる必要がある!』
という勘違いもなかなかに蔓延っていて、そのことから、
[自分が【できる】に区分されるジャンルを探す]
ということをする人もいます。勿論、この行動自体はとても良いことだし、大事なことではあるのですが、いざ自分が【できる】区分に入った際に、その時の【できない】区分の人をプギャる人が出てしまったり、
『このジャンルなら【できる】区分に入れる!』
と、思い込んでいたジャンルで【普通】区分止まりだったりした際に著しく向上心を損ねてしまう、など、弊害を生んでしまうケースも少なくありません。

自分が優越感に浸れることを探す、所謂自分の得意分野を探すことも重要でありつつ、

『優越感に浸ることが劣等感を消してくれる訳ではない。』

という点への理解は押さえておかないと、結局拗らせの連鎖は止まらなくなってしまうのです。まずは、
『劣等感を感じるのを止める考え方を探してみる。』
という方向に意識を向けてみることが、現代に生きる多くの人にとって重要なことになります。



会社やチームといった、小さな組織の中に埋もれていると、どうしても
『無能=邪魔』
という印象を感じたり、イライラしてしまうこともあるかもしれませんが、実は
【仕事を増やす人】
って、社会生活を育む上ではとても重要なポジションでもあるんです。

ただし、現代においては
『自分は無能だ。』
『無能な自分はいけないことだ。』
の、ような変な劣等感の拗らせによって、適切な機能を果たす役割の無能ではなく、他者をも巻き込んで足を引っ張ってしまう無能が沢山生産されてしまっている側面があることも、また事実です。

この、複雑に絡み合った拗らせの糸は、丁寧にほどいていく必要があるし、そのためにもまずは
有能=良い
普通=まぁ良い
無能=悪い
の、ような変なジャッジを手放してみることから始めてみると良いのではないでしょうか。



一応書いておきますが、
【業績を出す有能】
【業績が全く出ない無能】
みたいなパターンもありますよね。

この手の有能、無能も、要は
・業績を出すための行動を確実に片付けられるから有能
・業績に関係のない行動ばかりに注力してるから無能

と、いうパターンが多く、結局突き詰めていくと
・仕事を片付けるタイプ
・仕事を増やすタイプ

に区分されていくことになるので、話は同じなんです。

それから、場合によっては
・細かい部分を気にしないでサクサク片付けるから有能
・細かい部分にあれこれ気付くから手に終えなくなる無能

の、ようなパターンもあります。ところが、このケースだと、職種や場面次第では
・細かい部分に気付かないから無能
・細やかな気遣いをできるから有能

ということもありますよね。

だから、やっぱり、有能とか無能っていう言葉で区分するんじゃなくて、どういうタイプか見極めることが、様々な場面において大事なことなんですよね。

まじで、劣等感は無用の長物って訳なんです。



人間、自分に対して
『自分はダメだ…。』
などと暗示をかけ続けると、本当にダメダメムーブをしてしまうようになるんですよね。実は潜在能力的には全然ダメじゃないにも拘わらず、自分の暗示によって自分をダメにしてしまっている人って物凄く多いんです。

ですが、その
『自分はダメだ…。』
と思い込まされたきっかけが、他人からの指摘だったのであれば、その思い込みは持つ必要も、持つ意味も全くない代物なので、さっさと手放してみることをおすすめします。

自分のことを
『良い』
とか
『悪い』
とか、いちいちジャッジしないで、ありのままに自分を捉えられる人が1人でも増えますように。

⚠️ここからは、スピリチュアルな解釈をガンガンに書いていくので、スピリチュアルな話に興味の無い人は以上でブラウザバックお願いします。⚠️



途中の例として挙げた、
【B-2ゾーン】【B-3ゾーン】の人たち

時と場合によっては、こういう人たちを黙らせる役目を担う必要があるのが、
【ライトウォーリアー】
と呼ばれる類いの人種なんですよ。【スターシード】の一種でもあるだろうけど、【ライトワーカー】などと呼ばれるような人種とも役割が若干違う、世の中の悪習慣をバッサバッサなぎ倒していく感じの人種ですね。

何を隠そう、私はこのライトウォーリアータイプなんだと感じてます。これも、あんまり
『自分は○○タイプだ!』
とか思い込んだり分類すべきじゃない事柄だとも思ってるんですけど、目安として自分がどういうタイプで、どういう傾向の出来事と向き合う羽目になりやすいのか知っとくことで、無駄に嫌な思いをしなくて済むので、一部の人は押さえておくと良い内容なのだと思います。



私のブログがピンときやすい人は恐らくライトウォーリアーの傾向が強いタイプが多いはずです。

ライトウォーリアーも、他のライトワーカーの人たちと同じように
[人々を目覚めさせるサポート]
を担ってはいるのですが、ライトワーカー系の人々が
「努力とか、苦労じゃなくて、楽しくなれるような選択をすれば良いんだよ~◎」
という方向性の教えを広める役目であるのに対し、ライトウォーリアー系の人々は
「「努力すべき!」みたいな押し付けは止めなさい!」
のような、少しキツめの制止を行う役目に回ることがちょいちょいあるんですよね。

好戦的な訳ではないというか、頭では別に争いたい訳ではないんだけども、過度の思い込みから攻撃的になっている人と対峙した際なんかには毅然とした態度で
「それは正しいとは思いません!」
など、ハッキリ伝えるって場面を経験しなきゃいけないタイプだから、意に反して悪者扱いされることもあるはずです。損な役回りになる体験が少なくないって人も結構いるんじゃないでしょうか?ライトウォーリアーは、甘い言葉ではなく、鋭い言葉で人々に気付きを促す傾向が強い訳です。



スピリチュアルが得意なタイプは、理論派というよりも感覚派が多いです。と、言うか、理論派でスピリチュアルが得意なタイプだと、色々と理論で片付けられるので、自分がスピリチュアリストだと気付いてない人が多いのではないでしょうか。

まぁ人によりけりなのですが、感覚派の人は、様々な事柄に意識が向きやすかったり、理論が苦手ということなどから、勉強が苦手になってしまう人も多く、そのせいで
『自分はダメだ。』
と劣等感を抱えてしまう経験を繰り返したタイプも少なくないはずです。

そこで、自分が得意なジャンルを見付け、スピリチュアルに一生懸命になったりする訳なのですが、
劣等感の拗らせ→得意分野探し→スピリチュアルへの傾倒
という経緯を辿ってしまったタイプは、変に選民意識を持ったままスピリチュアルな発信などを行うので、こうなってしまうと
人がスピリチュアルに目覚めるような話
よりも
スピリチュアリストだと演出できるような話
を好む傾向が強くなり、本末転倒な結果を招いてしまったりもします。

別に、本人が楽しんでいるだけならそれで良いのですが、
目覚めを促すこと
よりも
スピリチュアルな世界観に浸ること
を優先して、信者同士というか、仲間内で固まって先へ進まないようなことをやっているのは、ライトウォーリアー系から見ると

『いやいや、目覚めたい人の足、引っ張っちゃダメでしょ!』

って、イラッとしてしまうことも少なくないのだと思います。とりあえず私は完全に見ていて不快になるタイプです。



本来、持つ理由も意味も無いはずの【劣等感】を手放しもせず、その劣等感を拭う目的で優越感に浸ろうとすることにスピリチュアルを利用し、優越感を得るための解釈ばかりするようなスピリチュアルな話は、本気で淘汰されて欲しいと、私は思っています。

だから、

「そもそも、劣等感を持つ理由なんて無いんだよ。」

っていう話が上手く広がってくと良いなって考えてます。



世の中から、無駄な煩悩を断ち切っていけますよーに💪😤

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