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執着と依存と


今日は遂に念願だった柿の種うましお味を食べました!

何か思ってた味と違ってショックでした;∀;

誤解の無いように先に弁明させて貰いますと、めっちゃ美味しいんですよ!これは確実にビールのつまみに最高な味なんですよ!

ただ、
【うましお】
という名前の割りに、しっかり"胡椒の味"が効いているので、
『(純粋な)塩味だぁ~\(^^)/』
と思って食べると、裏切られます!

うましお味って言うより、ブラックペッパー味ってイメージして食べた方がしっくりくると思うなぁ?

私的にはクラッツを彷彿とさせられる味でした。

なので、私の印象としては『おやつ~』っていう感覚よりも『つまみ~』って感じで食べるのがオススメです!

胡椒の香りなのか、若干癖も感じますが、大人な美味しさかと思いますので試す価値はあると思いますよ◎

昨日の話の中では執着と依存をほぼ同じ意味で書きました。

今日は執着と依存の微妙な差の話を書きます。



例えば私が太郎さんと付き合っているとします。

私は、太郎さんを好き過ぎるから、もし太郎さんと別れたら生きていけない!」
これは執着です。

「私は、世間体的に彼氏位いないといけない気がするから、もし太郎さんと別れたら生きていけない!」
これは依存です。



この、微妙な差、伝わるでしょうか。

前者は、
「私は太郎さんを好き過ぎる」
という自覚もあり、自分の想いから、太郎さんとの別れを拒んでいます。

後者は、
「世間体的に何となく」
で太郎さんと付き合っており、【彼氏】という存在を失うことを拒んでいます。これは付き合うことに自分の想いが無く、【彼氏】ならば誰でも良い風であるにも拘わらず、太郎さんに依存している状態です。



執着には自分の強い想いも含まれている。
依存には自分の意志がほとんどない。

どちらもそれぞれにそれぞれの厄介さがありますね。



執着
『自分がこれを好き過ぎて、無くては困る!』
依存
『何だか分からないけど、とにかく無くては困る!』


執着は、自分の意思が含まれている故に強い念になりやすいです。

依存は、自分の意思が薄弱過ぎる故に幻想からくる恐れのような念が大き過ぎて、手放すまいとする意識も頑なになりがちです。



一応こんな感じで執着と依存を分けて考えることもできますが、私の経験で思い起こしてみると、自分が執着しているのか、依存状態なのか、判別するのはほぼ無理な場合の方が多いと思います。

自分はこれが好きだから!』
と、自覚を持っていたところで、
「ではどこがどのように好きなのか?」
と、突き詰め始めると具体的に答えられなくなっていき、次第に
『この『好き!』という感覚も、世間体的に好条件な人だから、なのかもしれない……。』
の、ように深い部分に自分の意志を見出せないことがほとんどでしょうからね。

勿論、人それぞれ違うので一概には言えませんが、多くの場合、執着してしまっている時点で自分の運命を自分以外のものに渡してしまっていることから、自分の意識ではないものの影響に大きく左右されてしまいます。

こうして
『自分ではない何かの影響をどの程度受けているのか?』
という点を量るのはかなり難しいので、執着しているのか依存しているのか見極めるのも難しい訳です。



もしかしたら、精神科のお医者さんなどは、全く別の見解を示すのかもしれませんし、執着と依存、いずれかの方が危険度が高いと言う人もいるのかもしれません。

私個人としては、執着も依存も本人の苦しみの種類は違えど度合いは同じだと思うので、どちらであっても抜け出すのが本人のためだと考えています。

執着は、
[何かに向けた自分の想い+他の何かへの寄りかかり]
という状態なので、自分のエネルギーが分散されて外側ばかりに向いている状態です。

依存は、
[意志を持たずに漠然とした恐怖心を抱えている]
状態なのて、自分のエネルギーが恐怖心の方向にほとんど向いている状態です。

どちらも自分のエネルギーを上手く自分へと向けられていない点で全く同じなので、双方苦しみの度合いは同じだと私は思うのです。



執着にせよ依存にせよ、そこから抜け出すには、本人が自覚するところから始めなければいけないんですよね。

『自分は、【自分ではない何か】が無いと自分は生きていけないと考えているな。』
ここを自覚するのがとても重要です。

多くの場合、
『失うのが怖い!!!』
この意識にほぼほぼ占領されてしまっているので、
『失うことの、何が怖いのか?』
『失うと、何故怖いのか?』
という方向性で心を掘り下げて探ることすら、怖くて進められないと思います。(勿論、人によるとは思いますが。)

まずは『怖い!』周辺に意識を向けるのではなく、現状把握から始める方が本人の負担が少ないままスムーズに掘り下げやすい人が多いと私は思うんですよ。
(勿論、人によるはずですが。)

恐怖心に苛まれてパニックになることを避けるためにも、
『自分は今、何を考えてる?』
現状把握が最優先です。



言葉にして書き出すと
「そんな訳ないやん!」
と、いうような内容を書きますが、大抵執着や依存しているもの、事、人…"何か"と自分が融合してしまっている感覚だから抜け出せないのです。

自分と恋人が一心同体である感覚だったり、
『自分はタバコを吸うのが当たり前の存在である。』
と、いう風に、自分を自分たらしめる要因の一部にそれらの依存or執着先の何かが『セットで自分である。』という風にくっついてしまっているので、そもそも
『切り離して自立しよう!』
と、なりません。だから、執着や依存から抜け出せないんですよね。

普段私たちが
『自分の腕を切り落とすぞ!』
なんて考えないのと全く同じなんです。

そこで、
『自分は、【自分ではない何か】が無いと自分は生きていけないと考えているな。』
と、改めて現状を把握することで、【自分】と【自分ではない何か】が別物であるとしっかり認識し直すのが重要ということです。



若干オカルトチックな表現をしますと、自分の念が【自分ではない何か】に取り憑いているような状態なので、執着や依存している間は、それらも『自分の一部だ!』という感覚になってしまうんですよね。

執着or依存相手が他人であった場合はなかなかしんどいです。

『相手は(自分の一部なのだから)理解してくれて然るべきだ!なのに、何故解ってくれないの!?』
『相手は(自分の一部なのだから)自分と同じ考え方、意見になるはずなのに、何故違う意見を言うの!?』

反対に、相手の方も念が乗せられているせいで
『理解できない自分が悪いのではないだろうか…?』
『意見が割れるのは、自分が間違っているからなのではないだろうか…?』
と、自身に対して疑心暗鬼になってしまったりして、精神がボロボロになったりもします。

念(エネルギー)と自分の意志(エネルギー)、強い方が勝つまで戦い続けるしかなくなるので自分も相手も疲弊しかしません。エネルギーが強い同士だと、かなり地獄を見ます。



とにかく、執着や依存している状態の際は
『自分は執着or依存しているかもしれない…。』
と気付き、
『自分は、【自分ではない何か】が無いと自分は生きていけないと考えているな。』
と自覚することが本当に大事なのです。

そして、執着している場合であれば、
『自分は、○○が好きなんだよね。』
と、自分で自分が持つ好意を認める流れになることが大切です。

依存の場合は、
『何となく、失うのが"怖い"んだよね。』
と、自分が持つ恐怖心を認める流れになるのが大切です。

これもまた一概には言えないのですが、執着の場合、そのほとんどは
『(好きって思っちゃいけないんだけど)好き。』
と、いう風に"好意"に対してアクセルとブレーキを同時に踏んでるケースが多いです。

依存の場合は
『(怖いと認めることすら怖いけど)怖い
。』
のように、"恐怖心"に対してアクセルとブレーキを同時に踏んでるケースが多いです。

だから、まずそれぞれ
「感情にアクセルは踏んで良いんだよ◎」
と"自分自身で"自分に承認してあげることで、
・"躍起になって"好意をぶつけること
・"躍起になって"恐怖心を押し出すこと

が減っていき、冷静に対処しやすくなります。他人相手だった場合であれば、他人への念攻撃を抑えられるでしょう。



本気で執着や依存を止めようと思うと、長期的にじっくり自分の精神と向き合うことを要すると思います。

ですが、自分の精神と向き合えるメンタルをしっかり持ってるなら、執着や依存に走らないと思いませんか?

執着や依存してしまっている時点で、かなり精神は歪んでしまっている可能性も高いです。

だから
『執着や依存を止めなければ!』
という意識の一歩手前
『自分は執着or依存してるんだ!』
認め、自覚することに時間を掛けて取り組む方に注力するのが大事です。

その方が、他人への影響を最小限に抑えられたり、執着や依存を繰り返したとしても自力で苦しくないところまで戻れたりしますので。



ここまで、執着と依存の微妙な差についていくつか書きましたが、そこから抜け出そうとする際は、わざわざ
『これは執着だろうか!?依存だろうか?!』
と、分類する必要は無いかと私は考えています。

どちらであったとしても、
『自分は、【自分ではない何か】が無いと自分は生きていけないと考えているな。』
と自覚さえできてしまえば、人それぞれ自ずと執着or依存から抜け出す流れに乗れるはずなのです。

流れに乗ってしまえば、後はその都度対峙すべき心の問題と向き合っていくだけなので、その際、執着か依存かという区分を気にすることに時間は割かなくて良いのではないでしょうか。

大事なのは自分の症状に名前をつけることではなく、自分の意識を認めてあげるために全力を尽くすことなので。



私には、執着や依存している状態が完全な悪であるかどうかは分からないのですが、[執着や依存してしまっている精神状態]は本当に苦しい場合も多いし、"他者が巻き込まれてしまっているケース"に関しては、
「解放してあげませんか?」
と思えてならないので、執着や依存から離れられる人が増えたら良いなって思ってます。

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