392 摂取物を変える
この数日の悩みっ放しで確信した。執筆疲れであると。無論、一部には探った結果による知見も含まれている。南雲個人の判断だけではない。
知見に沿って、摂取する本を少し変えてみる。「吾輩は猫である」。
まだ途中だが、なぜ古典を敬遠していたのかというレベルで面白い。恐らくエンターテイメント系の作品に染まり過ぎていたのだろう。
南雲ってのは、そういう奴だ。架空戦記にハマってた訳だしね。
もはや人口に膾炙された作品なだけに、南雲が今更語るのはおこがましい。
とはいえ、猫が猫らしく、猫の視点から物を語るというのが徹底されている。
当時漱石にプロットがあったのかどうかは知らない。
だが「吾輩」が思い付いたこと、あった出来事を順繰りに語っているようにも見える。それもまた猫らしい。
どこから面白くなったか。猫同士が人間を語ったりするところからだった。
猫視点の皮肉のきいた人間評。猫ならではのものの見方が、あまりにも猫らしかったのだ。
摂取するものを敢えて変えてみる。良い知見を得られた気がした。もう少しやれる気がする。
おわれ
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