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キャラクターとはなんなのか?  〜キャラスピリット論〜

この記事、一体何度書き直したことか・・・
最初は精神不調のとき、かなり危ういことを書いてしまい、最近では火沢の恥ずかしいところを赤裸々に語ってしまった。
もちろん、それも含めて自分らしいとも言えるし、自分の思想、「未熟さ」や「不完全さ」があってもいいという趣旨に、修正してしまえば反することになる。
ただ、自分の中で本当に発信したいことが適切に表現できていたかは怪しい。
今一度冷静に向き合ってみてもいいかな、と。

そう、キャラクターである。
ことの発端はどうも巷でのキャラクターに対する敬意が年々薄くなってきているように感じたこと。
無理なパロディやキャラの性格を改変してでも人気を取ろうとする姿勢、まあ、政府のクールジャパンというのもあざとい感じがするし・・・
火沢には、こうした一連の現象を見ているとキャラクターを人間が「利用」しているように見えてしまう。
ただ、ここで避けたいのは反対者の意見を否定できないこと。
なぜなら火沢とてキャラクタービジネスに乗っかってきた張本人だし、そもそも0か100かで語るものでもない。
当然、偶像崇拝まで行ってしまえば宗教になるし、徹底的に商材として捉えればビジネスである。
火沢としては「心の拠り所」として、やはり物語に没入したい。
没入するには、アニメであれ漫画であれ「あざとい」と、感じさせる要素が少ない方が良い。
要するに楽しんでいる間は(読了後なら良いが)クリエーターが「してやったり」という顔を想像したくない。
あざとさを感じさせない事自体が「技法」だと主張する人もいるかもしれないが、クリエーターとはそもそも、どこまで「自覚的」なのだろう。
自分はまだアマチュアで「売れたい」とは思わない。
自分の大切なキャラの人格を捻じ曲げたいとまでは到底思えない。
それが甘さと言うなら甘さだろう。
でも・・・
クソ甘い火沢としてはもう少し穏便で落ち着いた景色を見たい気がする。
もちろん巷で溢れかえってる作品が皆そうだとも思ってない。
火沢が特定の作品に刺激され過剰反応してるだけかもしれない。
昔と比べて今がどの程度「エグくなっているか」、正直誰も分からないと思う。

火沢は昔、キャラクターが「精霊」だったらと考えたことがある。
笑われてしまうか?
でもあざとい美形キャラも萌えキャラもね、
例えばアニメ際みたいなポスターで昔(何十年前のね星飛雄馬とか)のキャラクターたちと並んで描かれていると思いの外微笑ましく思えることがある。
昔も今もつながっているのかも。
一斉に並んでしまえば中和されてしまうというか・・・
不思議な感じがした。
もちろん「騙されてる」のかもしれないが(苦笑)。
でも、もしも彼らが精霊だったら・・・
人間を楽しませたり喜ばせたりする精霊だったら・・・
自分の中でスッキリしてしまう。
でも、だからこそわからないこともある。

精霊は人間に利用されて喜んでいるのだろうか?
宗教であれビジネスであれ同じ「利用」なのかもしれない。
そうすると精霊としてはどうなのか。
嬉しいのだろうか?
悲しいのだろうか?

でも・・・
「どうせ喜んでるんでしょ?」は一方的すぎる。
火沢は修正前の記事で書いたのだが「お守り型」として捉えている。
人の精神的支柱にならないか、と。
まあ、穏便な宗教というか心の支えのようなものとして接したい。
でも、これも一方的なのかもしれない。
キャラは人間と一緒にお金を稼ぎたいのかもしれないし射幸心を煽ってでも脚光を浴びたいのかもしれない。
やはり分からない。

あるいは「道具」として考えれば武器と同じで扱う人間次第でどうとでもできてしまう。
人によっては友達や恋人かもしれない。

解釈次第でキャラクターはいくらでも変わってしまう。
結局言いたいのは、キャラクターに自分の気持ちを問いただせないということ。
我々の一方的な解釈でしか彼らと接することができないということ。
だからこそ火沢は「バランス」、一定の節度が大切だと思う。
そういう意味で、実は最初にこの記事を「人を救うもの」として書いた。
自キャラの「ガルーダ」を「絶対者」として教祖的に祭り上げるような稚拙な内容を書いてしまった。
彼女がただの人間で弱さも持っている普通の女の子であることを火沢が一番わかっていたのに、である。
俺は、何度も彼女に勇気づけられた。
でもそれは彼女が絶対的な存在ではなく極めて不完全な人間で周囲の人間関係に悩んでいたから。
そんな素朴なガルーダだからこそ自分は共感し涙を流し、救われたのではないか、と。

今一度自分のスタンスを見直すためにこの記事を書き直した。
修正もこれを最後としたい。






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