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短編3.イテュスの竪琴(前)

夏休み、父親の実家へとやってきた少女・初音。
大学生の従姉から、この土地に伝わる伝説と、数年に一度おこる神隠しの話を聞いた夜、神隠しにあう。
迷いこんだ洞窟の中で、少女はお山の過去と、亡き母の秘密とを垣間見る。

少しホラー風味の,現代ファンタジー作品前編です.
お時間ありましたら,是非お付き合いをお願いします.


 初音はふと、目を覚ました。何の前触れもなく、ぽつりぽつりと雨が降り出すように。薄暗い部屋の中はしんとしていて、聞こえるものといえば、庭先で鳴く虫たちの声と、それに混じってときおり響く底暗いコノハズクの囁きばかりだ。
 初音は頭をめぐらせて、となりの布団ですやすやと寝息を立てている、弟の吟太の方を見やった。すると、寝るときには確かに掛けてあった夏用の掛け布団を、吟太は被っていなかった。それを見て、吟太のこの癖は、いつになったら直るのだろうか、と心の中で呟き、のそのそと自分の布団から這い出した。
 深い青色の霧がうっすらと立ち込めるような夜の闇に目を凝らすと、吟太の掛け布団はすぐに見つかった。吟太の足で踏み拉かれた布団は、その足元でくしゃくしゃの無残な姿をさらしていた。何だか、雨の日に捨てられた仔猫みたいだ、と初音は思った。
 それを取り上げて、大の字になって眠っている吟太の身体の上にそっと掛けてやると、吟太は小さく唸って寝返りを打った。弟の寝顔にちょっとだけ目を落とした後、初音は振り向いて、父にあてがわれた布団に目をやった。
 しかし、そこに父の姿はなく、布団は敷かれたときのまま、誰かが寝ていたような跡もなかった。父が起きているのなら、従兄弟たちもまだ起きているのだろうかと、初音は考えた。

* * *


 父と吟太、そして初音の三人が、父と母の実家がある、折穂村というこの小さな山村に着いたのは、その日の夕方のことだ。
 お盆の帰省ラッシュで人が一杯の新幹線や電車を乗り継ぎ、ようやく降り立った駅のホームに、人影はほとんどなかった。その代わりとでもいうように、駅前の広場にある、もうずいぶんとペンキが剥げ落ちてしまった大きなたて看板が、例年どおりそこにいて初音たちを迎えてくれた。
 祖父母の家は村のはずれの、山の麓にあったので、初音たちは駅からしばらく歩かなければならなかった。暑さと疲れからか、もう歩きたくない、とごねる、四つ年下の、今年小学校にあがったばかりの弟、吟太の手を引きながら、初音は父の後について黙々と歩き続けた。
 途中、電柱から地面へと伸びた電線に、民家の庭先から伸びた朝顔の蔦が幾本も絡みつき、家の屋根の高さにまで達しているのを、初音は見た。道端の田畑からは虫の音が聞こえ、通りすがりにその前を通った神社の境内では、蝉たちがしきりと鳴いていた。
 やがて祖父母の家に辿り付くと、初音たちを除いた親戚全員が顔を揃えていて、既に夕食の準備が整っていた。
 夕食を終えた後、子どもたちはみんな、祖母に追い立てられるようにして順番に風呂に入った。風呂から上がると、おばさんたちがスイカを切って出してくれた。祖父母の家の井戸水でよく冷やされたスイカは、とても瑞々しく、甘かった。
 初音はスイカをスプーンで口に運びながら、大人たちの会話に耳を傾けていた。子どもたちもぽつぽつと言葉を交わしていたけれど、ほとんどの子はスイカを食べるのに夢中だったので、会話は大して弾まなかった。
 大人たちの話は、始めのうちはお互いの近況報告ばかりだった。その内に、初音が会ったことも無い曾祖父や曾祖母、その兄弟たちといった、故人の思い出話へと移っていった。
 三年ほど前に亡くなった、初音と吟太の母、謡子の話題も出たようだった。母と父とは幼馴染だったということもあり、話は母の子どもの頃のことにまで及んでいた。
「そうそう、確か、今の初音ちゃんぐらいの頃じゃなかったっけ。謡子さんが、裏の山で神隠しにあったの」
 そう言ったのは、父の一番下の弟にあたる、正美叔父さんだった。そのとき初音は、スイカを食べ終わった従兄弟たちと一緒になってトランプゲームに熱中していてあまり熱心に大人たちの会話は聴いていなかった。けれど、この言葉だけはやけにはっきりと耳に残った。「神隠し」ってたしか、突然人がいなくなっちゃうことだ。子どもが天狗に連れ去られるなんて話を前に本で読んだことがある。そんなことをぼんやりと初音は考えた。
 それからしばらくすると、大人たちの会話は途絶えがちになり、やがて静かになってしまった。大人たちは、それぞれ畳の上であぐらをかいたり、横になったりして、テレビのナイターをじっと観ていた。子どもたちも、やがてトランプゲームに飽きだして、なんとなくしらけたような空気がその場に漂い始めていた。
 すると突然、畳に寝そべっていた正美叔父さんがやおら起き上がり、子どもたちの方へと向き直った。そして、折角夏休みにこうして集まったのだから、怖い話でもしてあげようか、と声を掛けてきた。その言葉に、初音を含めた子どもたちはちらりと顔を見合わせた後、叔父さんに向かって頷いて見せた。みんなでそそくさとトランプを片付け、座敷の隅に移動した叔父さんを、囲むかたちで車座になった。初音が端のほうに座ると、吟太がその隣に並んだ。
 東京の小さな出版社に勤めていて、今はある雑誌の副編集長をしているという正美叔父さんは、学生時代に落語研究のサークルに入っていたこともあってか、その語り口はとても上手で、そしてとても怖かった。
 みんな夢中になって話を聞き、一つ終わるごとに、ほかにはないのと、誰かが叔父さんに次の話をせがんだ。しかし、部屋の時計の針が九時を指した頃、突然正美叔父さんの携帯電話の着信音が鳴り出して、話は途切れた。携帯電話の着信表示を確認すると、叔父さんは顔を曇らせた。
「うちの若手の記者からだ。また何かトラぶったのかな。悪いね、今夜はここまでにさせてもらうよ」
 そう言って電話に出ると、そのまま座敷から出て行ってしまった。子どもたちはみんな、戸惑い半分、しらけ半分、といった面持ちで、互いに顔を見交わし合った。今度はウノでもやろうか、と誰かが言ったが、誰もそれに賛同する子はいなかった。代わりに、いとこの一人が、もっとお話ききたい、といかにも不満げに主張した。
「あたしがしようか、怖い話。叔父さんのほど面白いかはわからないけど」
 そう言って初音たちの方へ近づいてきたのは、従姉の晴海さんだった。彼女は大学生で、大学では昔話の研究をしているときいたことがあった。昔から妖怪や神話に詳しくて、色んな話をきかせてもらったものだ。
 彼女の母親の路江さんが以前、あの子にあの怪しげな趣味さえなくなればねえ、と愚痴っていたことがある。実際、彼女はスタイルもセンスもよく、顔立ちもどちらかといえば美人な方で、なんでも器用にこなせる人だっだ。
 しかしいったん口を開けば、ヤナギタクニオがどうの、オリクチシノブがどうの、ミナカタクマグスがどうの、などなど、初音にもよくわからない人の話ばかりが飛び出す、といった具合であった。それが彼女にとって、自然と「虫よけ」になってきたのだろうと、簡単に想像できた。自分のよく知らないことについて詳しくて、あれこれと話したがる女の人って、大体男の人からは煙たがられるものだと、路江伯母さんが言っていた。
 今度は輪の中心に晴海さんをすえて、お話の会は再開された。晴海さんはひとつ咳払いをしたあと、少しとりすました感じで話し始めた。その動きに合わせ、彼女の耳元でピアスが揺れ、きらきらと光を放った。
「みんな、この唄知っている?」
 そう言いながら、晴海さんは歌い始めた。

さくら たちばな もものはな
お山が焼けたら かくれんぼ

月を追いかけ かかさまは
青々 あおい 海のそこ

星をもとめて ととさまは
赤々 あかい 空のうえ

さがす者 とて 誰もなく
お山は もとには もどらない

あおい かきのき おみなえし
お山は もとには もどれない

 初音をのぞいた子どもたちはみんな、顔を見合わせて、知らない、と口々に声を上げたけれど、初音だけは知っていた。その唄は、古くからこの土地で伝えられている童謡だと母からきかされていた。子どもたちの返事に、晴海さんは、初音が母から受けたとおりの説明を加えた後、話の先を続けた。
「だったら、この歌にまつわる昔話も、知らない?」
 この言葉に、みんな大きく首を縦に振った。それを満足げに見まわした晴海さんは言った。
「そのお話はね、昔この村で実際にあったことを元にしたものなんじゃないかって言われているの」

* * *


 晴海さんによると、そのお話の筋は次のようなものだった。
 今からずっと昔、日本のあちこちで、小さな国がお互いに戦争をしていた時代、ここ折穂村の周辺にも、小さな国があった。そこでは、王様と、王様を陰で支える、占い師のような役割の女の人とが、代々その国を治めていた。この女の人は代々、結婚も、子どもを産むことも禁止されて、一生を国のためにささげることが決められていた。結婚したり子どもを産んだりすると、女の人は占いの力を失ってしまう、と信じられていたのだ。
 ところが、ある代の女の人が、王様に内緒でこっそり結婚し、子どもを産んだ。王様が直接女の人と顔を合わせることはほとんどなかったから、その子どもが大きくなるまで、隠し通すことができたらしい。
 その後、あるときの戦争で、その国は近隣の敵国に負けてしまった。そのときたまたま、女の人が子どもを産んでいたことを、王様に告げ口をした人がいた。王様は怒り狂って、女の人と、その夫と、そして二人の子どもを、みんな殺してしまった。女の生まれた家の者たちに対しても、その財産を取り上げたり、ひどいことをしたという。
 すると、やがておかしなことがこの国の重だった人々の身の上に起こり始めた。最初は、王様の跡継ぎが立て続けに病気で亡くなった。子どもたちがみんないなくなると、今度はお妃さま、その次はその血縁者や政治の補佐にあたっていた人々。その中には、例の告げ口をした人とその一族も含まれていた。人々は、きっと王様に殺された占い女親子のたたりだと噂するようになった。
 始めはそんな噂を気にもとめなかった王様だったが、臣下の中で、告げ口をした人だけ、本人だけでなく一族みんな亡くなってしまい、震え上がった。そして、罪人として粗末な葬り方をした占い女親子を改めて丁重に弔った。そして、もう二度とたたりのないよう、その占い女の一族に墓守の任を与えた。
 その占い女の親子が葬られた土地こそ、この折穂村であり、その墓守一族の末裔が、この村で折戸姓を名乗る家の者である。折戸は、本来、“いのり部”のことなのだ。というのが、晴海さんの主張だった。
「それのどこが怖い話なの?」
 と、いとこたちの中の一人が、けげんな顔で晴海さんに尋ねた。すると、にこにこして晴海さんは応えた。
「ここから先は、私の推測が入るんだけどね。その後、墓守の任を与えられた私たちの祖先は、毎年、彼らを鎮める儀式を行っていた。けれども、その国はよその国にほろぼされてしまったの。王様の家系も絶えて、何百年も経つうちに、その儀式は忘れ去られていってしまった。その占い女の呪いはいまも続いていて、その霊は今も慰めの儀式を必要としているのに。この村で、何年かに一度、この時期にみんなくらいの子どもが必ず一人神隠しにあうのは、イノリベとして、先祖の霊たちが招き寄せているからなんじゃないかなって、あたしは思っている。たとえば、謡子さんとかね」
 そう言って、晴海さんはちらりと初音の方へと目をやった後、すぐに子どもたち全員を見まわして言った。神隠しの話は初めてきいたけれど、母の謡子が、お盆や正月にこの村へ来るとき、しきりに初音を自分のそばに置きたがっていたことを、初音はふと思い出した。
「彼女以来、もう何年も神隠しは起こっていないから、そろそろ、鎮め手が必要になって来る頃だもの。もしかしたら、今夜あたり、この中の誰かが神隠しに遭うかもよ」
 そこまで言ったとき、初音の背後から声があがった。
「またお前は、そうやってあることないこと子どもに吹き込んで。昔話がほんとうのことかどうかも、神隠しのことも、全部お前がそう決めこんでるだけだろ。考古学だか民俗学だか知らないけど、金にもならない妄想にいつまでもうつつを抜かしてないで、そろそろ本腰入れて就職先探せよ」
 声の主は、晴海さんの双子の兄、天真さんだった。天真さんは二三年前に大学を卒業して、今は県内の民間企業に就職している。
 これに対し、晴海さんは腹立ちをあらわにして応えた。彼女の、薄化粧の下の、生来色白の頬がうっすら桜色に染まっているのを、初音は見た。
「決めつけてなんかいません。あたしは、確かめたいの。これがただのおとぎばなしなのか、それとも根のある言い伝えなのか。あたしはこの道に生涯を捧げるってもう決めたんだから。もう学費だってなんだって、自分の稼ぎでやってるでしょう。あんたに口出しされる筋合いなんてありません」
「筋合いならあるだろ。今お前の身に何かあったら、迷惑被るのはこっちなんだぞ。それに、母さんが帰って来いって言っても、バイトだ研究だって、田植えと稲刈りと、盆の時期くらいしか家に帰ってこないじゃないか。妖怪だの神話だの民話だの、得体の知れないもんに夢中になって、どうせ彼氏もいないんだろ」
「そういうあんたはどうなの。システムエンジニアだかなんだか知らないけど、仕事の日は一日パソコンの前にべったりで、家に帰ってからも、休みの日も、ほとんどずっと部屋にこもってゲームしてるばっかりで、彼女の一人も家に連れてきたことないって、母さんからきいてるけど」
「やめなさいよ、二人とも。姉弟げんかなら、家に帰ってからにして」
 二人の母親である路江伯母さんがたしなめた。しかし二人の言い合いはだんだん加熱していき、講談会はまたしても中断された。やがて父親の陸生伯父さんも、その様子を見るに見かねて声を荒げて言った。
「お前たち、よさないか。いい歳をして、こんなところで…」
 その様子を、幼いいとこたちはあぜんとして見守っていた。しかし初音は吟太がうとうとし出したこともあり、弟を連れて父より一足先にそそくさとあてがわれた寝室へと退散した。

* * *

 今はいったい何時なのだろう、と初音は辺りを見回して、時計を探した。部屋の奥にある小さな振り子式の掛け時計は、暗さのために文字盤も針もよく見えなかったけれど、もう夜中に近い時刻であることだけは、初音にも分かっていた。
 もしかしたら、晴海・天馬姉弟をなだめ、いとこたちを眠らせた後に、大人たちだけで仕切り直しの宴会でもやっているのかも知れない、と初音は考え直した。
 初音は自分の布団に潜り込み、何の気なしに天井を見つめた。天井に張られた板には、年輪で不思議な模様が描かれていた。電気をつけていたときには何の変わったところもない焦げ茶の線でしかなかったそれは、宵闇の中で、何とも言えず初音の目を惹きつけた。
 やがてその木目の一部が、向かい合った人の顔の形をしていることに、初音は気付いた。初音から見て、右手が仙人のように髭を長く伸ばした老人。左手は仁王像を思わせる、文字通り鬼のような形相をした男だ。
 しばらくそれを眺めているうちに、初音には、二人の会話までもが聞こえてくるような気がした。左の男が、右の老人に向かって何か言っている。何かを責めているような、それでいて、どこか救いを求めるような口調で。老人はそれに答えようとはせず、悲しそうに目を伏せて、しきりに何かを呟いている。
 初音はあわてて、天井から視線を逸らした。これ以上見ていたら、何か嫌なものまで見えてしまうのではないか、初音にはそんな気がした。
 しばらくの間、初音は眠れず、何度も寝返りを打っていた。しかし、その内にとうとう我慢できなくなって、吟太を起こさないように気を付けながら、そっと寝床から抜け出した。晩に食べたスイカがいけなかったのかも知れない。
 部屋の中は薄暗く、奥のほうはほとんど見えなかったけれど、庭に面した障子戸の近くは明るかった。外から射す青白い光が、畳の上に白と藍色の格子模様を描いていた。
 初音はできるだけ足音を立てないようにしてそれを踏み越え、そろそろと障子戸を開けた。もしも起こしてしまったら、怖がりの吟太のことだから、自分もついていくと言い出し兼ねない。
すると、冷たい空気が初音の頬にあたった。軒下に生い茂る、ドクダミやカキドオシのつんとした匂いが、鼻をつく。
 夜の庭はやけに明るくて、あたり一帯を青白い光が照らし出していた。月灯りによってできた影がくっきりと地面に伸びて、まるでスポットライトを当てられたお芝居の舞台のようだと、初音は思った。
 見上げると、紺色をした空の真ん中に、月が一つ、ぽっかりと浮かんでいた。大粒の真珠を思わせる、満月だ。月の周りで、申し訳ほど度にうっすらと棚引いている雲の縁が、きらきらと虹色に耀いていた。
初音はそれにしばし見とれてしまったが、すぐさま我に返って歩き出した。
 手洗い場へ行くには、屋敷をぐるりと取り囲む縁側を、北を目指して歩いて行った先にある、渡り廊下を通らなければならなかった。
 廊下には壁がなく、雨に濡れるのを防ぐ為の屋根が付いているだけだった。そのため庭の様子がよく見えたし、そこからそのまま庭に出ることもできた。用を済ませた初音は、月の光に浮かび上がる庭を横目に見ながら、急ぎ足で渡り廊下をもと来た方へと進んだ。
 そのとき、庭を横切る人影に気付いて、初音は足を止めた。見ると、夜の庭を、どこかおぼつかない足取りで誰かが歩いて行く。こちらに背を向けているので、顔は見えない。その後姿に目を凝らしてみた初音は、思わず声を上げた。
「吟太?」
 遠くてあまり自信は持てなかったけれど、白い寝間着を着たその後ろ姿は、吟太のそれとよく似ていた。いとこたちはみんな初音と同じくらいの年か、少し年上の子ばかりで、吟太と同じくらいの子は、まだ幼稚園に通う正美叔父さんのところの、一番下の、髪の長い女の子だけだった。ここは家の敷地の中で、よその子どもが迷い込んだなどということは考えづらかった。
 とっさに、目を覚ました吟太が自分の不在に気付いて探しに来たのかもしれない、と初音は考えた。あんなところをうろうろしているのは、きっと寝ぼけているせいなのだろう。
 初音はあわてて、裸足のまま庭へと降り立った。渡り廊下から弟のところまでは、いくらか距離があった。
 レモンバームやローズマリー、タイムやセージにゼラニウムといったハーブ類が整然と植えられた小さな花壇の脇を通り、貝殻のような真っ白い花をその根元に落とすキョウチクトウの下を抜けた。
「吟太!」
 しかし吟太は、初音が呼んだことには一向に気付かない様子で、庭をずんずん進んで行く。どうやら、庭のぐるりを取り囲む漆喰の塀の方へと、吟太は向かっているらしかった。彼の向かっている辺りには、庭から外へ出る為の木戸がある筈だ。
 そう気付いて、もしかして吟太は、外に出るつもりなのだろうかと、初音は考えた。念のためもう一度、初音は弟の名を呼んでみたが、呼ばれた当の本人は、振り向く素振りすら見せなかった。
 背の高いトウモロコシ畑の、畝と畝との間を初音が通り抜けたときには、吟太の姿はどこにもなかった。木戸の方へと目をやると、案の定、木戸は開いていた。誰かがついさっき出て行ったことを示すように、ぎいぎいと微かな音を立てて前後に揺れている。
 初音は、錆びついたドラム缶を避けて通り、立ち並ぶムクゲの木の後ろ側へと回り込んだ。そして、既にその動きを止めた木戸の取っ手を掴んで開け、そっと外の様子を窺った。
 木戸の向こう側は、鬱蒼と木々が生い茂る雑木林だ。木戸の辺りから伸びた小道が、山の方へと向かって上がる斜面を走り、奥の方へと続いている。
 月の光は木々によって遮られ、林の中は薄暗かったけれど、木の葉の合い間からいくらか差し込んでいて、点々と道を照らしていた。その中を行く吟太の後姿を見止めて、初音は突然不安に駆られた。そして、誰か大人の人を呼んでこようかと、初音は考えた。
 この家の裏に聳える折穂山には、ずいぶん昔に廃坑になった炭坑の跡が今でもそのまま残っている。とても危ないからと、子どもだけで山に入ることは固く禁じられていた。
 しかし何よりも、さっき聴いた晴海さんの言葉が、初音を思い止まらせた。
“今夜あたり、誰かが神隠しに遭うかもね”
 吟太はどんどん雑木林の中を進んでいく。今から大人たちを呼びに戻っている間に、吟太が危ないところまで行ってしまったら大変だ。
 大きな声でまた弟の名を呼んでみたが、やはり気付いた様子は見られなかった。初音はしばし躊躇した後、意を決して外へと出て、緩やかな坂道を駆け出した。
 もし、夜中に抜け出したことが大人たちに知られたら、自分も吟太もひどく叱られてしまうだろうから、急いであの子を連れて帰ろう。父が寝室へとやって来て、自分たちがいないことに気付く前に。例えそうなってもならなくても、吟太は後でちゃんと叱っておかないと。
 そんなことを考えながら、初音は弟の後姿を目印に小道を辿った。
 突き出した野イバラの枝に寝巻きの裾をひっかけてしまったのでそれを振り払い、道の方へと伸びるツタカヅラを踏みつけた。途中、道に生える草や、落ちている小枝で足を少し切ってしまった。
なんだか惨めな気持ちになりながらも、前方に見える吟太との距離を、初音は少しずつ縮めていった。と、吟太が足を止めたので、初音はここぞとばかりに吟太に駆け寄り、その右腕を右手で掴んだ。
「こら、吟太!」
 そのとたん、吟太が振り向いた。しかし、振り向いた相手の顔を見て、初音はぎょっとした。吟太だと思っていた少年は、吟太ではなかった。蒼ざめて、どこか悲しげで、虚ろな目をしたその顔は、初音にとって見覚えのないものだった。
 その腕をつかんだまま、初音はぼうぜんと言葉を失ったまま相手の顔を見つめていたが、突然自分の腕にもぞもぞと動くものを感じて腕を見やった。
 すると、どこからわいてきたのか、黒いカメムシのような虫が手首のあたりから肘のところまで這いあがってくるところだった。初音はあわてて少年の腕から手を放し、腕を振り回して虫を振り払った。
 そのすぐさま我に返り、目の前の少年に声を掛けようと、その顔を見やった初音は、自分の目を疑った。始めは、少年の顔に虫がくっついている、ように見えたが、実際はそうではなかった。うじゃうじゃと絡み合っていているムカデやクワガタ、カミキリムシやカブトムシは、少年の顔そのもので、虫たちがその顔を形づくっていた。
 とっさに頭の中が真っ白になって、初音はぼうぜんとして少年の顔を見つめた。そしてやがて我に返り、自分が掴んでいる少年の腕に目を落とした。こちらもやはり無数の虫が腕の形をとっているだけで、生身の人間のものではなかった。
 そこから這い出してきた、脚の長い、羽の生えた黒い虫たちが、初音の顔を目がけて飛んできたところでようやく叫び声を上げ、それらを振り払った。
 初音が顔を上げて、人の形をした虫の群を見るのと、人の形が崩れだすのとは、ほとんど同時だった。空を飛ぶものは空を飛んで。地を這うものは地を這って。虫たちが四方八方へと散らばっていくと、残ったのは青い寝巻きの上下だけだった。
 虫が一匹残らずいなくなったのを確認してから、初音は恐る恐るしゃがんで、地面に落ちた白い着物を摘み上げた。しかし、そのとたんそれは端から砂のようにさらさらと音を立てて崩れだし、やがて跡形もなく散ってしまった。まるで初音を脅かそうとでもするように、コノハズクの陰気な呟きが周囲に響いた。
 自分は夢を見ているのだろうかと、初音は考えた。でなければ、こんなおかしなことが起こる筈はないもの、と。しかし、さっき切った足の痛みも、辺りに立ち込める仄かな草木の匂いも、足裏に触れる土の感触も、夢というにはあまりにもリアル過ぎた。
 と、そのとき、強い風が横から吹き付けて、初音は思わず顔を上げた。風は瞬く間に通り過ぎて、初音から見て左の方の、少し離れたところでぽっかりと口を開けている、洞窟の中へと流れ込んで行った。
 こんな所に、洞窟なんてあっただろうかと初音が訝しがっていると、ふいに背後から、獣の唸り声が聞こえてきた。初音があわてて振り返ると、薄暗がりの向うに、金色に光る点がいくつも浮かんでいた。初音が立ち上がって後退ると、今度はその背を向けた方からも唸り声が聞こえてきた。
 野犬だ、と、初音はとっさにそう思った。月の光でできた柱の中に姿を現したのは、やはり、見るからに凶暴そうな野良犬たちの群だった。
 身体の形も大きさも、毛の生え方も、みんなまちまちだったけれど、汚れてごわごわになった毛皮や、がりがりに痩せ細った身体、牙を剥き出しにした口元から滴をつくってしたたり落ちる涎が、彼らを一様なものに見せていた。
 ただの野犬じゃない、狂犬だ、そう思ったとたん、初音は思わず洞窟の方へと駆け出していた。忽ち犬たちも吠え立てながら初音の後を追って来た。初音は無我夢中で洞窟の入り口まで来て、そのまま洞窟の中へと逃げ込んだ。
 入り口の辺りで犬たちが立ち止まり、やたらめったら吠え立てるのには構わず、初音は奥へ奥へと入って行った。一頻り吠えた後の、犬たちの唸り声の中に混じる恨めしげな響きに、初音は気付かなかった。

* * *

 犬の声が聞こえなくなった後も、初音はくねくねと曲がりくねった洞窟の中を進み続けた。途中、幾度か枝分かれした道に出くわしたが、あまり考えずに思いつくまま進み続けた。
 今この瞬間にも、背後から追いかけて来た狂犬が、初音の喉下を食い破ろうと息を潜めてこちらの様子を窺っているのではないか、そう考えると、初音は居ても立ってもいられず、その歩調は自然と早まった。
 洞窟の中は外よりもずっと空気がひんやりとしていて、何だかとても息苦しかった。中はさぞ暗いだろうと思っていたが、思いのほかに明るかった。入り組んだ洞窟の中を通る細い小川の底で点々と青白い光を放つ、水晶のような鉱石のせいらしかった。
 そのうちに、初音は犬たちが追いかけて来る気配が一向にしないことに気付き、それを不審に思い始めた。少しだけ立ち止まって、じっと辺りの音に耳を澄ました。
 どこかで水がしたたり落ちて、小さな流れをつくっているような音がしきりと聞こえてくる。自分の息遣いや足音を除けば、おおよそ生き物の立てるような音は聞こえない。
 しばらくの間できるだけ息を潜め、体中を耳にしていたが、初音を脅かすようなものは何も現れなかったので、ほっとして小さく溜息を吐いた。
 あいつらは自分を追いかけるのを諦めたのだろうか、それとも、もっといい獲物でも見つけたのだろうか、と初音は考えたが、どちらの考えにもあまり自信がなかった。
 すると、初音がさっき通ってきた道の、枝分かれしている方から、物音がした。ライターを点けたときの音を、もっと大きくしたような音だった。昔サーカスで見た曲芸の、人が口から火を吹き出すときの音とよく似ていた。
 それと同時に、曲がり角の向うに青白い灯りがともる。そして、初音のいる所から見える壁の辺りが、丁度映画のスクリーンのように、青白い光と、通路の向うにいるものの影を映し出した。
 低い唸り声を洞窟の中に響かせながら、ゆっくりと通路を歩いていくその影は、紛れもなく犬の形をしていた。さっき外で見た犬たちの大きさと比べて、その影がいやに大きく感じられたのは、揺らめく灯りのせいだったのかも知れない。
 それを見た瞬間、顔から血の気が引いていくのを、初音は感じた。初音はとっさに、犬のやって来る通路側の岩壁へと背中をぴったりとくっつけ、息を潜めた。
 犬はやけにのんびりと通路を歩いているらしく、度々立ち止まっては辺りをくんくんと嗅ぎ回る音が聞こえた。さっきの野犬たちの中の一匹だろうかと初音は考えたが、結局はっきりとしたことは分からなかった。
 犬が丁度初音のいる通路との分岐点辺りまで来たとき、犬のやって来る方から蜂が一匹、忙しげに飛んで来るのを初音は見た。蜂は壁に止まると、口から火を吹いた。すると、岩壁に取り付けられていた松明が、青白い焔を灯した。
 蜂はその後も、犬の歩く先へ先へと飛んでいき、一つ一つ、松明に火を点けていった。その光景を見て、口から焔を吐き出す蜂なんているのだろうかと、初音は首を傾げた。しかも、あれではまるきり、蜂は犬の召使か何かのように見える。
 その奇妙な二匹連れは、初音の存在には気付かないまま、初音が通ってきた道へと、まるで散歩でもしているような様子で姿を消した。そいつらが行ってしまったきり戻って来ないのを確かめてから、初音はそっと奥の方へと進んで行った。

* * *

 暗い洞窟を歩きながら、初音はさっきの虫人間のことに思いをめぐらした。
 あれはいったい何だったのだろう、いったい何のために、あんな形をして、山へと入って行ったのだろう。まるで、自分をこの洞窟の辺りまで誘い出そうとでもするみたいに。そこまで考えて、初音は晴海さんの言葉を思い出し、ぞっとした。
 もしも、あの話が本当のことだったとして、母が神隠しにあっていたというのなら、母も今の自分と同じような目にあったのだろうか。
 初音の母、謡子は、シンガーソングライターだった。実際にはミュージシャンを目指す人たちの通う学校での、作詞や作曲の先生が本業のようなありさまではあったけれど、年に何度か単独のライブを開いたりして、母自身はとても幸せそうだった。小学校に上がったばかりの頃に一度だけ、初音は母のライブに招待されたことがあっって、そのときのことを、よく覚えている。
 —生まれ変わったら私、蟻か蜂になるんじゃないかしら。芽が出ない頃はアルバイトなんかも沢山したけど、今じゃ、ひとさまのように働きもしないで、キリギリスみたいに年中うたってばかりだもの。—そんなことを生前、冗談混じりに言っていた。
 母の作る歌を例えて言うなら、「真珠の竪琴」だと、初音は思っていた。その瞳から流れ落ちる涙が、ことごとく真珠になったというおとぎ話の人魚姫のように、その竪琴を奏でる度に、ころりころりと、大粒の真珠がこぼれ落ちてくる竪琴。そのこぼれ落ちた真珠の一粒一粒は、その全てが、上質な花玉だ。
 いつか母のような歌を作れるようになりたい、そして、沢山の人にそれを聴いてもらうのだと、もの心付く頃にはそう思うようになっていた。母の生前一度だけ、初音はそのことを、無邪気にも母に告げたことがあった。
 すると母は、少し困ったような顔をした後、私の歌は全部、たった一人のためだけに作ったものだから、あなたに同じものは作れっこないわ、あなたはあなたの竪琴を見つけないとね、と笑いながら言った。
 それが誰なのか、最後まで母は教えてくれなかったけれど、その代わりに、これが自分の原点だ、と言って教えてくれたのが、晴海さんが話に持ちだした、あの古い童謡だった。
 母によれば、あの童謡には本来続きがあったのだという。けれど、何十年、ともすれば何百年もかけて口伝えに伝わるうちに何度も何度も形を変え、やがて続きの部分は忘れ去られてしまったのだという。
 母は、楽器の販売会社に勤める父に頼んで、その童謡をオルゴールにしてもらい、それをとても大切にしていた。いい歌ができないときや、何かに迷ったときに、これを鳴らしてその音色に耳を傾けていると、自分に必要なものが何なのか、はっきりと見えてくるのだと言っていた。
 母が体調を崩して入院したとき、ふと聴きたくなって、初音は母の仕事部屋にしまい込まれていたそのオルゴールを取り出してみたことがあった。そのオルゴールの下には、小さく折りたたまれた紙が置かれていた。
 開いて見ると、それは、その童謡の続きの部分を母が自作したものを書きつけたらしい譜面であった。その紙面の右下には、母の字で「我がイテュスへ」と書きこまれていた。
 なんとなく見てはいけないものを見たような気がして、一度はもとのとおりに戻しておいたが、すぐにまた取り出して、こっそり自分の部屋へと持って帰ってしまった。譜面を覚えたら、すぐに返しておこう、と思ったのだ。
 ところが、母がある日突然交通事故で亡くなってしまった。不思議なことに、母が亡くなった後、母の仕事部屋からオルゴールも姿を消してしまった。楽譜はその後、うっかり机の上に出しっぱなしにしていたものを吟太に見つかり、落描きのえじきになった後、ゴミと間違えられて父に捨てられてしまった。
 母の形見を失くして始めはショックを受けたが、幸いそのときには、譜面はすっかり初音の頭の中に入っていた。それ以降、初音はときたまこっそりと、母のピアノでそれを演奏するようになっていた。

さくら たちばな もものはな
お山が焼けたら かくれんぼ

月を追いかけ かかさまは
青々 あおい 海のそこ

星をもとめて ととさまは
赤々 あかい 空のうえ

さがす者 とて 誰もなく
お山は もとには もどらない

あおい かきのき おみなえし
お山は もとには もどれない

人は みなみな くちはてるとも
神の まにまに かえります

肉は はらはら うみにとけ
骨は ほろほろ ちにうもれ
魂(たま)は ひらひら そらへちり

すみれ つゆくさ おきなぐさ
いつかは 花となるでしょう

 独特の旋律を持ったこの歌が初音はとても好きだったけれど、初音がこの歌をうたうことに、生前の母はあまりいい顔をしなかった。
 その理由を、古い歌には強い力が宿るから、むやみに口にしてはいけないのだと、母はよく言っていた。それに、言葉は、誰かが使う度に、その命を少しずつ失っていくのだとも。母のこの言葉は、何だかとても矛盾している、初音はそう思ったが、なんとなく、反論してはいけないものを感じて何も言えなかった。母の言うことは、学校の先生たちが口にするようなものとはずいぶんと違っていたけれど、学校の先生の言葉よりもずっと、ほんとうのことのように感じられるものばかりだった。
 母の作った歌の続きを何度もうたっているうちに、ふと、自分でもその続きを作ってみたくなって、母の作ったものとは違うものを自作してみたこともあった。母の歌は、彼女の作ったほかの歌と同じように、どこか哀しげで切なくて、それでいて、優しい、綺麗なものだったけれど、初音にとっては、なんだかそれが物足りないものに感じられ出したのだ。作ってみたものは、母のそれと比べればずっと子どもっぽいものだったけれど、初音にとっては初めて自で作った、大切な作品となった。
ふと、頭上で何かがうごめくような気配を、初音は感じた。コウモリか何かだろうかと思いながら顔を上げた初音は、その光景を見た瞬間怖気立った。
 初音の背丈の三、四倍はあろうかという高さのところに見えるそれらは、一見、小さい頃に見たプラネタリウムの星空や、クリスマスのイルミネーションに似ていた。
 けれど、今初音の頭上に見えるものたちは、プラネタリウムの星よりもずっと沢山あったし、イルミネーションの豆電球よりもずっと大きかった。
 金色に光るいくつもの目が初音をじっと見下ろしていた。暗闇の中でゆらゆらと揺れながら、ときおりぱちぱちと瞬きをしている。
 らんらんと輝くその目は、さっき見た野犬の目をふと初音に思い起こさせたが、それよりももっとずっと冷たくて、もっとずっときらきらしていた。
 ひそひそと人が囁きあうような声が頭上から、初音の耳に聞こえてきた。
『イサチノミコトだ。』
『イサチノミコトが来た。』
『違うよ。イサチノミコトじゃない。イサチノミコトならお月さまのにおいがするはずだもの。この子からは、お日さまのにおいがする』
 その言葉は、どう考えてみても、頭上の目玉が見える方から聞こえてくる。けれども、それらは決して人のそれではありえなかった。
 顔からさっと血の気が引いたかと思うと、すぐさま耳まで熱くなった。お腹の辺りは水を流し込まれたように冷たいのに、背中の辺りは夏の日差しにじりじりと焼かれているように熱い。丁度、風邪を引いた日の朝の、背中に感じるぞくぞくとした感じとよく似ていた。
 きっと自分は夢を見ているのだ、と初音は自分に言い聞かせた。そして、もしそうなら、いったいどこまでが現実でどこからが夢なのだろう、と考えた。
 不意に、天井の辺りから、何かがぽたりと音を立てて初音の足元へと落ちた。初音の足元に落ちた黒い塊は、形といい動きといいスライムとそっくりだった。けれど、初音の足元に這い寄ってきて触れたその表面は、ふわふわとした毛皮に覆われていた。
 塊に目を落とした初音は、その中にゆらゆらと浮かぶ、金色をした二つの目に気付いて、短く叫び声を上げた。すると天井からぼたぼたと続けざまに、黒い塊が落ちてきた。自分の顔面に降ってきた塊を懸命に取り除けながら、初音は金切り声を上げて駆け出した。途中、塊のいくつかを踏みつけてしまったが、そんなことには構っていられなかった。

 薄暗い洞窟の中を、初音は息を切らしながら走り続けた。体育の授業でだって、今夜ほど長く、一所懸命に走ったことなんてなかったかも知れない。
 初音が、もういくつ目になるのか分からない曲がり角を曲がった瞬間、何かが初音の顔面めがけて飛んできた。初音はとっさに腕をめちゃくちゃに振り回して、それを追い払おうとした。
 そのとたん、地面から突き出した岩に躓いて、そのままなすすべもなく、つんのめって転んでしまった。転んだ所が柔らかい苔でおおわれていたので、大した怪我にはならなかった。
 何かが自分から離れるのを見止めて、倒れたまま、初音はそちらを見やった。するとそこには、コウモリがいた。初音から少し離れた所で、怯えたように小さくなってぶるぶると震えているのが見えた。驚いたのはこっちの方だ、と心の中で呟きながら、初音は何とかして起き上がった。そして、泥がついてじっとりと湿ってしまった寝巻きを見下ろした。
 これが夢だとしたら、悪夢以外の何者でもない、そんなことを考えながら、初音は辺りを見回した。
 洞窟の中は、初音の知っている世界とは、まるで別世界だった。ごつごつした岩壁からは水が染み出して、川底の青白い光を映し返している。天井からは鍾乳石が氷柱のように垂れ下がり、ぽたりぽたりと雫を落とす音を響かせていた。
 初音は自分が倒れていた所から少し離れた、いくらか大きめの岩の方へ歩いて行った。そこにもびっしりと苔が生していたけれど、どうせもう汚れてしまっているし、これは夢なのだからと考えて、初音は構わず腰掛けた。
 しばらくの間目を閉じてじっとしていたが、初音の身には何も起こらなかった。突然気を失って、次に目を覚ましたら自分は、祖父母の家の座敷で仰向けになっているのではないか、などと期待をしたのだ。
 けれど、そっと目を開けた初音の目に飛び込んできたのは、ぬらぬらと光を放つ岩壁と、苔生した岩の上にある自分の爪先ばかりだった。
 突然、鼻の奥がつんとして、視界がぼやけてきたのを、初音は感じた。自分が今ここに居ることが、紛れもない現実だなどということが、初音にはどうしても信じられなかった。
 人間の姿をとる昆虫だとか、火を吹く蜂だとか、得体の知れない、人の言葉を話す毛むくじゃらの塊だとか、まるきりホラー映画の世界だ。
 その後もしばらく、初音はこりずに膝を抱え、目を閉じていた。しかし、どんなに頑張っても、祖父母の家の天井は見えてはこなかったし、小さな振り子時計が刻む規則的な音も聞こえてはこなかった。
 もと来た道を引き返そうか、そんな考えも頭を過ぎったが、もしもまたあの野犬の群と出くわしたらと思うと、それも思い留まってしまった。かといって、これからこの洞窟の中をさまよって他の出口を探すというのも、初音にはひどく困難なことに思えた。
 そのときふと、自分がこのままここで朽ち果て、やがて苔だらけのガイコツになってしまう様子を思い描いて、初音はぞっとした。そのとたん、さっきは引っ込んだ涙がまた込み上げてきて、初音はとっさに、抱えた膝へと顔を埋めた。
 もしもこれが夢だったら、誰かここまで来て、自分を出口まで連れて行ってくれればいいのに、それが駄目なら、せめて「これは夢だ。」と言ってくれるだけでもいい。そんなことを考えてみたが、どんなに待っても、初音が願うようなヒーローが現れる気配はなかった。
 母さんが死んだときだって、そうだったじゃない。頭の中で誰かがそう呟くのを、初音は聞いた気がした。

(続)

表紙画像 (C)柴桜様 『いろがらあそび5』作品No.22
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=63654068

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