歴史やストーリーを「だからなに?」と切って捨てる造り手の視界

ワインのブラインドテイスティング。これほど賛否両論あるものもそうそうないんじゃないかと思っていますが、皆さんはいかがでしょう?

これがどんなものかは今更説明するまでもないかもしれませんが、簡単に説明しておくと、「ブラインド=目隠し」の「テイスティング=味見」です。まさに名称そのままですが、実際に目隠しをしてワイングラスを口に運んでいるわけでは(通常は)ありません。そのワインを知るためのあらゆる情報から切り離されている(=目隠しをしている)という意味で、この方法で行うワインのテイスティングでは事前にはそのワインがどのような素性のものなのかを示す一切の情報が示されていません。
一部のコンテストなどではこの方法でテイスティングをして、そのワインの産地やブドウの品種、造られた年を言い当てられるかどうかを競ったりしています。ソムリエ関連試験の実技訓練などもこの方法で行っているケースは多いと思います。

ワイン業界ではわりとメジャーなテイスティング方法で、ワインに関わる仕事をしていれば誰もが少なくとも一度はやったことがあると断言できるほどであるこのブラインドテイスティング。それでも意外なまでにその意義を問う声は多くあります。

なぜでしょうか?

答えは、ワインをより”正しく”味わうためにはラベルに記載された各種情報やワイナリーの歴史、そのワインにまつわるストーリーを知ることが欠かせないから、だと言われているからです。
例えそれがどんなに偉大だと言われているワインだったとしても、ブラインドではその価値を正確に評価することは難しい、と言われます。前情報をきちんと仕入れ、そこにそれがある、そこにそれがあるのはこうした理由からだ、という理解を伴ってから実際にワインを味わった方がそのワインをきちんと理解できるのだ、ということです。

このことは不思議なことでも意外なことでもありません。
例えば何かの料理を食べた時に、自分では「辛いなぁ」と感じただけだったのに、同じ料理を食べた隣の友人が「あ、この料理辛いけど、後味は微妙に甘くて美味しいね!」なんて言ったのを聞いた瞬間に自分でも辛みの後に甘みを感じられるようになった経験など誰にでもあるのではないでしょうか。
この理由が、存在を知ったことによってその存在を見つけられるようになった(そこに意識を集中できるようになった)ためなのか、単に他人の意見に流されただけなのかは正直なところ分かりません。いずれにしても、自分がそれまで感じていなかった味を感じられるようになったことは確かです。

ワインもこれと同じだ、と言われればその通りでしょう。
人間、知らないものは認識できないものです。その存在を知ってこそ、はじめてその存在を認識できるようになります。そのワインに存在するすべてのモノを余さず認識するためには、事前にその存在をしっかりと知っているべきだ、と言われれば、仮にその「認識」は単なる思い込みかもしれないと思っていたとしても、それを否定することは簡単ではありません。

実際のコミュニケーションの場において、実際に口に出して「いやそんなの思い込みですよ」ということはまずありません。そんなことをしてしまえば、楽しかったワイン会の場が凍りつくこと請け合いです。
なんとなく、そうかなぁ、それは予断じゃないのかなぁ、と思っていても黙っているのがオトナな対応というものです。

ところが、これを「いや、それ思い込みだから!」と切って捨てる連中がいます。我々、醸造家と呼ばれるワインの造り手連中です。

我々作り手にとっては、ワインの評価とは一切の予断を入れずに行う、まさにブラインドテイスティングです。そのワインを造ったワイナリーの歴史も、そのワインをめぐるストーリーも、なんなら自分たちの好き嫌いといった好みさえも一切勘案せず、ズバッと切り捨てます。ワインの値段や誰が造ったかなんて眼中にもありません。
値段を見て味を想像するのではなく、味をみて値段を想像している我々にとって、事前に知って初めて感じられる味や香りなど単なる幻、思い込みの産物でしかありません。何も知らなくても感じられるものこそがそのワインの中に存在するすべてなのです。

なんでこんなことになるのかといえば、醸造家にとってワインとは一般名詞にすぎないからです。愛好家の方々が見つめる、ストーリーや歴史を背景に個性を獲得した固有名詞としての「ワイン」を見てはいません。
そのワインがいつ、どこで、誰によって造られたものであったとしても、それはすべてが等しくワインです。味や香りに違いはあったとしても、それはすべてのワインが持ちうる可能性の一つであるに過ぎず、何年に誰それがどこで造ったワインにだけ与えられる特別なもの、とは扱いません。

すべての余計な贅肉や装飾を拭い去り、あくまでもワインを構成する骨格部分だけに注目することで特定のワインに特殊性や物語性を与えず、あくまでも一般名詞としての延長線上にあるもの、と扱うのが我々です。そうしてすべてのワインを等しく同一線上に置くことで、我々は初めてニュートラルな立場からすべてのワインを比較することができますし、そうしないといけないと考えています。
なにしろ、醸造家にとっては世界中のすべてのワインが競争相手です。自分たちのワインの水準を上げていくのに必要なのは、純粋にワインとして比較したときに見える違いであって、ワイナリーの歴史や造り手の熱意をストーリーに仕立てたものではありません。そんなものは純粋な意味でのワインの味をなんら左右しないからです。

とはいっても、私だけに関わらず、多くの醸造家が「ストーリーはワインの味に影響を及ぼさない」などとは考えていません。むしろ、その逆であることを良く知っていますし、そうであることが研究の結果としても示されています。

問題は、このストーリーに影響されるものがボトルの中身や舌の上にあるものなのか、脳の中にあるものなのか、ということです。

ワインに関わらず、料理や嗜好品を楽しむ場合、その場所は舌の上であるとは限りません。むしろ多くの場合は脳の中です。
このため、ソムリエさんをはじめゲストの楽しみを最大化するためのサーヴィスをする立場にある方々はゲストの脳内の味に影響を与えるアプローチを取りますし、ワインを販売する方々もそうします。そうすることで、その飲み手の方が実際にボトルを開けてグラスを楽しむときにその味を実際のボトルの中身よりもより鮮明に感じられるようになるからです。

この点については実際に現場の方にお話をお伺いする機会を作りました。「ワインの味と作り手の顏」と題したこの座談会の記録は以下のリンクからご覧いただけます。
https://youtu.be/qRqraU_-80E
なお一般公開ver.は音声のみ15分のものですが、私の主催するオンラインサークルメンバーの方には全編を公開しています。ご興味があればぜひサークルを覗いてみてください。
▼ オンラインサークルへはこちらから
https://note.com/nagiswine/circle


これに対して、造り手はそうしたアプローチをとりません。純粋なまでに、愚直に、ボトルの中にあるものだけにフォーカスします。飲み手の脳内補正のことなど考えません。
むしろ造り手にはそのワインがどのようなストーリーをつけて売られるのかなんて分かりませんから、そのワインが飲み手の脳内でいったいどのような補正をされるのか見当もつきません。見当もつかないものに四苦八苦してみても意味はありません。だからこそ、我々はどこまでもボトルの中身にこだわります。自分たちで見ることのできる、中身にのみ、こだわります。歴史もストーリーも名前も、すべてを切り捨てたうえで残る、芯の部分にのみ注目するのです。

結果、そのことに熱心な醸造家であればあるほど、ワイナリーの歴史とかストーリーとかを聞いたときに「へぇ、それはすごいね。で、それがどうかした?そんなことよりも実際のワインの味はどうなの?」と冷めた態度で言い放ちます。
もしかしたら造り手の傲慢さ、と映るかもしれません。でも、違います。我々はそうした外部要素は純粋な意味でのワインの味になんら影響しないと断じているために、視界にそうした歴史やストーリーというものが映っていないのです。ブラインドテイスティングで得られる評価こそが純粋な評価だと信じ、そこに価値基準を置いているがために生じたすれ違いです。

飲み手の方々が造り手の理念やワイナリーの歩みに注目する一方で、造り手自身はそこを重視していない、というのは何とも皮肉なお話です。

ただそうした中でも、自分自身も造り手のうちの一人として、やはり純粋なボトルの中身のみに注目していたいと思っています。歴史も背景も何も知らず、目隠しして飲んでも美味しいと断言できるワインを造ること。ブラインドテイスティングをしても、何の言い訳もなく評価されるワインを造ること。それこそが造り手としてもっとも大事なことだと断言できる視界を持ち続けること。造り手に求められる姿勢とはそういうものだと、私は信じています。

造り手がワイナリーの歴史やワインのストーリーを「だからなに?」と切って捨てられることは、自分たち自身の発展と進歩を強く推し進めようとする姿勢を保ち続けていることの証左に他ならないのです。

Nagi

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