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ワインに親しむことに関する1つの考察|共感が排他性を加速する

世の中に星の数ほどあるワイン。やろうと思えば一生を通して「違う」ワインだけを飲み続けることも不可能ではありません。違う生産地域、違う生産者、違うブドウ品種。選択肢はいくらでもあります。

そうした豊富な選択肢がある状況にも関わらず、ふと自分の飲んできたワインを振り返ってみると、意外なまでに絞り込まれた傾向の中で経験を重ねてきたことに気がつくことは多いのではないでしょうか。
同じ生産者だけしか飲んでいない、ということは稀だったとしても、例えば1つの生産地域で造られているワインの比率が飛び抜けて多いことはありそうです。

ワインは日常にある身近な飲み物として扱われる場合もあれば、趣味の対象として扱われる場合もあります。どちらの場合だとしても、その立ち位置は嗜好品です。いくら身近にあるものであったとしても、自身の口に合わないものを日常的に飲む人は普通はいません。これが趣味になれば尚更です。楽しみたいにも関わらず、楽しめない、美味しいと思えないものを選ぶ必要はありません。他の存在であれば自身の好みにだけ合う対象を探すのには苦労する場合もあるかも知れませんが、世の中に無数に存在するワインでは、こうしたある意味でわがままな、別の言い方をすればこだわりにこだわり抜いた選択肢を選び出すことが可能です。しかもその選び出す過程に楽しみを見つけることもできてしまいます。こうして見てみると、同じ傾向を持ったワインに集中して飲んでいくことは、趣味としてのこだわりを持った、誇るべき結果であるとも言えるかも知れません。

仮に同じ生産地域で造られているワインだったとしても、その味や香りは確かに生産者、生産年などによって変わります。しかしその一方で、共通点といえるような特徴も出てきます。特徴と言えるほど明確なものでなかったとしても、傾向といって差し支えないくらいには似通っている要素があったりします。むしろ我々は、そうした傾向とか特徴として現れる共通項を軸にワインを選んでいる場合がほとんどです。

この共通項に慣れ親しむことには2つの意味があるように思います。
1つは共通言語としての意味。1つの特定のワインかも知れませんし、選択の中に存在する共通項かも知れませんが、それがまるで符丁のように同じ趣味を持つもの同士を繋ぐ共通の言語となり得ます。

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