社会不適合者の作り方

この人とは価値観が違うなぁと思うことが多くなった。価値観が違うからいっしょに楽しめない、そう思って少し悲しくなることが多くなった。

中学高校のときはまだよかった。教師の言われた通りに動けばよかったからたぶん級友同士の価値観の違いなんてものはあったとしてもなんら問題でなかった。むしろふーんそうなんだぁくらいの会話の種だったかもしれない。

時には、教師との価値観の違いにぶつかることはあった。なんせ田舎の学校だったから考え方もすこし古臭い。いわゆる文武両道の精神というやつだ。部活でがんばっている奴こそ勉強も本気で取り組めて受験に成功するとかいう進研ゼミの世界が本当に広がっている。それについては一応、私も受験を経験した身であるから一概に否定はしないが、だからといって勉強を部活と直接結びつけて考えるのは実に田舎らしい。私なんかはそもそも部活が嫌いだったので、放課後はいつも時計ばかりを気にしていたのだ。そして、ある日部活を辞めることを決心し、先生に伝えに行った。理由を話せと言われるが尤もらしい言い訳は勉強にいっそう励みたいからという教師にとって一番チープに響くそれしか思いつかなかった。当然教師には鼻で笑われ、部活を辞めるという私の小さく大きい宣言は虚しく、勉強の相談に来たという格好になってしまった。話はいっこうに進まず、時間ばかりが過ぎていく。それからはあまり覚えていないが、ついには号泣してしまった。辞める理由を次々と考えていたら部活の嫌いなところを頭の中に挙げていったら沸々と涙が溢れて止まらなくなっていた。こんなことははじめてだった。それでようやく事態を重く見た教師が話を進める方向に舵を切った。話は無事その日のうちに決着し、それからの放課後はフリーになった。号泣していたところを通りかかった部活の先輩に見られ恥ずかしさもあった。しかし、長年の鬱憤を解き放つことに比べたら些細な事だったと今は思う。

そんな中高を卒業し大学に来ればまた違う。今度は縛られるものがなく自分の意思に従って行動できる。するとその行動基準は自ずと価値観によって決定される。みんながみんな急に意志を持ったロボットのように動き出す。私にはそれが耐えがたい。中高の過程で私の人格は反骨精神という名のねじ曲がりを起こしてしまっていたから、普通にいいように育ったやつともどこか合わないのを感じるし、優秀な奴によくある変なねじ曲がりをしている奴となんかは拒絶反応を起こす。こういう感覚はうまく言語化するのは難しい。ヘルマン・ヘッセ著「車輪の下」の主人公と私はほとんど一緒なのだ。私の価値観はいつまでも大学生のそれと馴染まない。いつまでも、彼らほどいいように過ごしていない、私はただ歩みを進めていたらそこに立っていたというだけなのだ。叔母さんたちの期待に後押しされた結果でもあるけれど、それに応えようとも思わない。がんばったのは自分で苦しんでいるのも自分なのだ。これ以上のやりようがない。

現状を打破しようとも、そのたびに新たな価値観に遭遇し心を閉ざした。自分と相手の心に距離を感じるたびその空白を埋めるように心をぺしゃんこに潰すの繰り返し。距離がある、なんて大概はそうなのにそれで傷つくなんて私は正真正銘の社会不適合者だ。


今日も窓際で仰向けになってベランダから頭を出す。そこには空の青が広がっている。その深い青に吸い込まれそうになる感覚が一番好きだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?