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雑記:パーソナルリアリティ

本日の雑記のテーマ「パーソナルリアリティ」

人生設計という言葉がある。何歳には結婚してその数年後にはこうなって~とその名の通り自分の人生を設計することだ。言わずもがそれはただの妄想に過ぎず、実際に実現されることなんてまずない。それでもなぜそのような一見無意味に響く人生設計をするかと言えば、楽しいからに他ならないだろう。自分が将来こうなっていたらという可能性はさらなる無限の可能性を生み、そこからさらなる可能性の鎖が伸びる。無限の可能性が自らに秘めていると気づけば今を生きるのが楽しくなるだろう。

と都合よく述べたが、人生が下り坂に入ってしまった人からしたらそう楽しいものでもないかもしれない。これから先もつらいことが待ち続けていると知っていれば当然だ。

でも私は、誰しもが人生設計をしてみるのも悪くないのかもしれないなぁと最近になって思う。そこには「パーソナルリアリティ」という言葉との出会いがある。

原作が漫画でアニメ化もされた「とある科学の超電磁砲」という作品の中に登場する一つの概念が「パーソナルリアリティ」だ。実は本編でもさらっと触れられる程度の単語なのだが、はじめて聞いたときから妙に心に残る言葉だなと思っていた。それはこの作品に魅了されたからに他ならないのだろうが、とにかくこの作品の世界観について説明し、「パーソナルリアリティ」の重さを共有したい。

とある科学の超電磁砲(以下超電磁砲)では、科学で様々な能力開発を推し進める学園都市にて物語が展開される。なので必然、学園都市には能力者になりたいという若者が殺到するが、現実は厳しい。なぜならみんながみんな能力に目覚めるわけではないからだ。能力は才能に大きく依存するのだ。するとレベル0(無能力者)は当然肩身が狭く感じるし、どうしても能力者に対して嫉妬の感情を抱いてしまう。あるステータスが数字で見られるようになった社会ではたびたびそういうことが起こる。現実世界であればその代表例は偏差値だろうか。まぁともあれ、超電磁砲の世界では能力という可能性を望んでも現実は非常で結局才能頼みだったりする。現実と同様世知辛い。

しかし、能力開発機関としての学校はどうかと言えば、そんな才能依存の能力を教育するなんて意味がないとは考えない。そこで登場するのが「パーソナルリアリティ」という概念だ。これは、自分がどうのようになりたいのか深く考えることで能力を発揮できるという概念で、「心を強くもつことで真に能力が発揮(発露)できる」ということでもある。才能の無い人たちに投げかける慰めの言葉のようにも聞こえるが、そういえば現実でも同じようなことを先生は言ってばかりだ。勉強しろと。いささか似ても似つかないぶっきらぼうな言葉だが。そこで勉強の嫌いな中高生なら勉強は才能と簡単に諦めてしまうかもしれないが、実際はそうではないと分かっている人の方が多いと私は信じている。つまり、心のありようの問題なのだ。

さて、超電磁砲では主人公の御坂美琴が無能力者の嫉妬や憎悪に直接向き合う場面がある。それを私たちは自分とやってもいいんじゃないかと思う。自分の可能性について考え、前向きに生きることでより素晴らしい未来が切り開かれるのかもしれないと私は信じている。

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