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地味な父が「素晴らしい人生」を送った理由

美しく華やかな母と比べて、私の父は地味だった。

決して美男ではなかったし、小柄で口下手だった。

中堅の化学会社の研究員だった父は、母との初めてのデートに自分が研究している薬品の試験管を持ってきた。

夜遅くまで仕事をして帰ってくる父からは、いつも何かの化学薬品の匂いがした。

しかし、地味な外見に反して、父は人生に成功した。決して派手ではないけれど、昭和時代の典型的な成功とも言える人生だった。

わかりやすいのが家の大きさだ。
私たち家族は、私が小学生の頃、集合住宅の社宅から一軒家の社宅に引越した。そして私が20歳の時に、父は横浜に一軒家を建てた。

一研究員だった父は、課長部長と昇進していった。
最後は総合研究所の所長にまで昇り詰め、定年後は子会社の役員をしていた。

子どもながらに不思議だった。地味で口下手な父が、周りのお父さんたちを追い越して認められていくのが。そして美しい母の心を独占しているのが。

その片鱗を見たのが、高校生の頃だった。
休日に家にいると、玄関で父が誰かと話しているのが聞こえた。
「いつもありがとうございます。ああ、本当にすみません」
上司か偉い人が訪ねてきたのかと思い玄関に行くと、ニコニコしながら頭を下げている父が見えた。
父の前にいたのは、宅配寿司のお兄さんだった。

父が入院したのは、私が結婚して東京に来た直後だった。
病室に様子を見にくるお医者さんや看護婦さんに、父は毎回「ありがとうございます」と頭を下げた。
父の「ありがとうございます」は、痛みが全身を巡り、意識が朦朧とするまで続いた。

父のお葬式には、たくさんの人が来た。
社宅で一緒に過ごした人たち、親戚のように私に優しくしてくれた同僚の人たち。その他、私の知らない人たちもたくさんたくさん来た。

今でも思い出すことがある。
小学生のとき、同級生の悪口を言った私に対して「どうしてそんなことを言うんだ」と父は強い口調で問い詰めた。
問い詰められて答えが出なくなった時、「本当はその子のことを嫌いじゃなかったんだ。だったらそんなことを言うのはやめなさい」と父は言った。

目の前の人に分け隔てなく接すること、出会った人に感謝の気持ちを示すこと。

これがまるで執念のような父のポリシーであり、成功の秘訣であり、身をもって私に示したかったことなのだと思う。

父がこの世にいなくなってから、12年目の父の日になる。

私が次の世代の人たちに身をもって示すようなことはあるのだろうか。
あるとしたらそれは何なんだろうと考えてしまう。

父がくれた形のあるものにも、形のないものにも感謝します。

みなさんはどのような父の日を過ごしましたか?
あと数時間ですが、みなさんの父の日も、素晴らしいものでありますように。

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