【短編小説】無為な暮らしのある日の夕方
太陽が大きく西へ傾き、空が赤く燃えていた。
冬の気配がまだ残る3月のある日。時刻は夕方5時を回ったところだった。
街がオレンジ色に染まり、夜が近づいてくるのを感じることができるこの時間が好きだ。
雑踏が心なしか足早になったように感じる。皆、帰路を急いでいるのだろうか。
ここ最近は、昼過ぎに無為に布団から抜け出し、そのまま何をするでもなくぼーっと過ごし、それから街を散策する日々を送っている。
もちろん、街に出て何をするわけでもない。
路地裏で見かけた野良猫と会話を試みたり、小難しそうな会話をしながら歩く営業風のサラリーマンを観察したり、楽しそうに遊ぶ子どもたちを見守ったりして、時間を潰して過ごしている。
そして夕焼けが眩しいこの時間、私は決まって商店街の入り口にあるベンチに腰掛けて道行く人をぼーっと眺めることにしているのである。
商店街を中心としてビジネス街や高校大学がコンパクトにまとまった作りのこの街では、ここが一番人通りが多く活気がある。
今から飲みにでも行くのだろうかと思われるワイワイ騒ぐ大学生、誰かと待ち合わせをしている様子でキョロキョロと周囲を見ているOL、バリバリと五月蝿い音を垂れ流しながら走り抜けるバイク。
様々な境遇の人がこの一瞬だけ同じ空間に集い、また散り散りになっていく。いま会ったきり、今後の人生で二度と会うことがない人もこの中に大勢いるのだろう。
そのようなことを考えていると、この雑踏と同じく刹那的な自分という存在がとても不確かなもののように思えてくる。
日が落ちてきてあたりが徐々に薄暗くなり始めた。
少しずつ寒さが身に沁みてきたこともあり、今日はそろそろ帰ることにした。
まだ何者でもない自分が、何でもない今日を終える。
明日目が覚めたら何者かになっているのだろうか。
恐らく、何者でもないままだろう。
これからの人生がどうなっていくかの見通しなんて全くないが、もし私が何者かになれたとしたら、その時今の「何者でもなかった自分」を振り返って何を思うのだろう。
あの頃は自分に何もなくてつまらなかったな、つらかったなと思うのだろうか。
それとも、あの頃は何にも縛られず自由に過ごせて気楽だったなと思うのだろうか。
その答えはまだ分からない。
答え合わせは何者かになったいつかの自分に任せることにしよう。
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