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『精一杯の嘘』第一話-人生は全てタイミング-

ーあらすじ(全5章)ーnote創作大賞-恋愛小説部門-

44歳の平凡な主婦しずくは、ずっとテレビの向こう側の人間だと思っていた憧れの彼とSNSを通じて出会い、LINEで連絡を取り合う仲になる。
そして彼と会う約束をする。一泊二日の秘密の不倫旅行。
その夜ふたりは一線を越えてしまう。行為の後、彼に他に好きな人がいると告げられ絶望したしずくはここでのことは口外しない約束を破ってしまう。
あの手この手で彼を取り戻そうと奔走するも、、、本当の愛とは?人との心地良い距離感とは?喪失と人間再生の純愛小説。
『うちに、来ますか?』あの日、私は精一杯の嘘をついた。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

2022年7月23日土曜日午前6時30分。
私は大きな荷物を抱えて下りの新幹線ホームに立っている。
土曜日は出張するサラリーマンも多くはない。

7月に入り連日、テレビのニュースが
「コロナ新規感染者が過去最多を更新しました」と伝えていた。
旅行自粛ムードが広がっていたためなのか
夏休みに入って最初の土曜日だというのに
ホームには人があまり見当たらなかった。
今日も東海地方の予想最高気温は33℃を超えるらしい。

朝からもうすでに熱い日差しが腕をじりじりと刺している。
ホームにある冷房が効いた待合室に入ろうか迷ったが
誰も並んでいないホームドアの一番前で新幹線の到着を待っていた。

私の名前は月島しずく。平凡な44歳の主婦だ。
大学の同級生だった旦那と24歳の時に結婚して20年が経つ。
結婚してから旦那の実家がある東海地方で生活している。

そして今年19歳になった大学生の娘がいる。
真面目な仕事ぶりの旦那のお陰で家計は安定している。
お金の心配や苦労をさせられたことは有難いことに一度も無かった。
娘は大学やバイトや彼氏とのデートで忙しくほとんど家にいない。
子育てから解放されて少し寂しくも感じるが
ようやく自分の時間が持てるようになって来た頃だ。
だから私は平日の昼間だけパートに行き、気楽に働いて過ごしている。

週末を使って家族を家に残しひとりで旅行へ行こうとしている。

ひとりで旅行へ行く。
ただ、それだけなのに落ち着いていられなかった。
この旅行はずっと憧れていた大好きな彼に会うために
彼がいる土地に一泊二日で行く旅行なの。

ホームの隅で熱い日差しに耐えながら何度時間を見ても
新幹線の到着が早くなるわけでもないのに
スマホで時間を何回も確認しながらそわそわと落ち着きがなく
下りの新幹線の到着を待っていた。
今日のコーディネートは動きやすさ重視にした。
紺色の小さなショルダーバッグを肩に掛けて
襟元に控えめのレースが入った薄手の白いブラウスに
黒いサロペットを合わせてバッグの色と合わせた
紺色のスニーカーを履いている。
44歳だけど彼に少しでも若いとか可愛いと思われたくて
アラサーが着ていそうな恰好の服をあえて着て来た。
彼は若作りをする私を見てどう思うだろう?彼の反応が心配で不安だ。

彼のことを想う度に息が止まるくらいに苦しくなり
胸がいっぱいになり涙が出そうになる。
胸が苦しくなるくらい誰かを好きになるのは何年ぶりなのだろう?
この歳にもなってこんな風に誰かを好きになる経験をするとは
想像もしていなかった。
家族を家に残してひとりで彼に会いに行く姿を
正直誰にも見られたくなくて
そして一秒でも早く彼の前に現れたくて
早く新幹線のホームから立ち去りたいとせっかちになっていた。

しばらくして博多行きの尖った顔をした新幹線がホームへ入ってきた。
前のホームドアが開き、新幹線の扉が開く。
スーツケースを両手でグイっと持ち上げ
息をするのも忘れてその新幹線に飛び乗った。
内側の自動ドアが開きスーツケースを右手で引っ張り
左手でポケットからチケットを取り出し席の番号を確かめる。
進行方向に向かって左側三列シートの窓側の座席だ。
足元にスーツケースを置いて席に座る。
新幹線なんて初めてではないのに心臓が緊張ではち切れそうだ。
急いで席に着いてから出発まで30秒がとても長く感じる。

お願い!新幹線、早く、早く動き出して!

この電車が走り出したらもう引き返すことが出来ない。
それでもいい、この平凡な日常から連れ出して欲しかった。
チャイムの音が鳴りドアがシュウっと閉まって新幹線が動き出す。
これでもう後戻りなんて出来ない。
ようやく深い深呼吸をしてシートに深く沈んだ。

今から向かおうとする彼の住む所は新幹線とバスを乗り継いで
西の方角へ500㎞の距離。
4時間後の午前10時34分に
ずっと憧れて会いたかった彼に出会える予定になっている。

彼と一日一緒に過ごす約束をした。

この約束は紛れもない事実なのに何故かぼんやりして現実味が沸かない。
私なんかがあの彼に出会ってしまっていいのだろうか?
これから会おうとしているのは本当にあの彼なのだろうか?
彼はどんな顔で、どんな風に迎えてくれるのだろうか?
不安にも似たざわざわした気持ちが胸いっぱいに広がっている。
スマホを取り出し昨日の彼とのラインのトーク画面を開き
今日のことを約束するやり取りがちゃんとある事を確認して
いろんな意味で約束が間違ってないことに安心する。
大丈夫。彼はちゃんと待ってくれている。

大丈夫。夢ではない!妄想でもない!!現実なんだ。
スマホをバッグにしまい心を落ち着けようと窓の外に視線を移した。

新幹線は住宅地を抜けて大きな川を渡っているところだった。
窓の向こう側には険しい養老山脈が連なっている。
朝日が川の水面に反射してキラキラと眩しくて、目を閉じた。

そして彼のことを想いながら深いため息をついた。

どこにでもいそうな一般人の私が彼と一緒に
2日間を過ごす約束をしてしまった経緯は今年の春に遡る。
彼は20年以上音楽活動の拠点だった東京の家を引き払って
地元の中国地方の彼の実家のある土地へUターンした。
東京で活動していた頃はメジャーレーベルと契約をしている
バンドのメンバーで二万人のお客さんの前でステージに立って
演奏していたこともある実力派ドラマーだ。
そんな彼が一般人の私に会ってくれるなんて。
私なんかがいいのだろうか?

芸能人という人に一度も会ったこともない。
きちんと向き合って会話するのは彼が初めてだ。
そして今日迎えてくれる彼は
ずっと長い間憧れていた◆◆◆◆さんなのだろうか。
まだ会ってもいないのに彼と会った時の事を考えると
緊張して気持ちが悪くなる。
彼の前でどんな振る舞いをしたらいいのだろう?
こんなにも気が小さくて大丈夫なのだろうか?
そういえば朝も早かったしいつものコーヒーも一口しか飲めなかった。
お腹も空いている感覚が全くない。
あまりの緊張に日の出前の3時に目が覚めてしまった。
気持ちの弱さがすぐ体調に現れてしまう。
彼のことを考えるとご飯が喉を通らなくなり夜も眠れなくなる。

彼と会う約束をした2か月前から
食欲がなくなりもともと43㎏あった体重が40㎏まで落ちた。
はっきり言って身体の調子はすこぶる不調そのものだ。

ずっと憧れていた好きな人に会いに行く事は決しておかしな行動ではない。

でも既婚者で大学生の子どももいる母親。
そんな私が彼に会いに行くという行動は世間から不倫と言われてしまう。
いくら不倫と言われても彼に会いたい気持ちを止めることは出来なかった。ずっと憧れていた彼に会えるのだから。
絶対に手の届かない存在だと思っていた彼に会えるのだから。
このチャンスを絶対に逃したくなかった。
彼を私のものにしたかった。

彼の存在を知ったのは今から17年前、27歳の時。
まだ始まったばかりのYouTubeで
彼を偶然目にしたのが始まりだった。
2歳半の娘の子育ての真最中だった。
いつも午後二時を過ぎると、娘をお昼寝させようと
娘の背中をトントンと優しく叩いて子守り唄を歌いながら
ダイニングテーブルの周りを歌に合わせて何週も歩いた。
こうすると、娘は安心して眠りにつく。
ようやく眠った娘をそっとベッドに寝かせ
ふわふわの髪を撫でて布団を掛ける。
部屋の暖房をエアコンからオイルヒーターに切り替える。
加湿器から放出された水蒸気が冷たい窓ガラスを曇らせている。
眠った娘を起こさないように、そっとキッチンの食器棚から
透明のガラスのポットとティーカップを取り出す。
ポットにアールグレイの茶葉を入れてお湯を注ぐ。
ポットの中の茶葉が浮き上がったり沈んだりして
お湯が紅茶色に染まってくる。
ベルガモットの柑橘系の華やかな香りがリビングいっぱいに広がる。
ティーカップに紅茶を注いで両手でカップを包み込む。
冷えた指先が熱い紅茶で温まってくる。

ダイニングテーブルにカップを置いてようやく椅子に座る。
やっと自由な時間始まる。

娘がお昼寝をしている約2時間は紅茶を飲みながら友達にメールを送ったりYouTubeで音楽を聞いたりして
子育てから解放されほっとできる時間だった。
娘と一緒に遊ぶ時間は
アンパンマンの歌を歌い童謡を聴いていることが多い。
YouTubeでも穏やかでゆったりした音楽を選んでいた。
お母さんになると聴きたい音楽まで変わってしまうのだろうか。

その日も、いつもの様に娘がお昼寝させてYouTubeを見ていた。
YouTubeに出てくる
おすすめ動画一覧の画面を下にスクロールする。
指が止まった。
久しぶりに彼女の姿を見たからだ。
ライトに照らされた黒髪のショートカットの彼女の姿が
とても印象的だった。
長い髪でなくショートカットでも十分過ぎるほどの色気を放っていたから。なんだろう、珍しい。
バンド名も曲のタイトルも全て漢字というところにも興味を持った。
興味本位でその動画をクリックした。
なんだかイケないものを見てしまった。
それが最初の感想だった。

そのバンドの音楽は音がごちゃごちゃとしていて煩く感じた。
でもそのバンドの音楽がとても刺激的だった。
そしてMVの中でボーカル、ギター、ベース、ピアノ、ドラムの順番で
各メンバーにスポットライトが当たるシーンがあるのだが
最後に映し出されたドラムの彼の姿にショックを受けて
他のメンバーの姿の全てが吹っ飛んでしまった。
ただの興味本位から動画を観たはずなのに彼の姿に心を奪われてしまった。彼の髪型は高さのあるモヒカンに黒のノースリーブの衣装を着ていて
見た目が厳つくて取つき難い印象を受けた。
しかし彼の体は小さくてドラムを叩いている姿は
まるで子どもが暴れている様だ。
怖そうに見えるのに、何だか可愛い。
彼の姿に一瞬で心を奪われてしまった。
その姿があまりにも強烈過ぎて目が離せなくなった。
胸がドキドキと高鳴るのを感じた。

このドキドキする気持ちは一体何なのだろう。
ボーカルの彼女よりギターよりピアノよりベースより
ドラムの彼が気になる。
自分の気持ちを落ち着かせようと、一度YouTubeを閉じた。
そして、もう一度その動画の彼を観ようとYouTubeを開き
検索欄に彼の名前を入力した。
夏らしいが冬の光景を歌っているような
曲の動画の中の彼の姿をじっくり観た。
彼のドラムは大げさな身ぶりで
手数も足数も多くて見た目にも聴こえる分にもごちゃついていて
複雑に聞こえる。
それに、彼が叩いている姿は綺麗とは決して言えない気がする。
例えて言うのなら水鳥が水溜まりで
羽根をバタバタさせながら水浴びをしているようで忙しない。
ドラムは縁の下の力持ちの様なポジションで
演奏する人は体も大きくて頼りがいのあるお兄さんの様な人が多いだろうと勝手に思っていたから彼は子どもの様に体が小さくて
何処となく頼りなさげに見えてしまった。
でも、彼がドラムを叩くとどっしりとした音でまるで
黒人ドラマーが叩いている様に聞こえる。
ドラムは、裏から支える存在だと思い込んでいたので
大げさな身ぶりの彼は何と自己主張が強い人なのだろうと驚いた。

「お母さん、見て!見て!僕、上手でしょ?」

だんだん自己主張する彼の姿が
お母さんに褒められたいと頑張っている小さな男の子の様にも見えてきた。彼のお母さんだったら、彼の目を見つめてギュッと抱き締めて
「よくできました!」と彼の頭を撫でてたくさん誉めてあげたい。
彼は2歳年上の29歳だったが、彼が自分の子どもの様に思えてきた。
この感情は母性本能をくすぐるというのだろうか?

彼の姿を見ると
とっくに止まっていた母乳が出てきそうなくらい母性が溢れ出す。
母性本能をくすぐり、母乳を出させようとするドラマーとは
一体どういう存在なのだろう?
気になって仕方ない。
この気持ち誰かに話そうと考えると
じっとしていられずに椅子から立ち上がって
部屋の中をうろうろ歩き回り考える。
旦那は仕事でいないし、友達も仕事をしている。
実家の母に話しても判ってはくれないだろう。
彼の事を誰かに話したくなるが
話せる相手が近くにいないから娘がお昼寝をしてい間
ずっと動画を繰り返し見ていた。

彼の事を誰かに話したくて堪らなくなる。
誰に話したらいいのだろう。

そうだ、A君に彼の事を話してみよう!
A君の職業も彼と同じドラマーだから
この気持ちに共感してくれるに違いない。
高校の同級生のA君にメッセージを送る。
A君は高校生の時に片思いをしていた人だった。

通りすがりの音楽室で、防音を全く気にせずに窓を開け放っ
てドラムの練習をしていたA君に一目ぼれをした。
彼は私のイメージするドラマーそのものと言った印象の
体も大きくて頼りがいのあるお兄さんって印象だった。
でも、A君に告白する勇気もなく一方的な片思いで終わった恋だったから
A君と一度も話したことが無かった。
友達に当時流行っていたmixiを招待されて登録した。
そしてmixiでA君の名前を検索した。

A君はとても珍しい苗字だったので、すぐに見つけることが出来た。
mixiにはその人のページを見ると
自分が見たということがその人に判る足跡機能がある。
A君はmixiの足跡機能を使って私の存在に気づき
メッセージを送ってくれた。

大好きだったA君からメッセージが来たことがとても嬉しく
調子にのってしまい即返信をした。
そして、メッセージのやり取りをし続けるうちに
気づいたらお互いに両想いになっていた。
A君に、私のことを覚えている?と聞いたことがある。

「覚えているよ。目が大きくて可愛い子だったずっと気になっていて
一度話しかけたけど、無視された」と言った。

A君が目立たないタイプだった私のことを覚えていた。
A君のことを無視したのではなく突然、A君に話し掛けられて
恥ずかしさのあまり逃げてしまったのだ。
A君を無視したという誤解を解くことができて嬉しかった。

A君とのエピソードはさておき
彼のドラムについて言いたい事を繰り返し観ていた
動画のURLと一緒に送った。

私:「ねぇ、すっごくかっこいいのに、可愛い人見つけちゃったの。」

A君:「そうかな?」

「かっこよく見えるだけだよこの人
ほら、右手と左手がクロスしないでしょ?
オープンハンドって言うやつなんだけどそれでかっこよく見えるだけだよ
しかもバタバタしていて五月蝿いしオレの方が上手いと思うけどな」

A君も彼をかっこいいと言ってくれると期待したが
A君の「オレの方が上手い」という返信にがっかりしてしまった。
確かに、彼をかっこいいと思うのは私の主観的な意見だ。

A君は、彼をかっこいいと言ったことに嫉妬しているのだろうか?
それとも、ドラムが上手い彼に嫉妬しているのだろうか?

Aくんは12歳からドラムを始めて
ジャズコースのある大学を首席卒業してバークリー音楽院へ入学した。
バークリー音楽院在学中には同大学代表で
BLUE NOTE NewYorkにも出演したことがある
経歴の持ち主だ。
それに身長が180cmありスラっとしていて
容姿も小栗旬に似ていてかっこいい。
中学生の頃から常に彼女がいて、女の子からとても人気があった。
由緒正しい家柄の子息で、両親ともに教師をしている。
お母さんは音楽教師をしていて
毎週末ごとにピアノやパーカッションのレッスンのために
隣の県まで連れて行っていたという程、教育熱心なお母さんだった。
A君は絵に描いたような完璧な人生を送っている様に見える。
そして、A君は自分の恵まれた環境を理解していて
プライドが高いことも判っている。
A君からすれば、彼なんてぽっと出の人に過ぎないのだろう。
「オレの方が上手い」と言いたくなる気持ちが少しだけ判る気がした。
彼のドラムをかっこいいと褒めるとプライドの高いA君は傷つくだろうからもうこれ以上、A君に彼のことは話さないと決めた。
遠回しに彼のドラムを下手だ、かっこよくないと言っているA君に
少しだけ腹が立ち彼の話をしたことを後悔した。

彼のバンドのCDを買い集め娘と一緒に車の中でよく聞いていた。
彼のバンドの音楽は不倫の恋を歌った曲もあるので
二歳半の娘に聞かせる音楽として相応しいかと悩んだ。

でも、彼のバンドの音楽に合わせて
歌詞の意味も分からずにチャイルドシートを元気に蹴っている娘を見ると
不倫の曲の歌詞が二歳半の娘に与える影響など
心配する必要もなさそうだった。

A君とのエピソードに戻るが、旦那がそこそとメールを送る
私の行動を不審に思いA君とのメールのやり取りを見たことで
不倫がバレてしまった。
不倫を知った旦那は「娘を置いて出ていけ」と激怒した。

激怒した旦那にA君のことを聞かれた。
A君が高校の同級生でNYに住んでいること
未婚であることドラマーであること
そしてA君が日本に帰って来た時一緒に過ごした事を正直に話した。

「普通の仕事をしている人じゃないから、不倫なんてできるんだ
そいつはやりたいだけで、お前のことは遊びじゃなかったのか?」

旦那はA君がドラマーという音楽を仕事にしている人だと知り
遊んでいる人だと勝手に決めつけた。
A君はそんな人ではないし勝手に決めつけないで欲しいと
反論したかったけれど不倫をした私にそんな反論することは出来ない。
どう考えても、私が悪いのだから。

娘と離れることだけはどうしても嫌だった。
旦那に謝りA君と別れて「もう二度と不倫はしない」と誓った。
旦那はもう一度やり直そうとしてくれた。
旦那がドラマーという人物をイメージしたりドラムという単語を聞くと
A君を思い出すのではないかと考えた。
旦那がA君を思い出して、また不倫を咎められるのが嫌だった。
ドラムという単語を口にしない様に
彼のことや彼のバンドのことも話さないように気を付けて過ごした。
全て旦那がA君を思い出さない様にする為に。
そして、車の中にあった彼のバンドのCDを段ボール箱に入れて
クローゼットに仕舞おうと決心した。
フリップボードの上に両手を乗せて首を傾げる彼の顔が写った
CDジャケットが目に入った瞬間
CDを放り込もうとしている手が一瞬止まった。
彼に罪はないし、私の不倫と彼のドラムは一切関係がない。
勝手に彼のドラムとA君を結び付けて考えているだけだ。
知らん顔をして彼のバンドの音楽を聴いていればいい。
でも私はこのCDを見てA君を思い出した旦那が
不倫を咎めることが怖かった。

涙を堪えながら、半分だけ映った彼の顔に「ごめん」と一言だけ呟いて
手にしていたCDを段ボール箱に詰めた。
もう、この箱からCDを取り出すことはないだろう。

不倫という罪を彼に擦り付けたようで申し訳ない気持ちになり
白いバスタオルで丁寧にCDを包んで段ボール箱に入れた。
その行動は彼に罪はない潔白であると言いたい現れだった。
A君との不倫も彼のドラムも彼のバンドの音楽も無かったことにしよう。
その方がいい。
A君と不倫をしたという自分にとって都合の悪い事実から目を背けるように記憶から彼の姿を消した。
そして彼のドラムを好きと思うことをずっと避けてきた。

A君と別れてから約四年が経とうとしていた。
不倫をしていたときはA君としかセックスが出来なくて
旦那の誘いを全て断っていた。
A君と別れてからは、旦那がセックスを避ける様になった。
不倫をした私のことなど抱きたくないのだろう。
この4年の間に旦那とセックスをしたのは一度しかない。
そのセックスはお互いに求めたというより
一度くらいはしておかないと、という義務感から私が誘ったもの。

キスをして胸を触り性器が濡れていることを確かめるように軽く触れ
向かい合って抱き合い挿入し10分で全てが終わる。
旦那のセックスは淡泊過ぎてつまらない。
A君の激しいセックスが恋しくてさめざめと泣いてしまった。
旦那は私の涙を見て私の心が自分に無いことを悟ったのだ。
それ以来私たちの間にセックスはなくなった。

クローゼットの奥にしまい込んだ彼のバンドのCDを引っ張り出して
車の中で聴くようになった。
その音楽を聴くとA君との激しいセックスを思い出した。
もうA君に対して恋愛感情は残っていなかったが
あのセックスだけが懐かしかった。
激しいセックスがしたくなる度に、彼のバンドの音楽を聴いていた。
その音楽を聴きながらA君との初めてのデートを思い返していた。
チェックのワンピースにロングブーツを履いて
小さなバッグを持った独身時代と変わらない恰好をして
横浜で待ち合わせをした。
高校卒業以来10年ぶりに再会したA君はアメリカでの生活に揉まれたのか
すっかり大人の男性になっていた。
A君に完全に魅了され会ってすぐ関係を持った。
誰の目も気にすることなくA君に求められるまま体を預けて
喘ぎ声を上げてセックスしている私は母親ではなくひとりの女だと思った。昼間から何度も抱き合い、夕方頃ホテルを出て創作和食の居酒屋に行った。カウンター席で私の左側に座ったA君はビールを飲みながら
左耳に掛けた髪を撫でて「可愛い、好きだよ」と耳元で囁く。
2軒ハシゴした後にホテルに入り、また激しく求め合うセックスをした。
日本滞在中にA君が練習をしているときずっと傍にいて
ドラムの音を聴いていた。
A君のドラムの低音は耳というより子宮を含む内臓に響く感覚がする。
A君は練習が終わるといつもその場で私を抱いた。
私の手を壁に付かせワンピースの裾の下から下着だけを剥ぎ取り
後ろから荒々しく中に入ってくる。
さっきまで、A君のドラムの低音に震えていた子宮が
今度はA君の性器の打撃を受け震え感じている。
今でも、あの低音の振動にセックスの衝撃と近いものを感じて
無性にドラムの音が恋しくなる時がある。
そんなときに彼のバンドの音楽や彼のドラムを聴くと
私のことを激しく求めてくれる誰かとセックスがしたくて堪らなくなる。
あの求められる感覚が忘れられずに
もう一度不倫でもいいから恋愛をしたいと思う。
でも「もう二度と不倫はしない」と誓った。
もう一生誰とも恋愛をすることは許されない。

旦那は不倫をした私に「オレと娘に一生尽くせ。それが償いだ。」
と言うけれど、尽くすとはどういう事なのか判らない。

そのことの為に全てをする。
他人のために精を出す。
全てを表現する。
全部をやりきる。

「尽くす」の後にスペースを入れ
「意味」と入力し検索すると出てくる言葉。
そう言われてもピンと来ない。
自分の事を後回しにしてでも
旦那や娘を優先させるということなのだろうか?
一体、尽くすとはどういう事なのだろう。

旦那は私と娘を毎週末のように
車で一時間程離れた距離にある実家へ泊りがけで連れて行っていた。
遊びに行くと義母は必ず、お昼ご飯は外食に連れて行ってくれる。
その帰りにデパートに寄り娘の服や日用品や食料品まで買ってくれる。
夜ご飯も食べさせてくれてお風呂も入ってから帰る。
義母に「しずくちゃんは何もしなくていいから、ゆっくりしていってね」
と毎回言われるから本当に何もしない。
義母は私が手伝うことで
自分の家事のペースが崩れることをとても嫌がるから
手を出さない方がいい。

旦那に「お前は楽をしている、お母さんに感謝をしろ」と言われるが
毎週末旦那の実家に行くよりも家族三人でお出かけがしたい。
日曜日に子ども連れで
動物園や遊園地に行っている家族が羨ましくて仕方ない。
それに溜まった家事だって片付けたい。

大体、自分の実家ではない旦那の実家でゆっくり出来る訳がない。

旦那に週末は自宅でゆっくりしたいから実家へは行きたくないと言った。
旦那は「オレと娘に一生尽くすと言っただろ!それは嘘か?」と怒った。
自分の実家の帰省は我慢して
週末ごとに行きたくもない旦那の実家へ行くことを
尽くすというのだろうか?尽くすという行為が判らない。

旦那はひとりで考え込むことが多くなったようだ。
その日も夜10時を過ぎても旦那は帰宅しなかったので
娘と先にご飯とお風呂を済ませて
娘を寝かしつけていたら一緒に寝てしまった。
リビングの電気がつけっ放しで眩しくて夜中の1時位に目が覚めた。

ストーブがついたままで喉が乾燥してゴホゴホッと軽く咳き込んだ。
いつの間にか旦那が帰って来ていてご飯を済ませパソコンを見ていた。
寝ぼけながらそっと後ろから旦那に声をかけた。

「帰って来ていたの?お帰り」

足音も立てずに現れた私にびっくりした旦那は
慌てて開いている検索結果のページを閉じようとしたが
検索欄にA君の名前を見つけた。
そのとき旦那の携帯に電話が入り
「もしもし」と電話に出ると玄関で話し始めた。
夜中でも明け方の4時でも時間を問わずにお客さんから電話が入る。
そのたびに旦那は飛び起きて対応する。

結局そういうことか。
旦那は私に見つからないようにA君のことを調べている。
でも、どうせどこをどう嗅ぎ回ったところでどうせ大したことは判らない。A君はそれ程有名人でもないのだから。
そんなに気になるなら私に聞けばいいのに旦那のことを
いつまでもネチネチと執着心の強い蛇のような男だと軽蔑した。

旦那は私が不倫をしたことを自分の両親に話していない。
ひとりで思いつめた様にA君の名前を検索したりしないで
みんなの前で不倫を責め立てればいい。
そうしたら小さなことで不満を言われることもないだろうから。

旦那はティシュが切れた、床が濡れていた、洗濯物に糸くずが付いていた

夕飯のメニューが気に入らない等と細かいことで文句を言う。
そのたびに反論せずにごめんなさいと謝るだけだ。
ここで何か反論すれば
「不倫をしたお前に何も言う権利などない」と言われるに決まっている。
小言にひたすら耐える。
一度みんなの前で不倫を罵ってすっきりすればいいのに。

娘が3歳になる年に仕事を再開した。
義両親も実家の両親も頼れないので娘を保育園に預けて
平日の昼間の数時間だけ働いた。

朝は愚図る娘をあやしてご飯を食べさせ、着替えさせて登園準備をする。
出かける準備を済ませた旦那は椅子に座り
携帯を見ながらすでに焼き上がっているトーストが
お皿に乗せられてテーブルに運ばれてくるのを待っている。
家には手のかかる子どもがふたりいるよう。

朝、スーツを着たお父さんが
お昼寝のお布団を抱えて子どもを抱っこして保育園に送り届ける姿を見ると育児に協力的な優しい旦那さんが欲しいと羨ましくなった。

子どもと結婚したのではない、大人と結婚したのだ。
どうして義母は旦那を
自分で何もしないこんな子どもの様に育てたのだろう。
専業主婦なんて暇で他にやることが無くて子どもの世話を先回りして
何でもやってしまうからこんな何にも出来ない大人が出来上がるのだ。
そして暇なくせに世の中で一番大変で忙しいのは専業主婦だと言い張る。
義母のような専業主婦が大嫌いだ。
専業主婦にだけは絶対になりたくない。

義両親は私が働くことに大反対だった。

「旦那の給料だけで生活出来ないのか?」「保育園育ちの子どもは、小学校でいじめられる」「幼稚園と保育園の教育に歴然とした差がある」「保育園は貧乏なお家の子どもが行くところだから家の孫はそんなところに入れたくない」「あのお家の奥さんは子どものために仕事を辞めたからとても愛情深いお母さんだ」等と言う。
いつの時代の話だろう。
働く理由はお金のためだけではないし仕事が好きで働いている人もいる。
何より子どもを産んでからもずっと仕事を続けている
母の人生を否定されたようで気分が悪かった。

それに心にずっと引っかかっていた母の言葉がある。

「大学卒業して、社会経験もないまま結婚して家庭に入ったらもし
子どもが大きくなって、学校とかいろんなことで悩んでいたら
何てアドバイスできるの?できないでしょう?」
正論だから何も言い返せなかった。

社員で働くのは時間的に無理でも
パートでもアルバイトでもいいから社会と繋がって
その中で揉まれて自分自身が成長しなくてはいけないと感じていた。
それが娘に良い影響を与えると考えたから仕事をしたいと思った。
義両親に反論するともし、娘が体調を崩して保育園に預けられないときに
面倒を見てもらえなくなる。
だから、自分の意見を飲み込む。
我慢してその場をやり過ごすのが一番良い方法だと自分に言い聞かせた。

新しい会社で働き始めて一年が経った頃
社長のことが気になるようになっていた。

社長はどことなくA君に似ていたから。
どうしても社長と付き合ってみたくなった。
社長の彼女になれば会社内での立場が有利になると判っていたから。

大学一年の時にアルバイト先の映画館の支配人と付き合っていた。
その人は三十九歳の既婚者で七歳の娘がひとりいた。
初めてのアルバイトや慣れない一人暮らしで不安でいっぱいの私を
何かと気にかけてくれていた。
ある日、仕事終わりに食事に誘われて
お酒が入った勢いで体の関係を持った。
お付き合いするのも、何もかもが初めての人だった。

その人と付き合うようになり、私には楽な仕事しか回って来なくなったし
苦手な人と一緒の時間帯にならないようにシフトを調整してくれた。
しかも、欲しい服や靴やバッグも何でも買って貰えて
旅行にも連れて行ってくれた。
何より嬉しかったのは年下の私をいつもお姫様の様に扱ってくれたこと。
その会社の一番上の立場である支配人と付き合う事は
メリットしかなかった。
私が一年後に遠くに引っ越しをしたことで不倫関係は終わった。

会社のホワイトボードに貼ってあった社員の携帯番号一覧から
社長の番号を見つけて自分の携帯に登録した。
そして会議室に誰もいないことを確認して社長に電話をかけた。

「お疲れ様です、月島です。あの、突然電話してすみません」

「おう、お疲れ、どうした?急に」

電話に出た社長はとても驚いていた。

「お願いがあるんです、私と会社の外で会ってくれませんか?」

「…なんだ、会社辞めるのかと思った。いいよ」

断られるかと思ったが社長はメールアドレスを教えてくれた。
そして待ち合わせ場所を決めるやり取りをした。

翌日、会社から少し離れた市にある喫茶店で社長と会った。
付き合うかをまだ迷っている社長に
奥さんと別れて欲しいとは言わないたまに会って抱いて欲しいと。
喫茶店を出た後、ホテルへ行き関係を持った。
年上の男性とのセックスは思い切り甘えられて
同年代には無い安心感がある。
社長の腕の中で男は単純だと思った。
最初は戸惑っていても、身体を匂わせれば簡単に堕ちる。

社長は誰の目から見ても判るくらいに、私を特別扱いするようになった。
仕事でミスをしても「まあまあ、誰にだってあるから」と庇ってくれる。
私に話かける時だけ声のトーンが高い。
私が仕事で褒められていると、自分のことのように喜んでくれる。
周囲は私たちの関係に気づいているが相手が社長だけに誰も何も言えない。みんなは私に気を使って優しく接してくれる。
社長と付き合うことは、まるで自分が会社というコミュニティの
一番上にいる様な気分にさせてくれる。
そして、旦那とセックスレスで欲求不満だった私の性欲も満たしてくれる。不倫が悪いことだとは微塵も思わなくなっていた。

毎朝、通勤の車の中で彼のバンドの音楽を聴いていた。
その頃の私はすっかり社長に夢中になっていたので
その音楽を聴いてもA君を思い出すことも無くなっていたが
旦那は忘れてはいない。
少し大きめの喧嘩をするたびに
A君との不倫のことをチクリと言われるから。

だから、旦那と一緒の時は彼のバンドの音楽は聴いてはいけない。
ドラムという単語を口にしてはいけない。

旦那の束縛が日に日に強くなっていく気がする。
お盆休みの帰省前のことだ。

旦那に実家でのスケジュールを教えろと言われた。
例えば8月14日午前中は〇〇へ行く、午後は〇〇をする
などそれを実家にいる間の7日間の予定を前もって書き出せというもの。

実家でのスケジュールなんて考えたこともない。

「今日は天気が良いから海に行こう」とか
その日の天気や気分や娘の体調次第で予定なんていくらでも変わる。
仕事のスケジュールとは違うのだ。

もしかして旦那はA君と会っていると疑っているのだろうか?
A君とはもうとっくの昔に分かれている。
一体いつまでA君との関係を疑うのだろう。
もういい加減にして欲しい。

旦那の強い執着心と束縛に嫌気が差す。

勤務先はやたらと飲み会が多い会社だった。
「おいでよ」と誘われたが、夜に子どもを連れて出かけるのは難しく
ずっと断っていた。
それでも、旦那に娘を預けて一度だけ参加したことがある。
でも、旦那と娘の夜ご飯を作って娘に先に食べさせ
お風呂を済ませておくことが条件だった。
夜ご飯を用意しまだひとりで入浴できない娘と一緒にお風呂に入る。
パジャマに着替えさせ歯磨きをさせてから
もう一度化粧をして旦那の帰りを待つ。

旦那は早めに帰ってくると言っていたが
結局帰りは八時くらいで飲み会に参加できた時間は四十分くらいだった。
出かけるまでの準備で、どっと疲れてしまった。
こんなに疲れるなら参加するなんて言わなければよかった。
それ以来誘われても断るようになった。

「男の人はいいよね、飲み会とか、子どものこと気にせず遊びに行けて」

思わず旦那に言ってしまった。

「飲み会は仕事だ」

旦那は飲み会を仕事の延長線上と捉えていて遊びという感覚はないようだ。それにお酒があまり飲めない旦那は飲み会の場が苦手なのだろう。
旦那と私は飲み会という事に対してもお互いの認識が違う。

飲み会にも行けない、実家にも気軽に帰れない
家事育児は丸投げ、セックスレス。

一体どこでストレスを発散させればいいのだ。
たくさん色んなことを我慢している。
だから社長と不倫をすることくらい可愛いもの。

車の中でも彼のバンドの音楽をよく聴いていた。
そしてライブへ行きたいと言う気持ちが日に日に大きくなっていった。
娘はまだ5歳と小さいのでライブへ連れていく事は難しいだろう。
義両親に娘を預けようと考えたが「母親が夜出かけるなど、とんでもない」と大反対され娘を預けることが出来なかった。
どうして、義両親は母親が外へ出ることを快く思わないのだろう?
娘を保育園に預けて、昼間の数時間だけ働くことも面白くないようだ。
日頃からお世話になっている義両親に
「母親でも夜出かけていいはずだ」と反対意見を言う事が出来なかった。
だから、彼のバンドのライブは一度も行ったことが無い。

娘の小学校入学を機に旦那の実家の隣に家を建て引っ越しをした。
約2年続いた社長との不倫関係はそこで終わらせた。
そして新しい職場で働き始め、仕事を覚えるのに必死で
毎日がとても忙しくライブに行きたいという気持ちも薄れていた。

そう言えばこんなことがあった。

彼が公務執行妨害で逮捕されたのだ。
民家から「窓ガラスを割られた」と110番通報が入り
駆けつけた警察官が現場にいた彼に声をかけたところ突然彼が
警察官に体当たりしたという事件だった。
彼は当時酒に酔っていたという。
酔って警察官に手をだすなんて。
お酒にだらしない人は嫌いだ。
公務執行妨害なんて一般人ならニュースにもならない事なのに可哀想に。
でも彼が悪いのだし。
どこか他人事のようにニュースを聞いていた。

「逮捕歴のあるミュージシャンアーティスト特集」という記事に
彼の名前を見つけたときは、デジタルタトゥーの様に
前科が一生付いて回るものなのだろうと気の毒に思った。

もし、彼の立場だとしたら、過去の事をいつまでも穿り出されるのは
とても不快に感じるだろう。
私だって過去の不倫を蒸し返されるのはしんどいから。

彼のバンドが解散するとニュースで知ったときも特に何も感じなかった。
ただ一度もライブに行けなかったので少し残念だなと思った。

その当時は彼のバンドを追いかける余裕もなく
自分の仕事のことで精一杯だった。
そのバンドが解散していた後彼が
どんな仕事をしていたのかなど全く知らない。
バンドが再生するというニュースを聞いた時も驚きはしたが
とても喜んだという記憶はない。
だってすっかり彼の事を忘れていたのだから。
だが、彼のバンドが新型コロナの自粛ムードの中
ライブを強行したとニュースを聞いた時はとても憤りを覚えた。

2020年2月頃は新型コロナウィルス感染拡大防止のため
多くのライブやイベントが中止や延期となっていた。
私と娘は舞浜で開催される
「星の大地に降る涙THEMUSICAL地球ゴージャス」
を観に行くことをとても楽しみにしていた。

会場は舞浜だったので舞台を観た後はディズニーへ行く予定も立てていた。しかし舞台は公演中止になった。
娘は新田真剣佑に会えると楽しみしていたので
中止と知って相当落ち込んでいたが
自分だけではなくみんな我慢しているから仕方ないと納得していた。

自分の楽しみを重視するより感染症を広げないように
みんなが行動制限を受け入れて我慢をしていた。
それは映画館にも広がっていた。

映画の主題歌を歌う彼のバンドは
映画公開年の再生に拘ったのかもしれない。
でも、ライブの開催はコロナが収束した後でもいいのではないか?
XJAPANのYOSHIKIはツイッターに
無観客イベント開催を頼まれたが
スタッフやメンバーの安全も大切だとして断ったと投稿していた。
あの彼女は普段から人と違う事したがるが
ライブを強行開催するとは許せない。
世の中の流れと逆行する彼のバンドに心から嫌悪を抱いた。

勤務先の会社もコロナで取引先の映画館が休館となり仕事がない。
自分だって、いつ解雇されるか分からない状況なのに
どうして彼のバンドはライブを強行開催するのだ?
自分たちさえ良ければいいと言う考えなのだろうか?
全身の血が煮えたぎるような激しい怒りを覚えた。
家族の前で思わず
「あのバンドの音楽なんて、二度と聴かない!」と宣言した。
自分から彼のバンドの名前を言ってしまったことに気づきはっとする。
ビクビクしながら旦那の方を振り返り顔色を窺った。

旦那は私の口から彼のバンドの名前が出て来たことを
気にする様子もなくソファーに座り欠伸をしながらテレビを観ている。
そう、彼のバンドと彼のドラムを昔の不倫相手のA君と関連付けて
思い出していたのは私だけだった。
彼のバンドのCDをクローゼットに放り込んだり
旦那に隠れながら音楽を聴いていたのは何だったのだろう?
私の思い過ごしだったのだ。
あまりの衝撃に膝から崩れ落ちてしまった。

それから、開き直り旦那がいるところでも
YouTubeで彼のバンドの動画を観たりCDを聴いたりした。

「お前、もう二度と聴かないって言っていたのにな!」
旦那はそう言って揶揄った。

「二度と聴かない!」と宣言したのはこんなに我慢をしているのに!と
自分のストレスを吐き出すためのただのパフォーマンス。
これで思う存分に楽しめると前向きに捉えたけれど
予定されていたライブはすでに中止が決定していた。

ライブへ行けなかったがパルコで開催された衣装展を見に行った。
娘と張り切って開催初日の朝十時過ぎに会場へ行ったが
衣装展の会場には私たち以外に誰もいなかった。
朝早いためだろうか?
それとも世間の人はあまり彼のバンドに関心がないのだろうか?

「私は中に入らないよ、服を見て来る」

娘は興味が無いようで4階のSLYという洋服店に行ってしまった。
衣装展に行こうと誘っても、あまり乗り気ではなかった。
パルコで服を買ってあげると言って無理矢理に連れて来たのだ。

「ママが昔よく聴いていたから、少しは知っているよ
私の周りじゃ好きなんて言っている人いないし。
カラオケでソロの方は歌うよ。でもバンドなんて知らない」

「はぁ?バンド追っかけるのなんて、今時ちょーださいよ!
時代はYouTubeとアイドルだよ、日本じゃなくて韓国のね!」

18歳の高校生の娘はバンドには興味が無い様で
TWICEやBLACKPINKなどのKPOPを好んで聴いている。

娘は彼のバンドが好きだという私を時代遅れだと言い切った。
解散した時、娘は小学3年生だった。
その頃の娘は妖怪ウォッチが好きで音楽に興味が無かった。
彼のバンドが再生するまではテレビなどリアルタイムで見たことは無い。
興味がないのは仕方のないことだと思った。

衣装展の会場に入る前にPARCO西館3階のフロアマップを見た。
ここはJILL STUARTなど
20代後半〜30代の女性をターゲットにしたショップが多く入っており
実際に見かけるお客さんも若い人が多いとの印象。
ここで買い物をするお客さんの年齢層より
ファンの年齢層が高いのだろうか?
だからファンは若い人が集まるPARCOに行き辛いのではないか。
もし私が衣装展を企画したらファンが潜在的に多くいる
アラフォー女性が多く集まる三越伊勢丹にするだろう。
スマホで3パターンの衣装とポスターの彼の顔をズームアップして撮った。
ファンなら彼の画像をスマホの待ち受け画面に設定したりするだろうが
私は一度もない。
衣装展の約五か月後、彼のバンドの新しいアルバムが発売され
娘が欲しがっていたCDと一緒にネットショップで注文した。
発売日当日に購入するなどの拘りもなかったので
アルバムを手にしたのは発売日から一か月程経っていた。

ゆっくりと目を開ける。
世界にもう一度時間が流れ始めたようだ。
視線を窓の外に移した。

車窓に長閑な田園風景が広がっている。
風にそよそよと吹かれた稲の緑と青い夏空が眩しい。
新幹線は岐阜県を抜けて滋賀県へ入ろうとしていた。

毎朝、寝起きのぼんやりした頭で彼の事を考える。
仕事中でも彼の事を思い出すとキーボードを打つ手が止まってしまう。
自分のデスクトップを誰も見ていないかと周りをキョロキョロと見渡して
確認しgoogleの検索欄に彼の名前◆◆◆◆を入力する。
そして、検索結果に出て来た彼の画像をこっそり眺める。
彼の横顔が好き。
彼の姿を見ると仕事中なのに、思わず笑みが零れる。
一日中彼の事を考えている。
車を運転していても、彼の事が思い浮かんでぼうっとして
他に何も考えられなくなり、気づくと目的地を通り過ぎている。
家にいても、彼が送ってくれた写真をソファーに座ってずっと見ている。
お風呂にスマホを持ち込んで彼とラインをする。
寝る前に彼を思い出して眠れなくなると
彼が送ってくれたラインをもう一度見返している。
どこで何をしていてもずっとずっと彼のことばかり考えている。
24時間彼の事で頭がいっぱい。

ほんの3か月前はこれ程まで好きになるとは思ってもいなかった。
この短い期間に私の身に何が起こったのだろう。
今も自分の状況がよく理解できていない。

そして、今、彼に会いに行こうとしている。

今からあの彼に会いに行くの!
誰でも一度くらいは見たことあるはずだよ!
聞いたことがあるはずだよ!
武道館のステージに立ったことある人にこれから一人で会いに行くんだよ!聞かれてもいないのに車内にいる人みんなに自慢したいくらい。

第三者から見たら「何をしているの?」
「不倫なんてしない方がいいに決まっている」
「自分から危ないところに首を突っ込もうとしているなんて!」
「四十過ぎているのに物事の分別がまだ付かないの?」
と全方向から非難されるに決まっている。
でも彼に会いたいという気持ちは止められない。
彼に会って確かめたい!
彼の腕の中に飛び込みたい!そして思い切り彼に抱きしめられたい!
この気持ち分かってくれるかな?
危ない道を行こうとしているのは分かっている。
でも止めないで!

そう、これはすべてあんな事があったから。
人生は全てタイミング。
だから仕方ない。
言い訳にも聞こえる結論で自分を納得させる。

『あの日◆◆◆◆さんが私のツイートをリツイートしたからだ』





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