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『精一杯の嘘』第二話-うちに、来ますか?-

ずっと彼ひと筋だった訳じゃない。
その時の私は11歳年下の韓国のボーイズグループの男の子に夢中だったの。
20年以上昔に冬のソナタが流行ったことがあったでしょう?
あの時、自分の母親より年上のおばさま方が
ヨン様!と黄色い声を上げながら
空港にお出迎えする姿を呆れながら見ていたのを覚えている。
でもいざ自分がその歳になって、あの時のおばさまの気持ちがよく分かる。
子育てでいっぱいいっぱいだった子どもから手が離れて
ずっと自分のために楽しむことを放棄して来たから
その男の子、テソンを見ていると心が若返えるように感じるから!
テソンは笑うと目が無くなりマシュマロの様な唇でまるで赤ちゃんみたい。
「可愛い!」一瞬でテソンの笑顔にハートを撃ち抜かれてしまった。
母性本能をくすぐるってこのこと。

コロナウィルスの感染拡大のため在宅ワークが増えた旦那は
リビングのテーブルいっぱいに書類とパソコンを広げて仕事をしていた。
私と娘がリビングに居てもお構いなしに電話で取引先の人を大声で怒鳴る。
そのたびに体がビクッと反応して自分も怒られている様な気分になる。
旦那と一日中家にいると息が詰まる。

私と娘は仕事の邪魔にならないようにドライブへ出かけて
車の中で進路や恋愛や友達の話をした。
そのとき車の中でよく流れていたのがBIGBANGの音楽。
あまりにも好きすぎて、ふたりでファンクラブに入会した。
それから、インスタのアカウントを作り
テソンの画像や動画を見たりテソンのファンをフォローして
情報をシェアすることが一番の楽しみになっていた。
旦那はテソンに夢中になる私に呆れて笑う。
テソンが好きは浮気とは言わないのだろう。

2022年3月のある日。
BIGBANGがCOMEBACKするというニュースが飛び込んできた。ある人が「ファンクラブ入っていてもチケット全落ちなんてあるよ
チケットの譲渡とかツイッターでのやり取りが一番確実だよ」
と教えてくれた。
情報を早く手に入れるためにはツイッターが一番手っ取り早く確実らしい。ツイッターのアカウントを作り
ファンの人を20人ほどフォローしてみた。
すると本当にどうしてこんな情報を知っているのだろうかと感心する程の様々なBIGBANG関連情報が溢れていた。
今までインスタグラムしか見ていなかった私は
ツイッターの情報量の多さに感動しちゃった。
そして、次に無意識に彼の◆◆◆◆という名前を検索して
フォローのボタンをタップしていた。

3月22日の早朝5時ブーという通知音で目が覚めた。
もう誰だろう?こんな朝早くに。
寝ぼけながら、枕元のスマホを手繰り寄せてホームボタンを押す。
スマホの光が眩しく沁みる様に痛くて左目を瞑りながらスマホを開いた。
彼がツイートした事の通知。

『フローリングが冷たすぎる』

昨夜、彼は寝袋一枚にくるまって
夜を過ごさなくてはいけないとツイートしていた。
まさか、本当に寝袋一枚で床に寝るなんて、思ってもいなかった。
暖房もついていない一番冷え込む早朝の六畳のワンルーム。
凍てつく寒さの中彼はひとり固い床の上に寝袋一枚で丸まって寝ている。
冷えて足の指先が白くなり感覚も無くなって全身が冷えて痛いはず。
寝たら凍死してしまうくらいに寒くて、ほとんど眠れていないだろう。
彼は気まぐれなふわふわの温かい猫のイメージだけれど
今は氷の上で冷たくなって動けない変温動物の小さなトカゲみたい。
冷たく死んだように動かないトカゲを
私はそっと手のひらに乗せて家に連れて帰りたい。
温かいお布団の中で彼のツイートを呼んでいた私は
ひとり凍えている彼の体を温めてあげたくなった。
せめて彼の心だけでも温めてあげたい。

『うちに、来ますか?』

港区のタワマンの最上階。
独り暮らしにはこの部屋は広すぎるの使っていない部屋もあるから
ここにおいでよ、そんな気分でリプをした。するとすかさず

『もう、どこでもいくよ』

彼は私のリプをリツイートしてくれた。
最初はリツイートが何のことか理解できなかった。
だって、リツイートなんてされたのは初めてだったから。
しばらく彼からのリツイート画面をじっと見ていた。
これは一体どういうことなのだろう?
何が起きたのか理解ができるようになるまでしばらく時間がかかった。
これは彼からリプがあったということ。
ようやく寝ぼけた頭が状況を把握し始めると
心臓が誰かに掴まれたみたいにギュッとして
凄い速さでドクドクと鼓動した。
もう、妄想が止まらない。
家に呼んで温かいお風呂に入れて温かい紅茶を出してあげよう。
寒くて動けなかったトカゲは温められて小さな手足を動かし始める。

「寒かったね、もう大丈夫だよ、よしよし」

ストーブの前で毛布に包まれた彼の頭を撫でている。
強張っていた顔が温かく優しく解れていく。
頬を両手で包んで微笑みかける。
もう、勝手にお母さんになった気分。
母性本能をくすぐられるってこのこと。

『もう、どこでもいくよ』が
彼への想いに再び火をつけてしまった瞬間だった。

心のどこかで忘れられなかった彼と繋がってしまった。
この出来事が私の運命を大きく変えていく事になるなんて。

もっと彼にリツイートされたい。
何回もリプをして私のアイコンを覚えてくれたら
その内DMが来たりしないかな?なんて淡い期待をした。
何の根拠も無いただの妄想だけど、何となく上手く行くような気もする。
好きな人に直接話かけられないから
その人のSNSを見つけ出しDMを送り、メッセージのやり取りをする。
そして会話が盛り上がると決まってこう相手に言っていた。

「会社の外で○○さんに会いたいです」

それは私の成功体験。
でも、今回の相手は芸能人と言われる人。
そんな人と簡単に会えるはずがない。

初めて彼の存在を知った17年前。
あの時はCDを聴いたり
雑誌のインタビューを読んだりYouTubeを観て
一方的に彼を受け取るだけだった。

でも、今はあの時とは違う。
所詮SNSと言われるものであってもス
マホの小さな画面から確実に彼の元へ繋がっている。
確実に会えるなんて、どこにも保障がないけれど
何もしないで見ているだけなんて嫌。
何となく上手くいくような気もする。
だって、彼は私のリプをリツイートしてくれたの!
これは神様がくれたチャンス!と本気で信じた。

車窓には緑の田園風景が広がっている。
米原を過ぎたところで、ブーっとスマホの通知音が鳴った。
慌ててバッグからスマホを取り出しホームボタンを押すと
娘からのラインだった。

「今、どこ?」

「米原、滋賀県に入ったよ」

「気をつけてね」

私が今何処にいるのかを心配していた。
朝五時半に最寄り駅まで旦那に送ってもらった。
早かったので、寝ている娘を起こさないように小さな声で
「行ってくるね」と家を出た。

娘と旦那にはファンミーティングが当たったと嘘を付いた。
もちろん、彼の名前◆◆◆◆を伝えている。
毎日、彼のことで頭がいっぱいだったけれど
ふたりは彼に興味が無いようで「あのバンドのドラムの人って
そんな名前なの?知らなかったファンミーティングの倍率低そうだもんね
当たると思った」と、反応は意外とあっさりとしていた。

「良かったねー、楽しんで来なよー、いってらっしゃい」
そう言って快く送り出してくれたことを思い出し心がチクリと傷んだ。

旦那は土曜日も仕事だと言って出かけてしまい、娘は家にひとりでいる。

娘は自分で料理も出来るからお昼ご飯を作って用意しておく必要もない。
でも、娘の好きなピザを自宅に届けてもらうように
前日から手配をしていた。
ピザの他に娘の好きなサラダとチキンも。
ピザ屋までは徒歩三分の距離。お持ち帰りは半額になるが
あえて届けてもらうように手配した。

「私も旅行へ行かせてもうらうんだし
夜ご飯はお義父さんとお義母さんも誘って鰻でも食べに行っておいでよ」

旦那に夜ご飯代をいつもより多めに渡した。
自分の言動は家族に嘘をついて彼に会いにいく罪悪感から来るもの。

既婚者で母親という立場を忘れて大好きな彼と過ごすたった27時間。
大好きな彼と一緒に過ごす時間。
神様がくれたプレゼントとして平凡過ぎる私にあってもいいと
無理にでも自分を納得させる。
夢のような出来事は人生で何回も起こらない。
27時間だけ、そう、27時間だけ。
だから大丈夫。自分に言い聞かせて、窓の外に目を向けた。

膝の上に置いたバッグの中からまたブーっという通知音がする。
慌ててバッグからスマホを取り出すと今度は彼からのライン。

「今お話できる?」

彼に何かあったのだろうか?
もしかして、今日会えなくなったのだろうか?
短いメッセージに心がざわついた。

連絡をしなかったことで、彼を不安にさせてしまっただろうか。
「今家を出たよ」とか「今から新幹線に乗るよ」と
忙しくても送った方が良かった。

起きてすぐ、洗濯機を回して
トイレとお風呂を掃除してリビングと洗面所と廊下に掃除機をかけて
旦那の靴を磨いてゴミ出しをして
洗濯物を干し旦那と娘の朝ごはんを作った。

家を空ける二日間は
家事が家族の負担にならないようにと全て片付けて出て来たから
彼にラインをする余裕も時間もなかった。

右手でスマホを持ったまま
左手で膝の上のバッグの持ち手をひったくるように持つと
急いで席の後方のデッキに移動した。
進行方向に向かって右側のデッキに立って
手に持っていたバッグのストラップを肩にかけ直した。
壁に背中を付けて、着信履歴から彼の電話番号を見つけてタップする。
車窓から見える工場地帯の景色が後ろへ流れて行く。

3回目の呼び出し音が終わらない内に彼が電話に出た。

「おはよう、今どのへん?」

彼の問いかけに慌てて、窓から外の景色をきょろきょろと見渡すと
工場の銀色の外壁に堺という文字がぱっと目に飛び込んで来た。
いつの間に大阪に入っていたのだろう。

「大阪に入ったよ、堺って見えた、広島まであと一時間半くらいで着くよそれから、バスに乗って一時間ちょっとだから、あと三時間後に会えるね」

不安な気持ちをに吐き出すように一気に話し終えた。

「おっ、大阪入ったかぁ、あと三時間か、まだちょっとかかるね」

いつもと変わらない柔らかな彼の声で肩の力が抜けていった。
緊張から解放され涙が出そうになった。
私を縛り付ける窮屈で平凡な日常から彼の元へ連れ出して欲しいと
願ったのにいざ連れ出されると知っている人が誰もいない世界に
放り出されたようで独りぼっちで心細くて不安になる。
彼の声を聞くとほっと安心して一人ではないと心強く感じた。
彼という味方ができた気持ちになった。

ひとりで旅行へ行くことを知った義両親が酷く激怒した。
「女は結婚したら旅行など行くものではない
もし、旅行に行くのなら帰ってくる家はないと思え」
義両親は私ではなく娘に言った。
いつの時代の話だろうと呆れた。

「お義母さんたちは、しょっちゅう旅行に行っているじゃないですか?
どうして私は旅行に行ってはいけないのですか?」
そう反論したかったけれどその場にいなかったので何も言えなかった。

義両親は日頃から、頻繁に旅行へ出かけていた。
「留守の間お願いね」と半月以上も海外旅行へ行っていたこともある。
それも、年に1回ならまだしも今年は3回も。

旦那が社員旅行へ行くときは「楽しんできなさい」と
お小遣いまで渡していた。
私の旅行はたった一泊二日。
大好きな彼の元へ行く旅行ということを伏せて置いたとして
義両親や旦那の旅行と何が違うのだろう?
何故、私が旅行へ行ってはいけないのだろう?
どうして私をいつも家に縛り付けようとするのだろう?

だから、いつも朝早くから庭の花に水やりをしている義両親に
スーツケースを引いて出かける姿を見られないように
注意しながらこっそりと家を出て来た。
だから、彼のいつもと変わらない声が
極度の緊張で固まった私を温かく優しく抱き締めてくれた様で
ぽろぽろと涙が流れた。
全身の力が抜けたみたいによろよろとその場にしゃがみ込んでしまった。

「大丈夫ですか?」

はっとして顔を上げるとスーツを着た
五十代くらいのおじさんが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。

「大丈夫です」

指先で涙を拭い笑顔を作った。
おじさんとの会話を聞いていた彼が
「どうしたの?大丈夫?」と不思議そうに尋ねる。
ふたりに心配され、更に涙が溢れてきた。

普段こんなに誰かに優しく心配されたことがないから。
彼とおじさんが王子様に見える。
女性はいくつになっても、男性にはお姫様扱いされたい。
そういう男性に
ついふらっと気持ちが向いてしまってもそれは仕方のないこと。

指先で涙を拭い立ち上がって呼吸を整えた。
彼と話を続けているとライブのためのデータが
全て消えてしまった兎に角パソコンも調子が悪いと言う。
ライブ一週間前の大事なときパソコンがダメになるなんて。
彼に会いに行く日を決めた時はライブがあるなんて教えてくれなかった。
7月の始めのライブ配信で初めて知った。
私のために時間を作ってくれたことを申し訳なく思い
ライブ配信の後謝ろうと電話をかけたことがあった。

「ごめんなさい、私、何にも知らなくて
そんな大事な時に私が行っても大丈夫なの?」

「大丈夫だよ、だって言ってなかったし、心配しないでおいで」

「ごめんね、ありがとう」

あのとき、彼は私に心配しないでと言ってくれた。
でも、今日は少し事情が違う。

その時とは違ってパソコンの調子が悪いらしい。
どう考えても忙しくて大変なときに
私が押しかけてしまっていいのだろうか?

「二時間くらいここでドラム叩いたりパソコンいじったりするけどいい?」

電話の向こうの優しい彼の声に
何だか焦りみたいなものを感じて心苦しかった。

「一緒にいれたら、それだけで嬉しいし
そんなところに立ち会わせてくれるなんてすごく貴重だよ
大変なのに、本当にいいの?何だか申し訳なくて、でも、ありがとう」

何も彼の仕事の手伝いが出来ないのに
ただ彼の傍に居たい傍を離れたくないと思った。

電話が終わって席へ戻ると隣の席に女性が座っていた。
シートの足元に置いたままのスーツケースが
女性の席の近くまで移動していて申し訳ない気持ちでいっぱいになり
「すみません」と言ってスーツケースを自分の足元に引っ張った。

たった一泊二日の旅行なのに
三泊くらい出来そうなくらいの大きいスーツケース。
始めは大きめのL.L.Beanのトートバッグで
大丈夫だろうと考えていた。
彼へのプレゼントやお母さんとお父さんへのお土産や
釣りで服を濡らしたり汚した時の着替えや
予備のスニーカー水着やビーチサンダルを用意していたら
トートバッグひとつでは足りなくなってしまって
大き目のスーツケースにした。

今日の約束をしてからどんな服を着て行こう?
どんな髪型にしよう?と考えて、とても楽しかったことを思い出す。
好きな人を想って準備するのは、いつも楽しい。

彼は「芸能界は大っ嫌いだ」と言うけれど
人生の半分以上をそこで過ごして来たから仕事で出会う人は
容姿が美しい人ばかり。
綺麗な人なんて見慣れているはず。
その証拠に好きなタイプは深津絵里と言っている。
私だって大学生のときは五本の指に入る可愛さだなんて言われていた。
でも、もうアラフォー。
肌の質感だって若いときとは違うから
今日は大人の色んな粗が隠せるクッションファンデで化粧をしてきた。
好きな人の前では少しでもキレイでいたいと思う
誰の心にも存在するだろう切ない女心。
でも、恋をするのに年齢を気にする必要は全くないよね?
ほら、女の子はいつでも今が初恋と言うでしょう?

スーツケースを壁際へ押しやり窓の外に視線を移した。
新幹線は大阪を通過して神戸へ入ろうとしていた。
車窓から見覚えのある神戸の街並みが見える。
そう、五年前に家族旅行で来た。
でも、頭に浮かぶのは、そのときの旅行の思い出よりも彼のことだった。

彼にリツイートされた約一週間後のこと。
ふとツイッターのプロフィールにインスタのリンクを貼っておけば
インスタも覗いてくれるかなと思った。
だって、もっと彼に近づきたかったから。
そうだ、彼を捕まえる罠を仕掛けてみよう。

基本的にインスタはテソンをメインに投稿するアカウントだった。
でも、彼に関する投稿はあえて増やさなかった。
そんな興味無いですよ~って印象の投稿が並んでいる位のほうが
がっついてないし面白いとも思っていたから。
あんなに自分のことを好き好きと言っていた人が
インスタでは違う人を好きと言っている。
彼がヤキモチを妬かないかなと期待をした。
ストーリーに自分の写真を載せて
インスタを見た時は私の容姿が分かるようにもしてみた。
でも、そんな事をしなくても良かったのだと後になって知ることになる。

彼は誰かのプロフィールまで飛んで深追いしたことなんてないと。
でも、どこかに彼と繋がれるチャンスやヒントがあるはず。
彼のプロフィールの
「ファンコミニティもやってます。https://fanicon.net/fancomm」
ファンクラブがあるなんて初めて知った!と思った瞬間
気付いたら入会手続きをしていた。

暫くの間旦那には彼のファンクラブに入会したことを内緒にしていた。
だって、彼は「〇〇〇〇の音楽なんて二度と聴かない!」
と宣言したバンドのメンバー。
「言っていることと、やっていることが違うな」
と呆れられてしまうはずだから。
それに彼を好きと言うのは何処か後ろめたい気持ちがあったから。
彼を好きな気持ちは
推しという言葉で簡単に片づけられない気がしていたから。

入会して直ぐの頃
ライブ配信で彼が嬉しそうにデリヘルの話をしたことがあった。
デリヘルって、つまり、彼とそういう行為をすることでしょう?
嫌だ、絶対に嫌!私以外の女を抱いている想像をするだけで堪えきれない。今すぐスマホの画面の向こうの彼に抱き付いて
目を見つめて「ダメ、私以外はダメ」と
キスしながら押し倒してしまいたいのに。
それが出来ないこの距離に痛みのようなもどかしさを覚える。
じっとしていられなくて、こう、コメントした。

「私じゃ、だめ?」

彼はセブンスターの煙をぷっと噴き出して答えをはぐらかすように言った。

「私じゃ、ダメって
オレは面食いだって言っとるアーカイブ残せなくなるからやめときんさい」

彼が私のコメントに反応してくれたのはとっても嬉しかった
それから顔が見えないと大胆なコメントも出来る。

「〇〇さんの専属デリヘルになりたい」

彼は少し驚いて困ったような表情をしただけだった。
私は周りに空気が読めない人だと思われようが全く気にならなかった。
彼に私を見てもらえたら、それだけでいいのだから。

でも、ある人を不快にさせた様だ。
その人は私をブロックした。

その人は長年、彼の追っかけをしていてファニコン歴も長く
ツイッターのフォロワー数も多い。
周りの人から一目置かれている様な存在。
その人を怒らせたら陰で何を言われるか分からない。
でも何がいけないのだろう?
私は彼を好きな気持ちを素直に表現しているだけ。

配信を見るたびに、彼に会いたくてどうしようもない気持ちになる。
さっきまで繋がっていたスマホを胸に押し当てて
はぁっと深いため息をつく。
彼に会いたい。

彼にぎゅっと抱きしめられる妄想をする。
温かい胸に顔を埋めて心臓の鼓動を聞いていたい。
会いたい。
切なくて涙が溢れてくる。
彼に近づけると思って入会したの
に手の届かない遠い存在だと改めて実感することになるなんて。
どうしたらこの距離は縮まるの?

窓ガラスに新神戸の駅のホームが飛び込んで来た。
駅の直ぐ裏に切り立ったような山が見える。
この山頂にはハーブ園があって
旅行のとき三人でロープウェイで登ったなぁ。
そんな記憶が蘇っても直ぐに吹き飛んでしまうくらい
彼のことで頭が一杯だった。

4月初旬のある朝の日のこと。
キッチンでコーヒーを淹れながらやっぱり
彼にメッセージを送ってみようと思った。
ダイニングテーブルに置きっぱなしだったスマホを拾い上げた。
メッセージを送っても迷惑ではない、きっと大丈夫。

「あのメッセージは管理者の自分しか見られないところだから
みんなもっとメッセージ送っていいからね
あと勝手に会いに来ていいからね、相手するかしないかは自分次第だけど」

確かに、彼はそう言っていた。
あのメッセージとは彼と一対一で会話ができる1on1トークのこと。
しかも既読機能もある。
メッセージのやり取りを続けて彼が心を開いてくれたところで
「私、〇〇さんに、会いたい」と言ってみよう。

私:「ここにメッセージを送っているのは〇〇さん、ご本人なのですか?」

一気に文字を入力して
送信ボタンをタップするとき心臓がドクドクと波打った。
大丈夫、緊張するのはいつも最初だけ。
あとは、返信が来てしまえばそ
のまま勢いに乗ってやり取りを続けてしまえばいい。
少し開き直ってスマホをトートバッグに放り込んだ。

午前10時過ぎ。
仕事をしていると
机の横に置いたバッグの中からブーっと通知音が聞こえた。
ドキッとしてキーボードを打つ手が止まった。
彼からだ!見なくてもなぜか彼だと確信した。
こっそりバッグに手を入れてスマホを取り出し
シャツワンピースのポケットに忍ばせると
トレイに行く振りをして席を立った。
個室のドアを開けて鍵を閉めドアにもたれ掛かり
ドキドキしながらホームボタンを押した。
やっぱり、彼だ。

彼:「せやよ。」

たった三文字の返信なのに嬉しくて仕方ない。
すかさず、返信を送った。

私:「それならめっちゃ嬉しいです。だって大好きだから!」

午後の仕事が始まる5分前に新着メッセージの通知音。

彼:「そーいえば、最近というか
ずっと、〇〇おじさんプランの方に
なんのプライオリティーがないのがいけんですね。
なんか、良い案はないですか?」

これは全員に送っているメッセージだろうか?

私:「◆◆◆◆さんが家に来た!みたいな企画はどうですか?
〇〇さんが来るのが難しかったら、私が行きます!」

彼:「島根は遠いよー。交通費も高いし。気合と根性がいりますよ。」

私:「私だったら、絶対に行きます!それに、そんな企画があったら
みんな◆◆さんのこと大好きだから嬉しいと思いますよ」

どこかのテレビ番組の「充電させてもらえませんか」みたいに
旅先の心優しき人にお願いしながら
電動バイクで旅をする人情すがり旅みたいな企画を想像した。
彼の人懐っこい性格なら成り立つような気がしたから。
でも、返信はそれ以降なかった。

やり取りが続かなくても、それは仕方のないこと。
会ったこともないし彼の事を知っているとしてもそれは一方通行的なもの。もちろん、彼は私の事なんて何も知らない。
言ってみればただのファン。
何を話題にして会話を続けていいのだろう。
会話が盛り上がったら
「会いたい」と言おうとしても肝心の会話が続かない。
どうしたらいいの?でも、どこかに解決方法があるはず。
必死に考える、だって、彼が好きだから。

気づくと一日中、彼の事を考えているの。
ラインで「はい、了解しました」と入力しようとすると
変換候補に◆◆◆◆という名前が出て来る。
ヤフーの検索履歴は◆◆◆◆に関連する言葉で埋め尽くされている。
毎日彼のことで頭がいっぱい。

メルカリを開いてもなぜか彼の◆◆◆◆という名前を検索している。
出て来た検索結果の一覧をスクロールしていると
彼の直筆サイン入りドラムヘッドが目に飛び込んできた。
咄嗟に彼に触れたい!そう思った。
好きなアイドルの仕様済ストローが欲しいという人を
気持ち悪いとどこか軽蔑したような目で見ていたけれど
今ならその感覚が分かる気がする。
だって、彼が触れたものに手を当て彼の温もりを少しでも感じたいから。

販売価格は二万円。
いくらサイン入りでも二万円という価格が妥当なのか分からない。
誰も購入せずに売れ残っているということは
価格が高すぎるという事。
それにそのドラムヘッドは一度他人の手に渡ったもので
直接彼から受け取ったものではない。

気が付いたら指先が勝手に動いて購入手続きをしていた。
まるで彼のツイッターを何気なくフォローした時と同じ様に。

約一週間後の夕方。
ドラムヘッドが届いた。
中身が破損しないように「折り曲げ厳禁」と大きく書いて
丁寧に梱包して送ってくれた。
ガムテープをカッターで慎重に切り開き
緩衝材に包まれたドラムヘッドをそっと丁寧に取り出す。

そして手を当ててみる。
少しザラっとした手触りの中に彼の温もりを期待したけれど何も感じない。冷たい無機質な物体。
誰かがサインは自分のために書いてくれたという
記憶と時間が嬉しいものだと言っていた。
そうだとしたら、私が今、手にしているモノは一体何だろう?
私のために書かれたものではない。
冷静になれば、そんなものを二万円も出して購入するなど、狂った考え。
でも、彼との会話のきっかけに使えるかもしれない。

白い布を広げてドラムヘッドの隣にぬいぐるみを置いて
写真を撮りメッセージに添付した。

私:「届きましたー!」

彼:「いくらしたん?」

私:「二万円です」

彼:「あああああああ!!!!なんぼでも書いたげるのにあほー!!
言ってくれたら送ったげたのに。なんで?」

私:「だって欲しかったんだもん。
そんなお手間を頂くのは申し訳ないです」

彼:「いいの。今度からは内緒で言いなさい。
そのドラムヘッドは定価で1800円です。
着払いでいいなら2000円でうります。
売ったクズが喜ぶようなことをしてはいけません。」

私:「ごめんなさい」

彼:「いいよーー。メルカリの話。
一番イラっとしているのは誰でしょうー?」

私:「ごめんなさい。」

彼:「おこってないよ!おいらが一番イラってするよ。
って話。ありがとうね。」

彼が怒っているのは、なぜだろう。
自分のサインがメルカリで売られていたこと?
それとも2万円の価値しかなかったこと?判らない。

勤務先の会社でこんなことがあった。
サインやグッズを読者プレゼントで取り扱っている。
読者は雑誌を購入し付属の応募用紙のアンケートに答えて
ハガキに貼りポストへ投函するという手間を掛けて応募する。
中にはどうしてもその人のサインが欲しいと
コメントが書かれていることがある。

この人は、大ファンです、と言っている。
この人にプレゼントしたら、きっと大切にしてくれるだろう。
そう期待して当選者を決めることもある。
でも、サインやグッズがメルカリで転売されているのを見かける。
当選者の手に渡った物はその後どう扱おうがその人の自由だけど
サインを書いた本人はお金儲けの道具として使われてしまうのは
残念だと思うだろう。
それはきっと彼も同じなのだろうか?
素直に聞けばいいのにどうしても言えない。

隣の席には姫路駅で女性と入れ替わりで乗車して
来た二十代くらいの若い夫婦が座っている。
顔を見合わせて
クスクスと笑いお喋りしている夫婦がとても幸せそうに見えた。
もし私が独身だったら
この旅行も全く違うものになっていたのかもしれない。
帰りのチケットなんて用意しない。

これも4月上旬の頃のお話し。
もしかしたら、彼は私のことを少しだけ気にしている?
と思うような出来事があった。

仕事中にブーという通知音と一緒に引き出しが振動で震えた。
こっそり開けてスマホを見ると
彼がグループチャットに投稿した通知だった。

「ピエロと闘ってきます!」

ピエロって何だろう?きょとんとしてしまった。
何のことなのか判らなくて
次々に表示されるみんなのコメントを眺めていた。

「頑張って!」

頑張る?何を頑張るのだろう?
みんなのコメントを追っていく。
彼が画像を投稿した。
ピエロとはスロットのことだとこのとき初めて理解した。
スロットなんてやったこともないし、パチンコ店に入ったことすらない。
何とコメントすればいいのか判らないけれど
彼もその辺にいる普通のおじさんと何ら変わらないと感じた。

旦那はギャンブルも一切やらない人だから
彼の姿が何だか新鮮に映った。
スマホを閉じて仕事を続けた。
連休前でイベント関係の発注が多く必死に仕事を片付けた。

お昼休みにスマホを開くと彼からメッセージが届いていた。
嬉しいというよりも驚いた。
彼からメッセージを送ってくれるのは初めてだったから。
パチンコ店内の写真が添付されていた。

彼:「のちに上げますが、昨日内緒で釣りに行ってきました。
おいらはボーズだったのでアップしない予定でしたが
いま、どうしようか悩み中です。」

何と返信したらいいのだろう?
そうだ、パチンコなど知らない真面目な女性を演じよう。

私:「えっ?コレ、なんですか?」

彼:「引いたー!!いいよー。というか
おいらだけいろんな事知られてて
おいらはみんなのことほとんど知らなないって、結構しんどいもんよ。」

彼:「地元のスロット屋さん。誰もいねぇ笑」

私:「どんな姿だって見たいと思いますよー」

そう返信したが、そこでやり取りは終了してしまった。
彼が何を考えてこの写真を送って来たのだろう。

「オレは仕事を離れると
パチスロやってるその辺のおじさんの姿と変わらないよ。
そんなずっとカッコよくはないよ、疲れちゃうし。」
そう言いたかったのだろうか?

私の周りに芸能人と言われる友達はいない。
ファンの立場しか経験していない私は
彼にどんな態度で彼に接していいのか判らない。
そして彼も急に親しげに近づいてきて
私がどんな態度で接するのか試す様なことをして
私の元からすっと去っていく。

私:「みんな勝手ですよね
その人を神格化して自分の思っていたのと違ったら
裏切られたとか言って その人の知らない一面が見えただけで
私はふーん、そうなんだくらいにしか思わないです。
あなただってちょっとエッチなところもある普通の男性でしょ?」

彼は「そだね。」と短い返信をくれただけだった。

普段から彼はファンとこんな近い距離で接しているのだろうか?
それとも、私にだけ、なのだろうか?
「私はあなたのことを知りたいし、あなたにも私のことを知って欲しい。
会ってしっかり目を見てお話がしたい。
あなたと仲良くなりたい、その気持ちに嘘はない。」
そう伝えたい気持ちをぐっと堪えた。

それからも彼からの返信は、あったり、なかったり。
返信するかしないかはオレ次第と言っていた通りだ。

ある日の夜。
お風呂上がりの濡れた髪をバスタオルで拭きながら
会いたいと言ってみようと思った。

私:「○○さんに会ってみたいな。会いに行ってもいいですか?」

彼:「深津絵里みたいな見た目だったらいつでもおいでー。
笑ここに写真上げれるよ。
おいら以外(ファニコンの管理者も)誰にも見られないし。
って必死か!あと浅丘ルリ子!」

少し腹を立てた。
深津絵里に似ています!なんていう人はなかなか居ない。
確かに彼はライブ配信でも、自分の事を面食いだと言っていた。
これでは来るなと言っているのと同じだ。

スマホをリビングのソファーに放り投げたつもりが
間違って床に落ちてゴトンと鈍い音が響いたけれど拾い上げず
バスタオルを他の洗濯物と一緒に洗濯機の中へ放り込み
洗剤と柔軟剤を入れて、スイッチを押した。
水のザーっという音を聞いていると少し気持ちが落ち着いてきた。
化粧水を手のひらに取り両手で頬を包み
鏡に映った自分を見て胸が酷く痛んだ。
そりゃ、私は深津絵里には似ていないし、美人でもない。
芸能界は綺麗な人ばかりで彼の目は肥えている。
まだ自分の容姿を見せてもいないのに敗北感に包まれた。

そんな私に彼が会ってくれる訳ないだろう。
床に落ちたスマホを拾ってソファーに座り
深津絵里と検索した画像をスクロールして眺めた。

48歳になった彼女は年齢を感じさせないくらい若々しい雰囲気。
上品な笑顔。シャープな顎のラインが小顔をより小さく見せている。
目鼻立ちが美しいのも勿論の事
肌のキメが細かくて透明感があるのがとても印象的。
色白でそばかすやほくろが目立ちやすいけれど
隠したり整形で取り除いたりしない。
そのままの感じが彼女らしいしそのままでも美しい彼女。
どの瞬間を映されても凛とした表情をしている。
ふと左の頬の大きめのほくろが目に留まった。
白い肌に似つかわしく無い存感の大きなほくろ。
そのほくろが揺るがない強い意志の句読点の様に見える。
深津絵里が好きだと言う彼は強い女性が好みなのだろう。

そう言えば、あの彼女も左の頬にほくろがあった。
彼は顔の左側にほくろがある女性に惹かれる癖があるのかもしれない。
彼に会うためには、左頬にほくろがあることが必須条件なのだろうか?

私:「何だかすごく寂しいです。」

彼:「どうしたの?」

私:「〇〇さんは私が深津絵里に似てないと会ってくれないのでしょう?
私のツイッターにインスタへのリンクが貼ってあるのですが
覗いたことありますか?」

彼:「うん。なんか韓国の人がいっぱい出てきた一応
あなたのことをフォローしといた」

その言葉にはっと驚いて息を止めた。
彼はツイッターのリプからその人のプロフィールを
覗いたことはないと言っていた。
でも、私のプロフィールは見てくれた!しかもフォローしたなんて!
ツイッターのプロフィールにインスタのリンクを貼って置けば
インスタも覗いてくれると考えた作戦が成功した。
でも、彼に見られていると思うと
投稿を全て消したくなるくらい恥ずかしい。

彼のインスタに有名人でも何でもない私が
突然フォロワーに現れたらとても不自然。
彼は周りがどう思うかなど、全く気にかけていない様子。
そんな私も、彼にフォローされたことが嬉しくて
周りの反応なんてどうでも良くなっていた。

私:「私は普段インスタメインだから、DMで写真送っていいですか?」

メッセージと一緒に娘の顔をスタンプで隠した写真を送った。
既婚者で娘がいることはまだ隠しておきたかったから。
返信がない。
期待外れ残念とがっかりしたのだろうか。

すると返信が来た!

彼:「あー美人だー!」

同時にピコンと画像にハートマークが付いた。

彼:「今のあなたが見たい」

今度は彼の自撮りの写真が届いた。
いつもの黒いスウェットに物言いたげな表情で顎に手を添えている。
少しカッコつけている?
この写真を見た人は誰も彼が◆◆◆◆だとは思わないだろう。
アーティスト写真よりおじいちゃんの様に老けて見える。

実家の六畳の和室。
壁には釣りのベストが掛かっている。
後ろにはお布団が丸めて置いてある。
ひとり暮らしの部屋でよく見かけるスチールラック。
柱に画鋲で張られたカレンダー。
彼の日常がそのまんま写されていてとても親近感を覚える一枚。

私だけに見せてくれた姿にちょっぴり感じる優越感だけど
自分の写真を先に送ることで
私も写真を送らなくてはいけない雰囲気を作る。
これはいつも女性に対して使う作戦なの?
お風呂に入ってメイクも落としたすっぴんだし
髪も洗いっぱなしでパジャマなのに。

私:「メイク落としちゃった」

彼:「メイクなしじゃだめなの?
おいらはそういうのありのまま晒け出してるよ、ずるい人」

私:「パジャマだよ しかもすっぴんだよ」

彼:「やった」

急いで肌の補正ができる写真加工アプリを探し出して
ダウンロードし肌色のトーンを少し上げた写真を送った。
ありのままの姿を見せていないことにちょっとだけ罪悪感。
でも、みんなこのくらいの加工なら普通にしているし分からないだろう。

彼:「素敵です むしろ何がいかんかったの?」

上手く騙せた気がした。

私:「私のインスタは
BIGBANGのテソンがいっぱいだから妬かないでね。
下の方に〇〇さんの投稿もあるけれど恥ずかしいからあんまり見ないでね。テソンの画像はみんなでシェアして楽しむものだから
私がテソン、テソン言ってても気にしないでね」

恥ずかしくてつい余計なことを口走ってしまった。

彼:「みんなでシェアして楽しむもの?
テソンさんはさぞ苦しかったでしょうおいらはそれで苦しみました
何度も辞めようと思いました」

苦しい?辞めようと思った?何を言いたいのか判らない。
素直にどういう事なのですか?と聞いた方がいいのだろうか。
でも、そんなことを聞いたら
俺の気持ちが全く判らない人だと思われてしまいそうで必死に考える。

私はテソンが歌っている姿、つまり仕事をしている姿をカッコいいと言う。もし、テソンが家で寛いでダラダラしている姿を見たら
「そんなのはテソンではない」とがっかりするだろう。
それは彼にとっても同じなのだろうか?
みんなはドラム叩いている彼の姿つまり
◆◆◆◆の姿をかっこいいと言い近づいてくる。
仕事から離れた時でも◆◆◆◆の姿を求められたら
常に仕事のスイッチON状態で、気が休まらないだろう。
彼は◆◆◆◆ではなくてありのままの姿を受け入れて欲しいのだろうか。
でも、本当の考えは判らない。

私:「私たちの好きって、負担になるものですか?」

彼:「それは太陽のように眩しく月のように美しくときに残酷なものです
でも、しずくさんは今日心の中に入ってきたから大丈夫 また話そう」

それはどういう意味なの?素直に聞けばいいのに聞けない。
彼がまた話そうと言ってくれたのは少し安心した。

姫路駅を過ぎると進行方向の右手に姫路城が見えてくる。
景色が一瞬にして真っ暗になった。
新幹線がトンネルに入ったようだ。

5月のある日の事。
「気が向いて電話してくれたら嬉しいな」と
電話番号をインスタグラムのDMで送った。
たぶん電話がかかってくることはない。
でも、もしかしたら彼なら、と淡い期待をする。

その日はどこへ行くにもスマホを肌身離さず持ち歩いた。
何度も着信がないかを確かめた。
それから、インスタグラムの通話機能を使ってみた。
でも、呼び出し音が鳴り続けるだけで通話に出ることはなかった。
結局、電話がかかってくることは無かった。

夜、旦那も娘もまだ帰っていなくて私は家にひとりぼっち。
ラベンダーのバスソルトを入れてのんびり半身浴をして
パジャマに着替えて濡れた髪をバスタオルで巻いて
ソファーに座りインスタグラムのDMを開いたけれど、未読のまま。

夜11時くらいにファニコンで「おやすみなさい」とメッセージを送った。
すると!瞬時に既読になった。
これは彼がファニコンを見ているという事!
慌ててもう一度メッセージを送る。

私:「インスタのDM見てくれたら嬉しいな。
電話番号を書いたの お話ししたかった」

彼:「これなぁに?」

彼はインスタの不在着信の画面をスクショして送ってくれた。

私:「インスタの通話機能でかけたの。でも、〇〇さん出なかった」

彼:「ごめん、おいら
インスタのアプリをスマホにダウンロードしていないから」

彼はインスタを見ていないだけで無視している訳ではない。

彼:「ちょっと待ってね。おいらおしっこ行きたい。
あと、酔っているからなんもかんも忘れちゃうよ・・。いい?」

私:「うん、それでもいい お話したい」

彼が電話をかけてくれる。
嘘みたい、どうしよう、頭の中が真っ白になる。
スマホを見ると不在着信の表示があったけれど取り損ねた。
慌ててかけ直したけど、緊張して指先が震えて
思わず電話を切ってしまった。
直ぐに電話がかかって来て震える指で応答のボタンをタップした。

「もし、もぉし、あれっ?」

電話越しに聞く彼の声はライブ配信の時とは違って甘えた声だ。

「聞こえてる?もぉし、もぉし」

「もしもし」と返事をしようとしたけれど
緊張していてヒィヒィと息を吸ってばかりでなかなか声が出てこない。

「はい、もしもし、わあ、本物だぁ」

やっと喉の奥から掠れた声を出した。

「本物だぁ、本物だね」

彼の優しい声が私を包み込むと涙が出てきそうになる。

「誰にも言わないでよ、言ったらこのファニコン崩壊するから」

「うん、誰にも言わない!」

彼の言葉が私の心をくすぐる。
秘密を共有した気分。

「〇〇さんはもう、東京には戻らないの?ずっとそこにいるの?
今は少し休んでいるだけだよ元気になったら
また活動再開するよって言っている人もいるし」

彼が元Uターンしたと知ってから、ずっと聞きたかったこと。

「オレがここにいるってことは
もうバンドとしては活動しないのって分かんないの?
みんな、バカなの?誰にも言わない?仕事なくて暇なのに
暇だって絶対に言うなって言われた暇でも忙しい振りしろって
俺、嘘が大っ嫌いだ!」

酔っているから、口を滑らせたの?
初めて話す私にそんなことを言うなんて。

心を開いてくれた気がして「こらこら、そんな悪口言わないの」と
お母さんが小さい子どもを窘めるような気持ちになってしまう。

無邪気な話し方は小さな男の子がお母さんに幼稚園であった出来事を
「ねぇ、ねぇ、聞いて!」と拙い言葉で伝えている。
そんな感じにも捉えられて可愛くて抱き締めたい気持ちになる。
45歳の男性に可愛いと言ったら拗ねてしまう?

男性にカッコいい!や頭良い!はその場の空気から
お世辞で言うこともある。
でも、可愛いとお世辞で言うことはない。
可愛いというのは、それは本心だから。
大人の男に対しての可愛いはもう最高の褒め言葉。
可愛い男は沼。
入口はあっても出口は無い、はまったら最後。

「ファニコンに入って良かったぁ、だって〇〇さんとお話できるんだもん」

「みんなにしてることじゃないから
もう、あなたはグイグイ来るし、そんな人初めてだよ」

「ほんとに彼女いないの?」

「いない」

「じゃあ、最後にしたのいつ?」

「東京から引っ越す前、デリヘル呼んだよ
プラスでお金払って入れさせてもらった
だって、こんなおじさん、誰も入れさせてくれないし」

「私じゃだめ?ずっとしてないの
だからセカンドバージンは〇〇〇さんにあげる
〇〇〇さんじゃなきゃ嫌だ」

酔ってもいないのに、なんて大胆なことを言っているのだろう。

「もう、そんなこと言って」

「結婚はしてるの?」

ギクッと固まって返す言葉を失った。
既婚者で娘がいることはまだ伝えていない。
そんなことを知ったら彼は会ってくれないと思ったから。

40代で独身は東京では珍しくないけれどここは東海地方の田舎町。
40歳を過ぎても結婚出来ないなんて
人間的に問題ありと思われるのも良い気がしない。

「ごめんなさい。本当は結婚していて19歳の娘もいるの」

時間にしてどれくらいだろう、たぶん、ほんの数秒だ。
永遠にも感じられる沈黙が続いた。

「旦那も子どももいる人が言うことじゃないだろ?
それに、ゆみぃも言ってたよ 人妻は止めとけって」

思わずちょっと待って!と大きな声が出そうになった。
彼女の言葉に説得力は無いし、どの口が言っているのだろうと。
どこまでが本当で嘘なのかは判らないが
彼女について検索すると不倫や略奪愛という記事が沢山出てくる。
自分の不倫を棚に上げて、彼に不倫はやめておけ、など言えるのだろうか?

「〇〇さんは人妻と付き合ったことないの?」

「人妻はないなぁ」

彼が初めて手を出した人妻になりたいと思った。

「ねぇ、〇〇さん、私にもうお前はファニコンでコメントしたり
メッセージ送ったりするなって言わない?
私たち、こんな会話しちゃったから」

「なんでそんなこと言うの?いう訳ないでしょ。
送っていいに決まっているでしょ?もう12時だよ。もう眠いから切るよ」

ふわぁと欠伸をする声が本当に聞こえた。

「やだぁ。もう少しだけお願い」

この電話を切ったらもう二度と話せないような気がした。
カーテンを少し開けて真っ暗な空を眺めた。
この空の向こうには、今ここで話している彼が本当にいると考えたら
とても不思議でくすぐったいような気持ちになる。
窓ガラスにはお風呂上がりの濡れ髪がそのまま乾いて
すっぴんでパジャマ姿の私が写っている。
その瞬間、他の誰よりも彼の近くにいるような気がした。

「長くなっちゃってごめんね。
ありがとう、ほんとにありがとう。おやすみさい」

「じゃ、またね、お休み」

こんな夢みたいなことが、本当に起こるんだ。
まだ、半分信じられないけれど、本当なんだ。

彼と電話したことを知られたら、マナー違反と非難されるに違いない。
でも、彼に電話番号を教えてはいけないとか
彼にDMや写真を送ってはいけないなんて決まりはどこにもない。
だから何も問題は無い。
彼に会いたくてどうしようもない。
想いはどんどん積もるばかり。

新幹線は兵庫県を抜けて岡山県に入ろうとしている。
車窓から穏やかな瀬戸内海の海が見える。
いつの間にか、ひとりでこんなに遠くまで来てしまった。
途端に、シートに座っている自分がフワフワと浮かんで
どこかへ飛んで行ってしまいそうな心許無い感覚になる。

二、三日分の着替えだけが入ったスーツケースひとつを持って
私は何処へ行こうとしているのだろうと。
大丈夫、大丈夫。
向かう先には、彼が待っているのだから。
瀬戸内海は太陽の光を反射して眩しすぎるくらいにキラキラしている。

ひとりで旅行へ行くだけでこんなに怖がっているのに
どうしてあんなに大胆な行動が取れたのだろう。
これが恋のチカラ?
そう確信する出来事があった。
彼が地元にUターンしてすぐの頃。
ツイッターでもファニコンでもよく「お金がない」と発言していた。
ライブ配信で月五万円あれば生活が出来ると言っていたこともある。
何とかしてあげたい。
助けてあげたくなる。
お金の心配が無かったら、好きな仕事だけを選べるのに。
例えば、誰かが私に悩みを相談してくれたとする。
そうすると、私はその人の悩みを聞いてしまったから
その人を助けなくてはならない!と変な責任感が生じる癖がある。
余計なお世話とかお節介だとか思われても
あのとき声を掛けなかったことを後悔したくない。
それは自己満足なのだろうか。

彼のために何が出来るだろうと必死に考えた。
好きに使っていいよと一億円くらいポンと出せる財力もない。
音楽の知識も経験もない。
では、一体何が出来るのだろう?
釣りなら何とかなるかもしれない。
私は一応、ある大学の海洋学部を卒業している。
同級生には、釣り具メーカーや養殖業、研究職に就いた人もいる。
卒業からもう二十年以上も経っているし近況すら判らない。
同窓会に一度も出席しなかったことを後悔した。

ヤフーの検索欄に母校の名前の後にスペースを入れてルアーと検索した。
なぜ、その単語を検索したかというと釣りと言えば
ルアーくらいの知識しかなかったから。
海洋学部卒業だからといってみんなが釣りに詳しい訳ではない。
しかも釣りは十年以上行っていないし
その釣りも餌のイソメを付けてもらった竿を投げただけで
釣れるまで野良猫と遊んでいた。
「おーい、かかったぞ」と釣れたときに呼んでもらいリールを巻き上げる。つまり釣りをした分になっていただけで
本格的な釣りをしたとはとても言い難い。

検索結果に私より一回り年下で
岩手県で手作りルアーを販売している熊谷さんという方に辿り着いた。
早速コンタクトを取った。

彼が釣りの動画の中で熊谷さんのルアーを
テレビショッピングみたいに紹介しながら釣りをする。
熊谷さんのお店のリンクを動画の中に貼っておけば
興味を持った人が購入してくれるだろう。
そして、売上の何%かが彼の収入になれば良いと考えた。
彼にそのことを伝えると渓流釣りでルアーは使ったことがないし
いつも釣りに行っている川は
ルアーを投げられるような大きさではないとのこと。
なんとかしてあげたいという気持ちが先走り
勝手に熊谷さんにコンタクトを取ったことを謝った。
でも彼は好きなようにやって良いと言ってくれた。
そして彼の名前を出すことも了承してくれた。

その方が話も早いと思ったから。
だって彼は48000人のチャンネル登録者がいる
Youtuberでもあるのだから。

「河北新報で拝見いたしました。
熊谷さんのルアーを〇〇さんに使って頂くことで
ルアーの宣伝になればと思いメール致しました。
このような件にご興味はありますか?」熊谷さんにメールを送った。
熊谷さんに彼の名前を伝えると、とても驚いていたが
「ぜひ、ルアーを使ってください。使って頂けるなんて光栄です」
と言ってくれて私にルアーをふたつ送ってくれた。
山女をイメージして作られたというルアーは
本物の魚のようにツヤツヤと輝きがあり山女の特徴である
小判状の斑紋模様も背側の黒斑もしっかり再現されている。
そのまま部屋のインテリアに飾っておきたいくらい綺麗だ。
彼に送ろうとしたが住所を知らない。

私:「ルアーを送りたいけれど、さすがに住所を聞く訳にいかないです。
近くのヤマトの営業所止めにするので、受け取ってもらえませんか?」

彼:「そんな、面倒な事せんでいいよ。ラインで住所送るよ」

本当に自分の住所を送ってくれた。
知り合って間もない私にこんなことまで教えてしまっていいのな?
彼と私が見えない糸で繋がった瞬間だった。

数日後、彼からルアーが届いたよとラインがあった。
良かった、これで何かが少しだけ良い方向へ変わるような気がしていた。
そして、熊谷さんは同じ大学出身だからという理由だけで突然
「ルアーを紹介させてください」など連絡して来た私に
とても親切に対応してくれた。
今、冷静に考えたらそんな失礼なことよく出来たなと恥ずかしくなる。

でも、あのときの私は彼のためになるならと必死だった。
これが恋のチカラなの?

今から20年くらい前に「恋ノチカラ」という
彼の好きな深津絵里が主演のテレビドラマがあった。
仕事も恋愛も上手くいくと夢見ていた二十代が過ぎ
そろそろ夢を見るのも諦めようと心に決めた三十代の女性が
転職をきっかけに諦めかけていた夢に向かって
再び仕事・恋愛に奮闘していくハートフル・ラブ・コメディ。
私はそのドラマの主人公になったみたい。

ずっと、私は誰かの人生の引き立て役なのだと思っていた。
『結婚したら、あなたは常に旦那さんを立てて、自分は三歩後ろを歩くの』そう言ったお義母さんに何も言い返せなかった。
だから、今こうして自分で考えて行動を起こすことが新鮮でとても楽しい!

それから、最近のもうひとつの楽しみは彼とラインや電話すること。
あの彼に自分から電話が出来るなんて!

会社から自宅までは徒歩で十分くらいの距離。
表の通りから住宅街の中へ一本入った中道を歩く。
その道の途中に小さな公園がある。
よく小学生の男の子がキャッチボールやサッカーをして遊んでいた。

仕事が終わった午後四時過ぎ。
校庭みたいな砂地の広場の公園の隅にある二人掛けのベンチに腰掛けた。
爽やかな五月の風がさわさわとセミロングの髪を揺らす。
風にゆっくり揺れる樹の葉っぱの隙間から零れ落ちる木漏れ日の下にいるとなんだか水の中でゆらゆらと揺れているような気分になる。
心臓の鼓動や打ち寄せる波の音と同じリズムで揺れているようで
気持ちが落ち着いてくる。
初夏の柔らかな光が私の髪を茶色に透かす
木々の間から青い空を見上げる。
この時期の木漏れ日の季節が一年の中でいちばん美しいと思う。

木漏れ日の下で彼に電話をする。

「今、仕事が終わったところなんだ」

「しずくさんは何の仕事してるの?」

「ちょっと待っててね」

トートバッグから雑誌を取り出し表紙の写真を撮り送った。

「うちの会社はこんな雑誌作っているところなの
でも、私はアマゾン担当だから、画像を作ったり
バナー作ったりウェブの方の仕事が多いの」

「動画は作ったことある?」

「動画?動画は作ったことないなぁ。どうやって作るの?」

「じゃあ、サムネイルとかは?」

サムネイル?あっ、そうだ。
あの動画サイトで表示される小さい画像ことかな?

「イラストレーターで作るの?
やったことないなぁ、よく、判らないけど、家に帰って作ってみるね」

「うん、待ってるね」

しまった、どうしよう、やったことない。
サムネイルなんて作ったこともないのに
彼の仕事の手伝いが出来ることが嬉しくて
あまり深く考えずに引き受けてしまった。

バッグを両手で抱えて走って家まで帰り息を切らしながら
ダイニングテーブルの上でパソコンを開いた。
彼のYouTubeの動画から大きなボウルいっぱいに
入ったさくらんぼが映し出された瞬間をスクショして
イラストレーターで何か他の画像と組み合わせて加工しようと考えた。
さくらんぼの画像の右下にガーランドフラッグを配置して
その中に彼のお母さんとお父さんと彼の顔写真をはめ込んでみた。
画像の真ん中に手書き風のフォントで
「〇〇と〇家のちょこっと動画」とタイトルを入れた。
さくらんぼの画像と北欧チックなガーランドフラッグと
丸っこいフォントで構成されたとても可愛い過ぎるサムネイルが完成した。彼のサムネイルは画像に文字が入っただけのシンプルなものが多い。

動画のオープニング曲は彼が叩いているドラムの音だし映像もカッコいい。それに比べて
私が作ったサムネイルはどう見ても可愛すぎて彼のイメージではない。
彼がこのサムネイルを見たら、どう思うだろう。
でも、作ると言ってしまった。
今更出来ませんでした、なんて、とても言えない。
がっかりされるのを覚悟して画像を送った。

私:「なんだか、私が作るとなんだか可愛すぎになっちゃうのですが。
たぶん、〇〇さんのイメージじゃないです。」

彼は絶対に「これは違う、オレはこんなの作らない」と思っただろう。
もし、私が自分の想像していたものと全く違う画像が送られてきたら
やり直し!ちゃんと私のイメージに合わせてよ!とうんざりする。
彼の反応が不安で緊張しながら返信を待った。

彼:「そんなことないよ いいと思う ありがとうね」

ありがとうに驚いた。
しかも、いいと思うと褒めてくれた。
頑張ったねと頭を優しく撫でてくれたような気がして涙が出そうになった。

彼:「でも、おいらイラストレーター持ってなくて、開けないの。
動画って作れる?ジングルとかアイキャッチ的な」

聞いたことはあるけれど、作ったことなんて一度もない!どうしよう。

彼:「おいらはいま、FINAL CUTしか使っていなくて
aiデータが読み込めるか分からないので
このさくらんぼメインでなくいわゆるタイトル的なものが欲しいのです
無理せんでいいけんね、できたらでいいからね」

彼に良いところを見せたくて出来もしないのに
引き受けてしまったことをとても、とても後悔した。
しかも娘の迎えの時間が近づいている。
素直に出来ませんでした、ごめんなさいと言うべきか。
でも、そんなことを言ったら、幻滅されてしまう。

パソコンを広げたまま振り上げた拳の行き場に困っている。
考えているだけで時間はどんどん過ぎてしまう。
頭を抱えていると、彼からメッセージが届いた。

彼:「んー何でもいいんだけどね、まあ、困ってそうだから大丈夫だよー」

彼は出来もしないのに引き受けて困っているのを見抜いている
そう思った瞬間、全身の血液が顔に集まって
頬を赤く染めていくのを感じた。
まるでお皿に載せられた真っ赤な林檎。
素直にごめんなさい出来ませんでしたと
謝ろうとしたと同時にメッセージが届いた。

彼:「あとルアーの人に文書を書きました
このまま添付して伝えれば話が早いかと思います」

『むかーし。20年以上前に、まだ元気だった頃源流に振り出しのルアーロッドを(おもちゃ)もって遊んでいたことがあります程度です。餌釣りメインで、いわゆるチョウチンの流し釣りが好きで餌よりも、目印に喰ってくる魚が多くて渓流ルアーは試しにやってみたこと程度です。イミテーション系が投げられるポイントは数えればいくつかあるのですが

小指の先程度のスプーンで釣ったことしかない記憶です。もちろんキャストが下手な要因がものすごくあります。画像は”・・ング”的な釣りがなかった頃使っていたルアーです。

やはりスプーンメインです。メバル様にミノーは持っていた様です。

上流からエントリーする釣り方はあまり好みではなかった様です。そんなこんなで、今はロッドもなく二千番スピニングを一応持っている程度です。お役に立てますでしょうか心配ですが、ご考察くださいませ。』

読んでみても、何のことかさっぱり意味が分からない。
彼は会ったことも、話したこともない熊谷さんに
とても丁寧な対応をしてくれている。
そして、私を介して熊谷さんにメールを送って欲しいと言うことで
ふたりだけで話が進んでしまい
私が蚊帳の外にならないようにしてくれている。
ルアーのことも、サムネイルのこともあまり深く考えないで
ほとんど思い付きなのに彼に良い顔をしたいだけで
それを「恋のチカラ」だなんて言ってカッコつけているだけだ。
自分の言動が恥ずかしくなり、彼に何と言っていいのかも判らない。
熊谷さんに、彼が書いてくれた文書を添付して送った。
そして、彼に「ありがとう」とメッセージを送った。
直ぐに既読の文字が付いた。

こんな親密なやり取りをするのは
きっと私だけだよねと思う事が沢山あったの。

部屋の灯りを消してベッドに入りファニコンのアプリを開いた。

私:「〇〇さんの声が聞きたくなっちゃった」

彼:「因みにここからも電話できるよ」

私:「電話じゃなくても〇〇さんの姿が見れたらそれでいい」

彼:「見るのは出来んと思う、ライブ配信になるから
みんなに見られちゃう」

彼はサングラスをかけて自撮りした写真を一枚送ってくれた。

彼:「ぶちさんみたいだ、というかおでこ虫に刺されすぎだ!」

そして、私も自撮りを送った。

彼:「あららお美しい事で」

お世辞だと判っているのに嬉しい。

彼:「電話すりゃ良いのに」

そう言ってくれるけれど
リビングには旦那がいるからさすがに電話は出来ない。

私:「電話はちょっと無理。
あのね、〇〇さんが、私のコメントにハートマークを付けましたって
Youtubeの通知が来ると、とっても嬉しいの」

彼:「殆ど全員にしとるけぇやめんさい
今こうしてやり取りしとる方がおかしいでしょう」

確かにそう、他の人はこんなやり取りをしていないよね?

私:「〇〇さん、私のこと抱ける?」

送ってからはっと我に返る。
何てことを聞いているのだろうと。
でもそれも直ぐに既読なる。

彼:「もう少しお話しとかしたらかな?」

私:「明日、電話かけてもいい?」

彼:「いいよ、でも、朝からなんやかんややってるから
出られんくても凹まんでね」

私:「じゃあ、三時過ぎくらいとかは?」

彼:「いや、わからんの、家事手伝いだから
お父とお母が何し出すかわからんけえ
それに合わせて基本的に動いとるのね
明日は朝、ペタンクにお父が行って、昼にお母が、畑やって
夕方前にうなぎカゴをつける的な?三時にって約束はできんのす
ごめんよ。出れるときは出るけど不倫の電話親に聞かれるのもやでしょ」

不倫の電話。彼にとっては、私と連絡を取り合うことすら不倫なんだ。
でも、不倫がいけないとは全く思えない。
私にとっては恋。
たまたま、どちらかが既婚者であっただけ。
結婚したら、恋愛はしていけない、なんて誰が決めたのだろう。
彼を好きな気持ちに素直にいたい。

それに不倫をするのもきちんと理由がある。
旦那は私を抱こうとしない、セックスレスになってもう7年。
私に興味が無いのだろうか、いや興味が無い訳ではないよう。

例えば友だちとランチに出かけるだけで質問攻め。

「どこに行くの?何時に帰って来るの?どうやって知り合った人なの?
どこに住んでいる人なの?何歳の人?結婚はしているの?
帰って来たら「どこに行って来たの?何食べたの?何を話してきたの?」
どうして、会話の内容まで話さなくてはならないのだろう。
これでは、まるで警察の事情聴取。
私に興味が無いと見せかけて束縛だけは強い。
これではストレスも溜まる。
不倫は私のストレス解消方法。
それに、人には言えない事情のひとつやふたつはあるのに
私を一方的に責めないで欲しい。

翌日、仕事が終わり速足で駐車場へ向かった。
まだ夕方というには早い初夏の午後三時過ぎ。
窓を全開にして、フロントガラスをサンシェードで覆った。

電話をかけると彼は三回目のコールで出てくれた。

「もぉしもぉし?」

電話の向こうから何かガサガサという音が聞こえた。

「何をしているの?」

「縄を編んでいるんだ」

「縄?なんで縄なの?」

お父さんがのど自慢大会一時予選を通過して本番に出ることになり
衣装の草履につける縄を編んでいるらしい。
トラックのエンジンが止まる音がした。
ドライバーさんの「こんにちは!佐川急便です」の声が響いた。

「アマゾンてすごいな、なんでも届く」

「何が届いたの?」

「草履!さすがに草履本体はアマゾンで買った」

思わぬ種明かしに二人でケラケラと笑った。

それから、彼はサポートで参加していたあるバンドの裏話をしてくれた。

新幹線で移動するとき
他のメンバーはグリーン席だが彼は普通の指定席に座る。

でも新幹線の降りる時出待ちをしているファンには
「ずっとここに乗っていましたよ」という顔をして
他のメンバーと一緒にグリーン席のある車両の出口から降りてくるとか
海外公演の時の移動の飛行機でも彼だけエコノミー席だったとか。
彼の口からとめどなく溢れてくる言葉は
「ママ、友だちとけんかしちゃった、僕は悪くないのに、先生に怒られた」男の子が口を尖らせながらお母さんに
「僕のお話し聞いて!僕の方を見てよ!」と
一生懸命に気を引こうとしているように思えてしまう。

「オレは中国と韓国は大っ嫌いだ
もちろんKPOPなんて聞いたこともないし
テレビとかで一緒にもなりたくない、とにかく嫌いだ」

突然彼の口から出て来た言葉に
何と返事をしていいのか分からず黙ってしまった。

特定の国を好きとか嫌いなど考えたことすらない。
それに韓国出身のBIGBANGはファンクラブに入会する程好きだし
ガールズグループももちろん好き。
若かったら、ファッションも真似したいし
娘と一緒にライブにも行きたいくらい。
それから、水着やヌードにならずに
きちんと歌とダンスで魅了しているところに好感が持てる。
要するに韓国を嫌いになる要素がない。
彼のことは好きだけれど彼の意見に全て賛成は出来ない。
「そうだよね、KPOPはどれも同じに聞こえるしビジネス的で…」
嫌われたくないからと彼にそうだねと同調はしたくない。

「私たちはたまたま日本に生まれただけだよそれに食わず嫌いで
蓋を開けたらすごく良い音楽があったり素敵な人に出会えたり
美味しい食べ物があったりするじゃない?
それを最初から嫌いだからってシャットアウトするなんて勿体無いよ」

彼は「うん」と絶対に言わない。
「嫌いだ」としか言わない。とても頑固だ。
45歳とういう年齢でこれから考えは変わらないだろう。

だから、私は姿カタチを自由自在に変えて
フワフワと空に浮かぶ雲になっ
て彼の良いところもそうでないところも全て包み込んであげたい。
彼がそのまんまの姿で生きて行ける様にそっと守ってあげたいと思った。

私はさっきからずっと黙り込んでいる。
彼はそんな様子に気づいたのか話を変えようと、こう言った。

「もう、悪口は終わり!」

今だ!そう思った瞬間。

「私、〇〇さんに会いに行きたい!!」

「いいよ、じゃぁ、こっち来たらどこへ行く?」

どこへ行きたいかと尋ねられても、何も答えられない。
「彼に会いたい!会いたい!」その思いしかなかったから
会って何をしたいかまで考えたことが無かった。

いいなと思っている人に
「一緒に映画行きませんか」と思い切って誘ってみたら
「いいよ、映画の後もまだ時間あるから、どこに行きたい?」
と期待以上の返事に驚き、どうしようと嬉しいのに困っているような状態。

「〇〇さん、私、〇〇県に行ったこともないし
出雲大社くらいしか知らない、他に何があるかも全然分からない」

「海で釣りしたい?海なら水着もあった方がいいよ」

「川より海の方が安心だよ、磯遊びみたいな感じになるかな?」

「歩くとキュッキュと鳴る砂浜があるから行ってみたい?」

「温泉もあるよ」

「7月だったらウニがおいしいから食べさせてあげたい」

私が問いかけに答える間もなく次々と遊びの提案をしてくれる。
これは、彼も会うのを楽しみにしている?
私が一方的に会いたいと思っているのではない。
彼も同じ気持ちだよね?

「釣りもやってみたい!その砂浜も見てみたい!
〇〇県は遠いから日帰りは無理だよね?」

私の住む東海地方から彼のいる〇〇県までは
新幹線とバスを乗り継がなくてはならない。

どう考えても日帰りは無理。
でも敢えて聞いてみた。

「〇〇県から来るんでしょ?日帰りは難しいよ
温泉が近くにあるから旅館もあるよ」

「でも、ひとりで泊まるのは嫌だよ、一緒がいい、だめ?」

ここまで言って判らない男性などいるの?あなたを誘っているのに。

「分かった、じゃあ、一緒な」

彼の声が少しだけ震えた様に聞こえた。
身体を使ってでも、彼を堕とそう。
そんな黒い考えが浮かんでくる。
こんなチャンス二度とないのだから!

「行きたいところ、考えといてね、ラインかファニコンに送っといてね」

「うん!また、メールするね、ありがとう」

私はきちんと彼と会う約束をして、彼に会いに行く。
勝手に押しかける訳ではない。
彼に会いたい。その気持ちに素直に行動しただけ。
そして、彼はその気持ちに応えてくれた。
だから、私の行動は誰かに非難されることではない。

フロントガラスのサンシェードを外して
エンジンをかけエアコンを強に設定した。
冷たい風が火照った体を冷やし汗ばんだ手のひらがすっと乾いていく。
アプリストアで「ルナルナ」と検索しダウンロードした。
直近の生理日を登録すると生理や卵予定日が正確に表示される。
排卵日は7月23日。
決めた、この日に彼に会いに行こう。

新幹線はいつの間にか岡山県に入っていた。
山陽新幹線は神戸を抜けるとずっと海側を通る。
車窓から穏やかな夏の海が見える。
広島駅で降りて、高速バスで一時間ちょっと。
やっと彼に会える。
でも、実感なんて、まだない。

彼に会う約束をした翌日の夜のこと。
家族には、この旅行のことを何と説明しよう?
旅行はふたりだけの秘密だから嘘をつき通せば誰にも知られることはない。そうだ、ファンミーティングが当選したことにしよう。
私の他に当選した人は二人いて
全員女性だと言ったら家族は取り敢えず安心するだろう。

10時過ぎに、玄関の鍵がガチャっと開いて旦那が帰って来た。
玄関とリビングを仕切る引き戸を開けて部屋に入るなり
「ただいま」ではなく「疲れた」とため息交じりに呟いた。
本当に疲れ切った顔をしている。
結婚当初から、帰宅時間はいつもバラバラで12時を回ることも珍しくない。

「疲れた、明日の商談の準備していた、明日は京都だ、早く寝るわ」

「京都って一泊?日帰り?新幹線で行くの?」

「車だよ、京都なんて近いから日帰りだ。
5時出発だからお前は寝てていいよ」

そんな中旅行の話をするのを躊躇ったけれど言っておかないと。

「ファンクラブのイベントのファンミーティングが当たったの
行ってくるね、だって、こんなチャンスは滅多にないし!」

「どこまで行くの?」

「〇〇県だよ」

「〇〇県!?遠いな、お前はいいよな、自由で」

何が自由なの?そんなはずない。
毎日家と会社の往復で遊びになんてしばらく行っていない。
家事だって全て私がやっているのに。
それに、コロナのお陰で三年も実家に帰っていない。
我慢してばかり。
「私ばかり我慢してる!」そんなこと言ったら、旅行に反対される。
喉元まで出かかった言葉を引っ込めた。

旦那はご飯を食べると直ぐにお風呂に入り早々と寝てしまった。

朝早いから寝ていていいと言われても、そんなこと出来る訳ない。
冷蔵庫を開けて、ペットボトル飲料が無いことに気づいた。
百円玉を二枚握り締め玄関を出て10m程の自動販売機まで
コーヒーとお茶を買いに走った。
家に戻り、卵を茹でてハムとキュウリを千切りにした。
これで、朝はマヨネーズで合えてパンに挟むだけでサンドイッチが出来る。甲斐甲斐しく旦那の世話をする。
リビングの時計を見上げると11時を少し過ぎたところ。

私:「旅行はファンミーティングに当選したことにします。
私ひとりではなくて、女性三人で行くことにすれば、たぶん、大丈夫です」

彼にメッセージを送ると、すぐに既読になり返信があった。

彼:「だーぃじょうぶかなあ・・・。まあ大丈夫なら良いけど。
なんかサムネイル的なもの作ろうか。
おめでとう貴方はファンミーティングに選ばれました的な。」

私:「じゃあ、お願いしていいですか?」

お願いした後で、しまったと思った。
そんな手間を彼に取らせる訳にはいかない。

彼:「良く考えたら、作れるんじゃないの?」

私:「うん!簡単に作ってみます。
猫の肉球のアイコンも画像で使っていいですか?」

彼:「いいよー、7月だよね、ならまだまだ先だからだいじょうぶかー。
まあ、ゆっくりしてくださいな」

私:「本当に一日ずっと、一緒にいてくれるの?」

彼:「いいよー、一泊と半日だよ、帰る時間もあるから」

次々に送られる食べログと
観光ガイドのリンク付きメッセージがトーク画面を埋めていく。

彼:「どれでも良いけど、というか、全部おすすめ
宿はもう二軒しかないその一軒だし
食事のとこも(今年オープンしたらしい。から不安でもあるけど)
食事だけだし日御碕のとこは超おすすめらしい
ウニが7月中旬だからおいらも行ってみたい、なので、全部いけるよ」

ふたりで旅行の計画を立てている。
彼も旅行を楽しみにしている。

送られて来た旅館のリンクを開くと、貸切風呂の文字が目に入った。

私:「貸し切りのお風呂があるよ、一緒に入る?」

彼:「やだ、なんか、一人でもやだ」

貸切なのだから、誰にも見られない。
そんな行為まではいかなくても
体を寄せ合ったり触れ合ったり、出来るのに。
でも、どこかでそんな行為を期待している私がいる。

貸切風呂に誘ったのには、もうひとつ理由がある。
タトゥーがあると、入浴を断られるケースが多いから。
彼は20年以上前から右腕にずっとサポーターを付けている。
誰にも右腕を見せないという強い意志すら感じる。
ある人の「なぜ、右腕を隠しているのですか?」というツイートに
こんなリプをしていた。
「見せないタトゥーに意味はあるかい? 川が綺麗になりすぎるから」
だから、私もタトゥーなのだと思っていた。
でもタトゥーが写った画像はどこを探しても見つからなかった。

彼:「おいらの自論世の中でセックスしたことのない場所ってないと思う!と言う・・やじゃない?ちゃんと掃除してあれば良いけど・・」

それを聞いてお風呂でセックスをする想像をした自分が
恥ずかしくなったけれど、妄想が止まらない。

私:「ドSだったりするの?

彼:「”ドSだったりする?”だったら嬉しいの?
嫌なの?でもMではないよ、けどSはなーんかそん時の空気かな・・・。
だって、やじゃない?あたし、Sなんですけどって言われたら
まじかー寝よーってなるよ、どっちなん?」

私:「よかった、私、ドMなの」

なんて会話。
これはセックスするのは確実。
そう思った瞬間、はぁっと恍惚のため息が漏れた。
さっき切ったキュウリとハムを乗せたお皿が
キッチンに出しっぱなしだったことを思い出して慌てて冷蔵庫にしまった。先に寝た旦那を起こさないように寝室のドアをそっと開けて
ベッドに横になり布団を頭から被ってトーク画面を開いた。
さっきのメッセージを見返して、また熱いため息を漏らす。
旦那が寝ている隣で彼に抱かれる想像をしている。
体が熱くて眠れない。
どうしよう明日、五時に起きられる自信がない。

翌朝、なんとか五時に起きて旦那を送り出した。
ソファーにもたれ掛かりながら昨夜のメッセージを見返して
宿泊先を決めた。
お昼休みに予約の電話を入れよう。

「7月23日から一泊お二人様ですね。
本館から少し歩いた離れになりますお気を付けてお越しくださいませ。
お待ちしております」

予約はすんなり取れた。
お風呂は本館まで少し歩かなくてはいけない。
ふたりで温泉街を歩く想像をしたら
新婚さんみたいでとても幸せな気持ちなる。
「予約が取れたよ」と彼にメッセージを送ったけれど既読にならない。
いつもなら直ぐに反応があるのに。
翌日になっても未読のままだった。

私があまりにも積極的に迫るから嫌気が差したのだろうか。
他に気になる人が現れたのだろうか。
もしかして、事故にでもあったのだろうか。
起こってもいない事を心配して悪い方へ考えて思い悩む癖がある。
不安で居ても立っても居られない何も手に付かない。
今すぐにでも電話をかけて、彼が無事だと確かめたかった。

今日は土曜日で家には旦那と娘がいる。
自宅で電話をする訳にはいかないから近くの川沿いまで行こう。

「洗濯洗剤が切れちゃったからドラッグストアに行ってくるね
他に何か必要なものある?」

リビングでパソコンを広げて仕事をしている旦那の後ろ姿に声をかけた。

「あれ買って来て目を洗うやつ」

「あれね分かった。直ぐに戻って来るから」

そこまでは車で三分くらいの距離でも車が赤信号で止められると
早く彼の声を聞いて安心したいと焦る気持ちを邪魔された様で
苛立ち涙が出そうになった。
川沿いに車を停めると運転席と
助手席の窓を半分くらい開けエンジンを切った。
着信履歴の電話番号をタップする。
呼び出し音が鳴ってすぐに彼が出た。

「良かった。電話出てくれてずっと心配してたんだよ。何かあったの?」

震える声で一気に話すとほっとして涙がこぼれた。

「今までの中で最悪だ。薬が合わなくて」

今起きたばかりの様な呂律が回っていない声。
こんな喋り方を初めて聞いた。

「薬って安定剤とか?」

「安定剤じゃなくて眠剤」

「そっちかぁ」

私の周りでは精神安定剤とか睡眠導入剤を飲んでいるという人を知らない。副作用とか薬が合わないと、どんな状態になるかなど全く判らない。
彼にどんな言葉をかければいいのだろう。

「私はそんなときあなたにどうしたらいいの?」

そんな言葉的外れだ、そう思われても言わずにはいられなかった。

「何もしなくていい、変わらずそこにいて」

思い掛けない言葉に心が波打った。

「話を聞いて欲しい」とか「こんなことをして欲しいとか」
言ってくれると考えたから驚いて黙ってしまった。
だから私はいつものように聞いた。

「今から何するの?」

「玉ねぎの収穫をする」

「何か、可愛い」

「何が可愛いだ」

「じゃあ、頑張って。あんまり無理しないで休みながらね」

「おう、分かった、またね」

話終えると、胸の中に溜まっていた不安を
全て吐き出すかの様にゆっくりゆっくり息をした。
開け放った車の窓から青葉の間を通り抜けた爽やかな風が入って来る。
川沿いの大きな木々が道に心地良さそうな影を作る。

彼が話したくなるまでは聞かないでおこう。
あまり不安にならずに待っていよう。
そして変わらずにここでそっと見守って待っていよう。
それが彼の望むことだから。

電話を切った後に「旅館の予約取れたよ!楽しみだね!」と
送ったメッセージに「了解!」と短い返信があった。

倉敷市から福山市にかけて工場が立ち並ぶ光景が続く。
梅雨入り間近の6月の夜のある出来事を思い出した。
湿気を含んで肌に纏わり付くような空気を部屋から追い出そうと
リビングとキッチンの勝手口の窓を開けた。

夕食が終わったダイニングテーブルでパソコンを開き
彼のライブ配信が始まるのを待っていた。
配信をするときは前もってグループチャットにお知らせが投稿される。

午後7時過ぎに配信が始まった。
鮎釣りから帰って来た彼がお父さんとキッチンでビールを飲んでいる。
料理をしているお母さんの姿。
テーブルの上には鮎の塩焼きが大量に載っている。
彼は酔って気分が良くなったのだろうかなぜか上半身裸。
鮎の塩焼きを手づかみで食べながらビールを飲んでいる。
飾らないそのまんまの彼の姿。

「わー!おいしそう」

「たくさん釣れましたね」

「お母さん、こんばんは」

配信の画面左に表示されるコメントも穏やかだった。
その彼の姿にすこしほっと安心した。

二階から洗濯物のタオルを持って来てリビングで畳んでしまい
キッチンのお皿を食洗器に入れてスイッチを押した。
冷蔵庫を開けて白ワインしようかビールにしようか迷ったが
缶ビールを一本取り出してダイニングの椅子に座って
プシュッと開けゴクリと飲んだ。
炭酸が喉の粘膜を刺激して少し咳き込んだ。

すぐにアルコールが回ってきて体が少しだけフワフワとする。
テーブルに肘をつき両手で頬を包んで体を支えた。
気付くと家族団らんの様子がもう一時間以上も配信されている。
そっと見守っていたくなるようなゆったりと優しい時間が流れていた。

(お母さんが亡くなったとしたら
彼とお父さんはコンクリートブロックを足に括り付けて入水する)
突然、彼は笑いながら驚くような発言をした。
アーカイブはもう残っていないが実際に彼が発言したことだ。
びっくりして体が固まった。
こんな事をみんなが観ている配信で言っていいのだろうか?
入水願いは音楽だけにして欲しい。

私が中学生の時、母親と喧嘩をして
「私なんて生まれて来なかった方が良かった!死んだ方が良い!」
と言ったことがあった。
母は私の頬を引っ叩いた。

「なんでそんなこと言うの?言って良いことと悪いことがある!」
自分が命を懸けて産んだ子供に「死ぬ」と言われるのは
とても悲しいことだろう。
それ以来母の前では喧嘩をしても
「死ぬ」という言葉を口にしないように気をつけた。

だが、お母さんもお父さんも彼の「死ぬ」という発言を
何も言わずに微笑んで聞いている。
いつものことなのだろうか?
「死ぬ」なんて言葉を簡単に使うなと叱らないのだろうか?
とても不思議な親子に見えた。

これでは、まるで一家全員が青白い顔に黒ずくめの装いでちょっと不気味。傍から見れば不気味で暗く陰鬱な雰囲気漂う一家だが
これが日常であり常識。
朗らかで家族愛が人一倍強い。
ラブラブな夫婦、突飛ないたずらを連発する姉弟を中心に
彼らの日常をダークなユーモアたっぷりに描いた
『アダムス・ファミリー』の家族のようではないか。
あの映画に出て来るような家族が本当に実在するのだ。
とても衝撃的だった。

さすがに不安になり「そんなこと言わないで」とコメントしようとした。
配信を見ているみんなも不安になったのだろう。
コメントの投稿が止まってしまった。

本当に死にたい人は「死にたい」とは口にしないだろうと思っていた。
前日まで天使の様な笑顔で笑っていたのに誰にも何も言わずに
突然、自ら命を絶ってしまうものだと。

過去に私の友達は彼の様に毎日「死にたい」と発言していた。
私も周りの友だちも、死にたいと言う事で周りの人の気を引きたいだけだ
心配して欲しいだけだと真面目に捉えていなかった。
でもその友だちはある日突然自殺してしまった。
その友達にきちんと向き合うべきだったと、とても後悔した。

彼は決して自ら死を選ぶはずはない。
死にたい発言も彼のパフォーマンスのひとつなのだと思いたい。
でも、彼の発言を聞いて心配するなと言われても無理。

「死なないよ、冗談だよ、大丈夫だよ」なんて
最後に言ってから配信が終わるなら安心できるけれど
みんなの心配を他所にブチっと回線が切れるように配信が終了した
何とも後味の悪い終わり方だった。

胸がざわざわする。
配信終了から十分位経ったけれど不安で落ち着かずそわそわしている。
彼は本当に自殺してしまうのではないか
彼の事が心配で放っておけなかった。

「大丈夫だよね?死なないよね?」ラインを送ったが既読にならず
更に不安が増してくる。
まさか酔った勢いで自殺なんて。
悪い想像で頭がいっぱい。

壁の時計を見上げると夜9時を過ぎたところ。
今なら電話が繋がるはず。
娘は歌いながらお風呂に入っていて
旦那は夜ご飯を食べてテレビを観ながらうたた寝をしてしまった。
さすがに家の中では話せないのでソファーで寝ている旦那に
ブランケットを掛けてそっと家を出た。
家の中で着ていたオレンジ色のワンピースのまま
素足にサンダル履きの楽な格好でスマホと鍵だけを持って外に出た。

少し酔っているので足取りが覚束なくて少しフラフラとする。
酔うと気が大きくなった感じがする。
大きくなっていない、大きくなったような気がするだけだ。
本当の私はとても怖がりだから。

まだそれ程暑くなくて湿った弱い風が肌に心地よい初夏の夜。
家の裏の道を少し歩いた先に小さな川が流れている。
そこに人がひとり通れるくらい小さな橋が架かっている。

その橋の真ん中で川を見下ろした。
ちょろちょろと水の流れる音は聞こえるが暗くて水面は全く見えない。
スマホの連絡先のハ行から彼の名前を見つけて指先で番号をタップする。

片方の右手を橋の欄干に掛け空を見上げて彼が電話に出るのを待った。
湿気を含んだ空気で星も月もぼんやりと霞んで見える。
3回目のコールで彼が電話に出た。

「もぉし、もぉし」

いつもと同じ彼の声。

「良かったぁぁ、生きてて」

「何?どうして?生きているよ」

私の言葉に驚いたのだろうか不思議そうに尋ねた。

彼は死ぬはずがないと判っていても、確かめたくなる。
よかった、生きていて。
ほっとして、歩き始めた。
部屋の中は暑いのに外に出ると夜風が冷たいくらい。

数日前に彼と電話をしていたときは家族に見つからないように
クローゼットに隠れて小声で話していた。
暑くてスマホを持っている左腕の関節から汗がぽたりと垂れて
おでこにじんわりと汗が浮かんでとても不快に感じた。

今は外を歩いている。
ひそひそと小声で話す必要もないから必然的に声が大きくなる。

「人にすみませんて、頭を下げて生きてる?」

突然、彼が言った。
なぜそんなことを聞くのだろう?
そして何と答えるのが正解なのだろう?彼の質問の真意が判らない。

「下げているようで、実際は下げてない気がするよ」

「人に頭下げるって大事だよ。
君の印象が初めて話した時よりどんどん良くなっている」

良くなっているとはどういうことだろう?

彼と話している時言葉に詰まることがよくある。
心の中に言いたいことが溢れても言葉にして伝えられない。
自分の考えを言ってそれが相手の思っていたことと違ったらどうしよう。
相手の考えも判らないような出来ない人と思われるのが怖くて仕方ない
そうなると何も言えずに黙り込んでしまう。

「どうした?大丈夫か?」

彼はいつもそんな私に呆れながらもきちんと話せるまで待っていてくれる。でも私は何も言えなくなる。

「そんなんでオレとセックスできるの?」

急に彼の口から出て来たセックスという言葉に驚いてまた黙ってしまう。
そんな私を試す様なことを言わないで。
公園の前で足が止まってしまった。

彼と話していると時間があっという間に過ぎて行く。
長風呂が好きな娘でもそろそろお風呂から上がってくる時間だ。
その時に私が居なかったらどこへ行ったのだと大騒ぎするだろう。

「家に戻るね」

そう言って電話を切ろうとした時、黒猫がすうっと横切った。

「今、黒猫が歩いていた!」

「おっ、黒猫か。良いことがあるよ!」

彼も黒猫に反応する。
私は言いたいこともきちんと伝えられない自信が無い人間。
そんな私が彼にきちんと気持ちを伝えることが出来るのだろうか。
ドイツの迷信で黒猫が横切るのは「幸運の前兆」「チャンスを逃すな」
「大丈夫だよ、きっと上手く行く!」
黒猫が私の恋を応援してくれた気がした。

最近の私は少し欲張りだ。
そんな私を窘めるような出来事があった。
この日は3か月ごとの定期健診の日のことだった。

二年前に受けた健康診断で
子宮頸がんの前癌病変が見つかりずっと経過観察を続けていた。

私:「今日は検査の日なんだ。不安で朝から落ち着かないよー」

出勤する前に彼にラインを送ったけれど未読。
たぶん忙しいのだろう。

午前中で仕事を終えなくてはいけない時に限って手間取って
12時きっちりにタイムカードを押そうとしたのに20分程過ぎてしまった。
診察は午後1時。少し急がなくては。

病院の立体駐車場が空いていなくて
離れたところにある平面駐車場に車を停めてスマホを開いた。
返信は無かった。
また、体の調子が悪いのだろうか。
少しくらい連絡が取れなくても
不安にならずに待っていようと決めたはずなのに。

電話をかけてみたが
「電波の届かない場所にあるか電源が入っていないため かかりません」
というアナウンスが流れるだけ。
もしかしたら、充電が切れただけかもしれない。
検診が終わる頃には返信があるかもしれないと
産婦人科のある病棟へ向かった。

総合病院はいつも混んでいる。
特に産婦人科は待ち時間が3時間になることもある。
待合室に窓は無く壁に囲まれていてコンクリートで出来た要塞みたい。
電波の状態も悪く圏外になるけれどその方が良い。
ラインが気になってしまうから。

子宮頸がんは異形成と言われる細胞の変化を経てがんへと変わる。
検診を続けることで、わずかな変化も見逃すことなく治療ができる。
つまり、助かる可能性が高いがん。
2年前に要精密検査と診断されたがその後の検診でずっと異常なし。
もし末期です、と診断されても、そうですか、としか感じない。
辛いことをこれ以上経験せずに済むのなら長生きなんてしたくない。
だから体を大事にしなさいと言われても、はい、と答えられない。

待合室で本を読みながら一時間程待っていると
自分の診察番号が呼ばれ診察室に入った。

「特に変わったこと、出血とが痛みは無かったですか?」

「はい、特に何も気にならないです」

「内診と検査をしましょう」

後ろのカーテンを開けて中に入り下着を取って診察台に上がる。
診察台が回転して椅子の下が開く。
検査器具が体の中に入ってくると下腹部にチクっとした違和感が走る。
診察室に戻り検査結果が出る次回の予約を取りこれで全て終了。

痛みなどの自覚症状もないのだから
もう検査をしなくてもいいのではと思ってしまう。

駐車場に停めた車の中でラインを見たけれど未読のまま。
彼に避けられるようなことをしたのだろうか?
考えても何も心当りが無い。
不安で堪らなくて涙が出て来る。
好きな人から連絡が無くて不安で泣くなんて高校生でもしない。

帰宅してから洗濯物を片付けていても
夕飯を作っていてもお風呂を洗っていても
何をしていてもずっと彼のことで頭がいっぱい。
少しでも手を止めると涙が零れそうになる。

午後7時過ぎに電話をかけてみたが
呼び出し音が鳴るだけでやはり出なかった。
私だから出ないのだろうか?
家の固定電話からかけてみた。
これなら、私だと判らないから出てくれるはずだ。
すると呼び出し音がなってすぐに電話に出た。

「〇〇さん、どうして私の電話には出てくれないの?
私のこと飽きちゃったの?」

「飽きたって、まだ何にもしてないよ」

責め立てるような私に彼はうんざりしたように答えた。
絶対に重い女だと思ったに違いない。
私だってこんな重い女は願い下げ。

「でも、よかった。もう連絡とれなくなっちゃたのかと思ってた」

「そんな訳ないよ」

「今、何してるの?」

「何してるってお皿洗ってるだけだよ」

電話の向こうで水の流れる音がするから本当に食器を洗っているのだろう。じゃあ、昼間電話に出てくれなかったのはなぜ?
彼女でもないのにどうしてこんなに彼を束縛するのだろう?
嫉妬深くて悪い妄想をして自分で自分を苦しめている。
こんな自分は望んでいないのに。
「ごめんなさい」

謝るしかなかった。

彼になだめられながら電話を切った後
熊谷さんへのお礼の文章と一Gを超える動画が添付されたメールが届いた。そのメールを熊谷さんへ送って欲しいとも。

『熊谷様へ ルアー届きました。ありがとうございます。
本当に見事なものですね。びっくりいたしました。
フックを買いに行く暇がなく、未だテストに及んでおりませんが
できるだけ早く試したいとワクワクしております。
そして、もしもですが、この辺、山陰、中国地方にいたした時は
一緒に釣行いたしたいです。机上の話ではいまいちおいらはアホなので
動画を作りました。一Gくらいあるので取り扱い注意です。』

私:「私も動画見ていい?」

彼:「もちろん、いいよ」

熊谷様へというタイトルで始まる動画は14分53秒もあった。
彼がルアーを投げてみたいというポイントを紹介するという動画。
連絡が取れなくてひとりで勝手に不安になっていたとき
彼は足元が悪い山の中を歩いて撮影をしていた。
山の中だから電波が届くはずもない。
以前、彼は一分の動画の編集に一時間以上かかると言っていた。
この動画に一体いくら時間を使ったのだろう?
自分が恥ずかしくなった。
彼を助けたいと自分勝手な思いで始めたルアーの話なのに
何倍もの手間と時間をかけて返してくれた。
彼は律儀で相手を思いやる心が強くて優しくて
自分にマイナスになったとしても
相手のためならと自己犠牲の精神を持っている人。
なんて人に出逢ってしまったのだろう。
一生ずっと大切にしたいと、心からそう思った。

私:「こんなに長い動画作ってくれていたの全然分からなくて
自分の気持ちを優先させてしまってごめんなさい。
編集、大変だったよね。本当に、ありがとう。」
彼はグーサインのスタンプをポンと返してくれた。

そうそう、こんなこともあったの。
その日は夜8時を少し過ぎた頃にライブ配信が始まった。
お母さんから畑の一角6畳くらいの広さかな?
そこを好きに使っていいよと言われ
みんなで何を植えるのかを決めようという内容だった。

「トマトは?」

「空心菜はどうですか?」

「落花生とか生姜は?」

たくさんのコメントが投稿された。

私は5月半ばくらいからコメントをあまりしなくなっていた。
以前は私を見つけて欲しくてたくさんコメントをしていたけれど
今ではラインも電話も出来る様になったからかな。

それに彼は私がコメントをすると毎回必ず答えてくれる。
どうして私のコメントには必ず答えるのだろうと
他の人に不審に思われてもいけない。
それに、ファニコン会員のほとんどは女性。
女の勘は鋭い。
女の敵は女とよく言うし女を敵にまわしたら最後。
その証拠に私はある女性にブロックされたのだから。
あまり目立たないように配信中に一言だけコメントをした。

「バジルとかハーブ系は?」

「そうそう、バジル!バジルね」

私のアイコンとコメントが表示された瞬間
彼ははっとしたような表情をして待っていたかの様に読んでくれた。
彼はちゃんと私のことを気にかけてくれている。
やっぱり私は彼にとってちょっと特別な存在。
そう思うと優越感でいっぱいになる。
配信が終了するとアーカイブ動画のコメント欄に
みんながブロッコリー、マクワウリ、とうもろこし、落花生などと
書き込んでいくけれど私はいいねのハートを一回だけ押した。

お風呂に入ろうと着替えを取りに行きスマホを浴室に持ち込む。
ラインのトーク画面を開き彼とのやり取りを眺める。
ちゃんと、ちゃんと繋がっているんだと何度も確認したくなる。
そして、カメラアプリをタップして顔が映らないように
セミロングの濡れた髪が肩にかかっている写真を撮って送った。
入浴中だとすぐに分かる写真。
直ぐに既読になったけれど、返信はなかった。
きっと照れているのね。

お湯に浸かりながらNetflixで映画を観たり
Youtubで音楽を聴いたりして彼のことを考えているから
ここ最近はすっかり長風呂をするようになってしまった。
30分程経った時彼からメッセージが届いた。

彼:「貴方は何植えて欲しい?一応・・」

いちおうって。
もうそんなに照れなくてもいいのに!
これは私のコメントが無いことに気づいて、わざわざ聞いてくれたんだ。
こんなこと他の人にはしないよね?
私だけだよね?

私:「ズッキーニがいいな」

彼:「おいらはズッキーニスキだよ。ただ親がね」

彼は両親の好みを優先する。
本当に両親が大好きなのだなと思うと同時に
両親には敵わないと感じてしまう。

私:「バジルは?」

彼:「実はもう買ってある」

バジルの種の袋の写真を送ってくれた。
咄嗟に「おいっ!」と突っ込みたくなるのを我慢した。
ついさっき、みんなに何を植えるかを聞いていたはず。
なのにもう植えるものが決まっている。
しかも私がコメントしたバジル。
いつの間に決めたのだろう?
もしかして、あの時かもしれない。

二日前のタイムラインに彼は何を植えたい?と
みんなにアンケートを取っていた。
すでにコメントが40件くらい書き込まれていた。
「ズッキーニがいいな。バジルとかローズマリーを植えておくと
天然の虫よけになるよ。あとひまわり!」とコメントした。

彼はそのすぐ後にホームセンターに行き
どんな苗や種があるかを見て回る様子の動画を投稿した。
それを観てわぁっと驚いて目を丸くした。

「ほら、ズッキーニもあるね」

「ローズマリーとかバジルが虫よけになるのは、ベランダ菜園だけですね」

「お花は植えません。食べられるものしか植えません」

彼は私のコメントを拾って答えている!

「コメントを拾ってくれたの?」と確認するのも
「そんなことないよ、気のせいだよ」と言われてしまったら恥ずかしい。
驚きとあまりの嬉しさで思わず誰かに言いたくなる。

「彼ね、私のコメントを全部拾って、答えてくれているの!
こんなことするなんて、彼は絶対に私のこと気にしているよね!
これって匂わせっていうやつ?」

こんなに誰かに自慢したくなるのは生まれて初めて。
そんなことをする彼が愛おしくなった。
私を特別扱いしている。
優越感でいっぱいになる私は少し意地悪かな?

私:「こっそり蒔くの?」

彼:「いや、普通に動画に上げるよ」

私:「楽しみだね。ちゃんと蒔いてね。約束だよ」

彼:「わかった」

ふたりだけの秘密を共有した気分で心がくすぐったい気持ち。
「ありがとう」と感謝を込めて
ローソンでプレミアムモルツと引き換えが出来るラインギフトを送った。

6月5日、彼は「〇〇の畑の観察日記」という動画を
YouTubeに公開した。

前日からお腹を壊して嘔吐もした、とにかく体調が悪いと言っている。
はぁはぁと息を切らしながら撮影している姿は
とても痛々しくて見ていられない。
そんなに無理してバジルの種を蒔かなくてもいいのに。
もし、私がその場所にいたら
「撮影はいいから、ゆっくり休もうよ」とお布団に横になってもらって
冷えピタをおでこに貼って「痛いの、痛いの、飛んでいけ」と言いながら
お腹を擦ってあげたい。
そんなに無理しないで切なくて涙が出てくる。

「バジルちゃんを植えます」

彼はバジルをちゃん付けで呼んでいる。

私が植えたいといったバジルが自分の分身のように思えてきた。
バジルちゃんが「しずくちゃん」に聞こえる。
彼はしずくちゃんを野菜くずを捨てる掃きだめの横に植えようとしている。簡単に言うとゴミ捨て場の隣にバジルを蒔こうとしている。
仕方ないそこしか蒔く場所がないのだから。
とは言っても、あんまりいい気がしないし
匂いでハエや虫が寄って来そう。
でも、彼は大事なしずくちゃんに悪い虫が付かないように
土を盛って一段高くし丁寧に耕している。
まるで、彼はしずくちゃんをお姫様抱っこして
お姫様が寝ているみたいな天蓋付きのフワフワのベッドに
そっと運んでくれているみたい。
種の袋をワイルドに歯で嚙みちぎり
小さな種をそっと手のひらに乗せて
一粒一粒をふわふわの耕した土の上に優しく蒔いていく。
上から軽く土をかけて、ホースで水を撒きながら彼は言った。

「掃き溜めに鶴だ!」

その瞬間、全身に電流が走るような衝撃を受けたわ。
「掃き溜めに鶴」このことわざは特定の人を褒める言葉。
特に女性の美しさを褒めるときに使う言葉なの。
彼の言う「掃き溜めに鶴」の鶴はそう、しずくのこと。
彼はみんなの前でしずくを綺麗だと褒めてくれたの。
彼はしずくのコメントを全部拾って答えてくれる。
みんなのコメントを無視して
しずくが植えたいと言ったバジルを蒔いてくれる。
そして、しずくのことを綺麗だと言ってくれる。
彼はしずくを特別扱いしている。
これは、公開告白なの!
もし、他の誰かに気づかれて、嫉妬されたとしても構わない。
彼はしずくのことが好きなの。

バジルを蒔く動画は
彼がローソンに入ろうとしているところで終わっていた。
こんなところでも、しずくに「ありがとう」と言ってくれる。
もう、恥ずかしいからってそんな遠回しな表現しなくても素直に
「好き」とか「ありがとう」と言えばいいのに。

彼はプレミアムモルツをローソンに引き換えに行ったよと
動画の中で教えてくれた。
みんなが見られるYouTubeで言わなくてもいいのに。
しずくに直接言えばいいのに。
ほんと照れ屋さんなんだから!

「私のおじいさんがくれた初めてのキャンディー
それはヴェルタースオリジナルで私は4歳でした 。
その味は甘くてクリーミーで
こんな素晴らしいキャンディーを貰える私は
きっと特別な存在なのだと感じました。
今では私がおじいさん、孫にあげるのはもちろんヴェルタースオリジナル 。なぜなら、彼もまた、特別な存在だからです」

幸せな気分にしてくれるこのセリフに聞き覚えはない?

「ヴェルタースオリジナル」というキャンディーのCMのセリフ。
私は彼にとって「甘くてクリーミー」「きっと特別な存在」に違いないわ!彼にヴェルタースオリジナル キャンディを貰えた気分。
しずくは彼にとって特別な存在、きっとそうなの!

窓の外の工場の屋根に福山という文字を見つけた。
車窓から見える民家の屋根は赤茶色が増えてくる。
山の緑と屋根の赤茶色のコントラストが映える不思議な風景。
あと20分ほどで広島駅に到着する。
彼に会えるその時はどんどん近づいている。

先日の検査結果をっ病院に聞きに行く前に彼にラインを送った。

私:「今日は午後から病院なんだ。検査の結果が出るの。
ちょっと怖いな」

彼:「大丈夫だよ。頑張って」

産婦人科の窓口で受け付けをすると
もうすでに10人程が待っていた。

待合室の二人掛けの椅子に座り
バッグから本を取り出し栞を挟んだページを開く。
長い待ち時間は本を読んで過ごすことにしていた。
産婦人科は20代から30代の出産適齢期と言われる人が来るところと
勝手に想像していたけれど40代や50代の人の方が多く
中には80歳くらいのおばあちゃんもいる。
娘を妊娠中に通っていたクリニックとは様子が違う。
総合病院はハイリスク妊娠や病気の治療で通院している人が多い。

2年前の初診の時。
先生は私より5.6歳位年上の男性医師だった。
先生は問診票を見ながら「妊孕性はどうしますか?」と質問をした。
つまり子どもを妊娠する能力を残しますか?という事。
初産の平均年齢が30歳過ぎという時代に24歳で出産した。
子育てからはすでに解放されているしもうすぐ娘も大学生。
今からまたあの大変な子育てを一からやり直すなんてとても考えられない。しかも42歳は高齢出産といわれる年齢で体力的にも年齢的にもきつい。

「妊娠は希望していません」迷わずに答えた。
妊孕性を残さないということは
治療に応じて子宮全摘手術も行うことになる。
二度と自分の子ども産むことはできなくなる。
その当時はそれでもいいと思っていた。

精密検査の結果は「異状なし」がんだったら良かったのにと
検査結果に落胆していた。
がんだったら早くに死ねる。
毎日がとても辛い訳でもないが、これと言って楽しい事もない。
このまま淡々と続いていく毎日に絶望すら感じる。
人生80年としたら残りの人生がまだ半分以上あることにゾッとした。
長生きなんてしたくないし60歳位で死ねたらいいのに。

「過剰診断だったかもしれないですね
間隔をもう少し空けてでも検診は続けていきましょう」
先生の言葉がどこか虚しく響いたのを覚えている。

今、ここにいる私は二年前と全く違う。
生きていたいし妊娠も出産もしたい。
先生に「妊娠を希望しています」と伝えようとしていた。

待合室の電光掲示板に私の受付番号が表示され診察室へ向かった。
ドアをノックして中に入る。

「こんにちは。お願いします」

椅子に座ると先生はいつものニコニコした笑顔で言った。

「月島さん、今までずっと何でもなく来たのですが
ちょっと変化した細胞が見られますね。
今すぐがんになるとかそういったのもではないですが
引き続き検査を続けていきましょう」

どうして今なのだろう。

「あの、私妊娠と出産を考えているのですが」

先生は少し驚いたような表情をした。
子宮と卵巣を残したいこと、妊娠も出産もしたいことを伝えた。
先生は私の話を頷きながら聞いていた。

「出来るだけ希望に添えるようにします」

先生はそう言ってくれた。
少しほっとして診察室を出た。
子どもが欲しいなんて二年前は考えられなかったこと。
それも、彼の子どもが欲しいだなんて。

彼はファニコンの「コラムパンダはもういない」というコラムの中で
僕はまだ自分を許すことは出来ない。
だから子どもは欲しいとは思わない、と言っていた。
それは45歳になった今でも変わらないという。
半年後に書いたのコラムでは
「自分という存在を少しだけ許せるという事に気付いた」
と少し変化が見られた。
彼は結婚や子どもは考えていないと言っていたけれど
実際に生まれてきたら絶対に可愛くて仕方ないはず。

私の妊娠が判ったときお父さんはとても喜んで
次の日に安産のお守りを貰って来たと
母が笑いながら教えてくれたことがあった。
孫が生まれるのはとても嬉しい事のようだ。
だから、彼の両親も孫が出来たと知ったらきっと喜んでくれるだろう。
彼のお父さんとお母さんにとって息子は◆◆◆◆ではなく本名の彼。
その彼の子どもを産みたい。

だが、現実的な問題もある。
がんの可能性があるのに妊娠出産はできるのだろうか?

でも、このがんはきちんと検査を続けて行けば
悪化を見逃さずに治療できて助かる可能性が高い病気。
子宮を温存して出産した例も多く発表されているし
私にだって可能性はある。

子どもが20歳の時、私は64歳で彼は66歳。
養育費や教育費は賄えるだろうか?
妊娠中と出産後の約2年は働くことは出来ない。
出産費用と生活費はどうしよう。
でも働けなくても、たぶん2年くらいは大丈夫な蓄えはある。
それが無くなる頃までに、仕事を始めればいい。
彼の住んでいるところがいくら田舎だと言っても探せば仕事はあるはず。

旦那と娘はどう思うだろう。
結婚しているのに、他の男性の子どもを妊娠するなんて!と
娘は最低な母親だと罵り親子の縁を切るだろう。
旦那は間違いなく激怒して多額の慰謝料を請求して離婚だと言うだろう。
娘に縁を切られても慰謝料を払って離婚してでも彼の子どもを産みたい。
彼の子どもを妊娠したという既成事実があれば
全ての問題が解決すると思った。
だから何が何でも彼の子どもが欲しかった。

長生きなんてしたくない、早く死んでもいい。
がんになってしまいたい。
そう考えていた私はもういない。
彼の子どもを産みたい。
私と彼と子どもと三人で生きて行きたい。

診察が終わって会計を済ませ病院の1階にあるカフェでへ向かい
紅茶とモンブランを注文した。
ティーカップとポットが載ったトレイを窓際のテーブルに運び
椅子に座り紅茶を一口飲むとようやくほっとした。
そして彼にラインを送った。

私:「検査結果なんともなかったよ。予定通り会いにいくね」

少しだけ嘘を付いた。
彼はいつものようにグーサインのスタンプをひとつ送ってくれた。
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせてお腹に手を当てる。
ここに彼の赤ちゃんが来てくれますように。

膝の上に置いたバッグの中からスマホを取り出して
ルナルナを開いてもう一度確認する。

7月23日にちゃんと排卵日をお知らせするたまごのマークが付いている。
どうか彼の赤ちゃんがお腹に来てくれますよう。
そう願ってまた車窓から福山の街を眺めた。

彼に会いに行くことを友だちのひとりだけに話した。
中学生の同級生でもうかれこれ三十年以上の付き合いになる。
私の過去の不倫の話も全部知っている。
だから彼の事もまたかくらいに捉えてくれた。

「もう、どんな話されても驚かないけどさぁ
あのバンドってあの彼女の名前がドーンて前に出てくるから
ドラムの人の名前を初めて知ったよ。
でも、相手が誰であろうと離婚してから行きな。それなら反対はしない」

友だちの言うことは正論。
でもここで私が離婚を切り出しても
例えば旦那が浮気した暴力を振るわれた生活費を渡さない
モラハラがあった(モラハラは心当りがあるけれど
第三者からの視点が必要になってくるだろうから
裁判になれば長引くだろう)など決定打になるようなことが無い。
何不自由の無い生活が送れるのも娘の親になれたのも旦那のお陰。
その旦那を裏切る不貞行為をして離婚請求するなど認められないだろう。

旦那に愛情はもう残っていないのかもしれない。
それは旦那も同じなのかも。

だってもう七年以上もセックスレスで
旦那に触れたことも反対に触れられたこともないのだから。
旦那は私がいなくなったら毎日の生活に困るだろうなと思う。
身の回りの必要最低限の世話はしなくてはと責任感はある。
もはや、パートナーというより家政婦、いや、母親代わり。
20年という月日は愛情を情に変えてしまうだけの力がある。

両家の家族の前で婚約指輪を左手薬指にはめてくれて
みんなに祝福されたときはとても幸せだった。
「赤ちゃんができたよ」と病院から電話したら
その日の夜妊婦向けの雑誌を買って急いで家に帰って来て
「気が早いよ」とふたりで大笑いしたこと。
娘が生まれたとき「頑張ったな」と頭を撫でてくれたこと。
その娘が6か月のとき突発性発疹で夜中に高熱を出して
ふたりでどうしようとオロオロしてしまったこと。
小学校と中学校の入学式も旦那と二人で出席して
娘の成長の速さに嬉しくも悲しくも涙を流したこと。

そして、今年の3月に結婚20年目を迎えて
ふたりでおめでとうのケーキをフォークで突っついて食べていたこと。
そんな幸せな瞬間が確実にあったはずなのに。
彼に会いに行くことはその幸せを全て捨てること。
それでもいい。

旦那は潔癖症なくらい几帳面なところがある。
それは商品の入荷スケジュールをきっちり管理したりする仕事には
適した性格かもしれない。
でも、何かをする度に手をハンドソープで洗う
例えばペットボトルのラベルと蓋を外しただけの
そんなに汚れてもいない手をハンドソープで洗う。
玄関のドアノブに触っただけで手を洗う。
ハンドソープのボトルが一週間で空になるくらい手を洗う。
度が過ぎる几帳面なところを見ると
この先、何十年と続く旦那との生活に軽く恐怖を覚える。
うんざりすると言うか、逃げ出したい衝動に駆られる。
大きな不満はない。
でも、旦那とのこの先の生活が
ぬかるんだ沼地に膝まで浸かって少しでも油断したら
転んで泥まみれになってしまう。
常に気を張って出口の見えないトンネルを歩いて行かなくてはいけない。
そんな風に感じるのだ。

彼は「一週間くらいお風呂に入っていない」と
発言していたこともあるから少しだらしのないところもあるみたい。
それにいつも部屋がくちゃくちゃだし。
釣りの時も、服が汚れるとか全く気にせずに川に入ってしまうところとか。それを聞いても汚いとか幻滅なんてしなかったし、むしろ、安心した。
どことなくお父さんに似ていると嬉しくなった。

まだ、会ったことも無いし電話で話したり
メッセージのやり取りしかしていないのに
彼となら、常に気を張って相手の顔色を伺って過ごさなくてもいい。
もっと力を抜いてフワッと自然に笑って毎日を過ごせるような気がした。
彼が窮屈な毎日から救ってくれる王子様に見えた。
私は掴みかけた王子様の手を決して離したくはない。
必死で、王子様とその先の未来を掴もうとしていた。

「近づきすぎない距離で見ているのがいちばんいいよ。
近づき過ぎると嫌な面だって見えてくる。
それにバレない自信はあるの?写真も動画も撮らない方がいい。
絶対に誰かに見せたくなっちゃうのは分かるから。
でも、絶対に会うのはお勧めしない、戻るなら今の内。
どう?友だちがこれだけ忠告しているのにそれでも行く気?」

すごく正論過ぎてぐうの音も出ない。
友だちの言葉は私の胸には何も響かない。
ほんの少しの沈黙が続いた後

「まだ時間はあるからさ、何が一番大切なのかゆっくり考えなよ」

「うん」と頷いたけど、彼に会いに行く決心は揺るがないもの。
それを確認したに過ぎなかった。

これはまだ6月なのに真夏みたいに暑い日の出来事。
「夕方頃、電話してもいい?」と彼にラインすると
「いいよ」と返信があった。
仕事が終わって買い物をしようと
少し大きめのスーパーの駐車場に車を停めた。
車の中で話そうとしたけれど日が傾き始めて風も出て来た。
お店の入り口にベンチがあってちょうど日陰になっている。
そこに座って電話を掛けた。

「暑いな、まだ六月なのに暑いよ」

私はベンチに座って彼は畑に水を撒きながら暑い暑いと繰り返している。

「暑いならお家の中で話せばいいのに」

「女の子と喋ってるところ親に聞かれたら
まあ悪いことしてるんじゃないけどね」

45歳の男性が女性と話すところを親に聞かれたくないなんて
中学生の男の子が彼女と付き合っているのを内緒にしているみたい。

「どうして〇〇さんは私に会おうって気になったの?
どういう心境の変化なの?」

「もう、決めたことだから」

もう、決めたこと。
彼の言葉は私の胸を小突いて切なくさせる。

「あのね、私はそんなに綺麗ではないよ年相応だと思うよ。
〇〇さんが見て来た芸能界の綺麗な人たちとは違う」

「それがどうしたの?」

「だって会ったら〇〇さんがっかりしちゃうと思うから」

「そんなの、くだらねぇ」

彼の反応に驚いた。
あんなにオレは面食いだとか
今のあなたが見たいと私の写真をせがんでまるで
書類審査みたいなことをしていたのに。

「○○さんは結婚しないの?」

「しない」

「これからもずっと?」

「しない、お金ないもん」

「じゃあ、私に赤ちゃんが出来たら、結婚してくれる?」

「なに?怖い、もっと軽い気持ちで遊びに来て」

何となく予想はしていた。
軽い気持ち。
つまり遊びということ。
彼は私のことをそんなに好きではないということ。
目頭から熱いものがこみ上げた。
このまま彼の子どもを妊娠していいのだろうか。
途端に自分の決断に自信が無くなる。

「分かってるよ、私も勘違いしないように自分に言い聞かせているから
私も大勢の中のひとりだって思っているから」

そんな強がりよりも「好きだから会いに行く」それだけ言えばいいのに。
でもそんな事を言ったら彼は来るなと言うだろう。
胸が張り裂けそうで息を止めて溢れ出しそうな涙を必死で堪えた。

「あと、念書を書いてもらわないとな」

「念書?」

「ここでのことは誰にも話さないって約束する念書」

「大丈夫だよ、誰にも言わないよ」

念書なんて言葉を出す彼は
誰かを迎え入れることは初めてではないのだろう。
他の女性の影がチラついた。
無言でいると
電話の向こうから彼のお母さんとお父さんの話し声が聞こえた。

「電話してるの、ん?友だちと話してるの」

お父さんに誰と話しているのかと聞かれた彼は友だちと答えた。

「おとうさんと仲いいんだね」

「うん、仲いいよ」

私も家族になりたい。
彼と私と子どもと彼のお母さんとお父さんと家族になりたい。

そう思った瞬間堪えていた涙が頬をつうっと伝った。
泣いたら彼を困らせるだけ。
だから幸せな妄想で頭をいっぱいにした。

「ほら、聞こえる?お父さんだよ」

少し膨らみかけたお腹を擦りながら赤ちゃんに聞く。
胎児は妊娠4ヶ月位から耳が形成され外の音も聞こえ始める。
子守唄にしては大きすぎるお父さんの音をいつも聞かせてあげたい。
お父さんの音に反応した赤ちゃんはお腹を蹴って動き出す。
彼は私のお腹に手を当てて嬉しそうににっこりと微笑む。

ひとりで歩ける位に大きくなった子どもは
「パパー!」と私が目を離した隙に
ライブ配信をしている彼の元へ駆け寄って行く。
「すみません、うちの息子です!」
彼は困りながらも、子どもを抱き上げてみんなに紹介する。
彼によく似た男の子が欲しい。

子どもがいたら子どもさえいたら。
私は彼と一緒になれる。
子どもが出来たら彼の気持ちも少しは変わるだろう。
急がなくてもいいからゆっくり私のことを好きになってくれるだろう。

「もう、俺が外にいると、お父もお母も外に出てくるんだから」

「じゃあ、そろそろ切るね、忙しいのにありがとう」

電話を切った。

湿気を含んだ雨風が涙をそっと拭って乾かしていく。
明日は雨になるのだろう。
この近くにある私鉄の駅は終点だからか
到着する電車のガラガラと響く音とブレーキ音がよく聞こえる。
あの駅ビルに市民サービスセンターがある。
はっとしてスマホで時間を確かめる5時7分だった。
確か5時15分まで窓口が開いている。
走れば3分で着ける。

スマホをバッグにしまって持ち手をしっかり握って
ドラマや映画でしか見たことのない緑色の用紙
そう離婚届けを貰いに走り出した。
この窮屈な毎日から抜け出す。
私の未来は変わる。
離婚届けは幸せな未来へのチケット。
きっと変わる、変えてみせるんだ。

彼と一緒に暮らしたらどんな毎日を送ることになるだろう。
私が釣りやドラムを叩いている動画を撮って編集して
Youtubeに公開したりスケジュール管理が苦手そうだから
マネージャー兼秘書みたいな事をしてみたり
ライブで少し遠くに行くときは
「お母さんとお父さんを見るから、安心してお仕事して来てね
と送り出して。
彼と一緒なら、きっと楽しいだろうな。
バッグのファスナーを開けて白い封筒を取り出す。
中の三つ折りにした緑色の用紙の角をちょっと引っ張った。
離婚届けが入っているのを確認してまたしまった。
新幹線は福山の街を通り抜けて行く。
あ、一時間半で彼に会える。
笑顔で彼の胸に飛び込むんだ。

私:「知っていました?近くにジブリパークが出来るんです。
これは地球屋かな?もう、こんなに出来上がってますよ」

私の住んでいる近くにジブリパークがオープンする。
『耳をすませば』の物語の舞台の青春の丘には「地球屋」と
「ロータリー広場」「猫の事務所」「エレベーター塔」がある。
エレベーターはすっかり『天空の城ラピュタ』や
『ハウルの動く城』に代表される
十九世紀末の空想科学的な世界観に包まれている。
道を挟んだこちら側からはオレンジ色の「地球屋」が見える。
写真を撮り送った。

横に立っていた旦那が「インスタにアップしてたの?」と聞いたのに
「インスタにも上げたけど、お母さんに送ったの
お母さん、三鷹のジブリの森にひとりで行くくらいジブリが好きだからね」と嘘を付いた。

その日の夜十時過ぎくらい。

彼:「おいらはジブリの森美術館のバックヤードに入ったことがある
(自慢)」

私:「すごーい!ジブリパークに行こうかなという予定はありますか?」

彼:「ないねぇー。お金ないもの」

私:「新幹線と入場チケットを送るね。
オープンは11月で、まだ時間があるから、ゆっくり予定を立てられるね」

今日私が彼のところへ行く。
その後は彼が私の所へ来てくれる。
この先も、ずっと何かしら約束があって未来に繋がっていくと信じている。

それから、こんな約束をしたこともあった!

7月に入ったばかりのとても蒸し暑い夜だった。
昼間の暑い空気がどこにも逃げ場がないようで部屋中に広がっている。
じっとしているだけで汗が滲んで不快感が増してくる。

夜の8時過ぎ。
2階の寝室から外の駐車場を見下ろして
旦那がまだ帰って来ていないことを確認した。
娘は学校帰りにバイトへ行き、友達と夜ご飯を食べて帰ってくると言う。
まだ誰も帰って来ていない今なら、彼と話すことが出来る。
もう一度駐車場を見て、車が停まっていないことを確かめると
ラインを開いて通話のアイコンをタップした。
呼び出し音が鳴ってすぐに出てくれた。

「もぉしもぉし」

柔らかい声を聞くと愛おしい気持ちが溢れてくる。
声はとてもリラックスしていたけれど仕事をしているようだった。

7月30日に彼の地元で夏祭りが開催される。
そのお祭りで彼がドラムを叩くことになり
その準備をしているところだった。
共演者の方に送ってもらったデータが使い物にならないため
そのデータを修正していると言う。
どんな作業をしているのか正直話を聞いても
さっぱり判らなかったけれど
話しぶりからとても細かく時間がかかる作業らしい。

「ごめんなさい、仕事中だね、また今度にする」

「ちょっとなら大丈夫」

彼は電話を切ろうとする私を引き留めた。

「しずくさん、自分の興味が無い事はどうでもいいって思ってる?」

「どうして、そんなこと言うの?」

「じゃあ、オレずっとドラムの話していい?」

「いいよ、聞かせて!」

彼が自分からそんなことを言うなんて初めてだ。

「もう今日は仕事しない、君と話すって決めた」

突然、彼は私に宣言した。

「いいの?」

仕事を中断させてしまったことに心苦しくなった。
でも私の事を優先してくれたようで少しだけ嬉しくなる。

ドラムに全く詳しくない私にでも理解できるように話してくれる。
彼の言葉はとても的確で人に教えるのが本当に上手い。
彼の話し方は小さな男の子が
自分の好きなおもちゃや戦隊モノについて話しているみたい。
正直に言うと彼の話の内容の全てが理解出来た訳ではないけど
ずっとずっと彼の話を聞いていたかった。

ほら、旦那さんが奥さんに仕事の話をするときがあるでしょう?
奥さんは旦那さんと同じ会社で働いている訳ではないか
ら旦那さんの仕事の事はよく判らない。
判らないけれど奥さんは
「うんうん」と頷きながら旦那さんの話を聞いている。

自分の話をちゃんと聞いて
共感してくれる人が身近にいるのは心強いだろう。
私もそう思うから。

彼がふらっと外に出た。
ケロケロというカエルの鳴き声が電話の向こうから聞こえる。

田んぼを抜けた涼しい風がすうっと私のところにも伝わって来るようだ。

「見える?」

彼の言葉に慌ててスマホを耳から離した。
ビデオ通話で星空を写して見せようとしてくれたが
画面が薄暗くなっているだけで何も見えない。

「ううん、よく見えない、いつも、天の川も見えたりするの?」

「うん、普通に見えるよ」

「天の川なんて、もう何年も見てない」

「じゃあ、ここに来たら本物の星空をふたりで見よう」

「うん、約束だよ」

「約束する」

彼の隣でずっと一緒に同じものを見て行きたい。
彼が一緒にいたいと思う人が私であったらいいのに。
もしかしたら、私なのかもしれない。
だって彼は私と約束をしてくれたから。
彼は私のことが好きなのかもしれない。
私の思い過ごしなんかじゃない!
きっと、きっとそうだ。
今日その約束が叶う日なんだ。

車窓から見える景色が変わって来た。
ビルやマンションといった高い建物が目につくようになって来た。
新幹線は広島の街に近づいている。

サロペットの左肩の肩紐がずり落ちているのに気付いて
右手で引っ張り上げた。
薄いブラウスの上からブラのストラップに触れる。

丁度二週間のある夜のこと。
ジップロックの袋に入れたスマホをお風呂に持ち込んだ。
恋愛コラムを読み終えてスマホを浴室の出窓に置いたとき
ブーと通知音が鳴った。
彼からのラインだった。
「セックスするの?」ストレートな言い方に体がビクンと反応する。

「私はしたいの」
普段恥ずかしくて口に出せない言葉もラインなら素直に言える。

「わかった」

そっか、セックスするんだ。
彼の手がブラのホックを外す瞬間が頭に浮かんだ。

あっ、待って、下着、どうしよう。
ちゃんと上下お揃いの下着を持っていたっけ?

今すぐクローゼットの引き出しを開けて確認したくなる気持ちを押さえて
シャワーの水栓を回しシャンプーを手に取り泡立てると
スウィートフローラルの甘い香りがいっぱいに広がった。
右手にシャンプーブラシを持って両手を上げて
髪を洗う姿が鏡に映っている。
両腕を上げていると大胸筋が引っ張られるからか胸が丸く見える。
確かに20代の頃と比べると張りがなくなったけれど
年齢の割には形が崩れていない。

その証拠に過去の不倫相手から
「本当に子ども産んだの?おっぱいも体形も綺麗だ」
と褒められることが多かった。
出産年齢が若かったから体形の戻りが早かったのか
一人しか産んでいないからか、どちらにしても
この年齢になってもあまり崩れていない体形は武器だとつくづく思う。

濡れた髪を後ろでひとつに結んで
バスタオルの姿でクローゼットの引き出しを開けて
ごそごそと奥から下着を引っ張り出した。
これいつ買ったのだろう?こんなの持ってたんだ。

ベビーピンクのブラをバスタオルの上から胸に当ててみる。
胸を大きく見せてくれるハーフカップのブラは
いくら何でも44歳の私には若すぎる。

40歳を過ぎて歳を取ることに敏感になった。
娘を出産してから20年間ずっと40㎏台をキープしているけれど
年々肌の張りが失われていったり
バストトップの高さ変わっていくのを認めなくてはならない。
あと何年女という武器が使えるのだろうと思うと薄ら寒い気持ちになる。

最近はネットでシンプルな形とデザインで
色も黒やベージュなど服に透けないものばかりをまとめ買いしている。
私が男だったらこんな色気のない下着にはそそられない。
明日、下着を買いに行こう。

「ママ、何してるの?」

娘の声に驚いて振り返る。

「着替え忘れちゃって」

「もう、早く服着てよ、そんな恰好していなでさぁ
ババアの裸なんて誰も見たくないよ」

娘の暴言にイラっとした。

翌日の土曜日のお昼過ぎ。
旦那に「買い物に行ってくる」と言うと
「オレも行くわ」と一緒に行こうとした。
「買い物の後に友だちと会って、お茶してくるから」
そう嘘をついて、ひとりで近くのショッピングモールへ出かけた。

1階にあるワコールやトリンプなどのメーカーの下着売り場に入った。

可愛くてセクシーな下着といえば
Victoria's SecretやPEACH JOHN。
でも実際に着けてみて分かったことは
ブラのストラップが3か月程ですぐヨレヨレになってしまうこと。
つまり可愛いけれどコスパが悪い。
それに比べてワコールやトリンプは
可愛いデザインとは言えないが1年使い続けても少しもヘタレない。
コスパで考えたらこちらの方が断然お得なのだ。

黄色とピンクベージュのブラを手に取って見ていると
女性の店員さんが話し掛けてきた。

「そちらこの夏の新作なんですよ」

「このピンクと黄色がすごく可愛くて気になるんですけど
ずっとサイズを測っていなくて、正確なサイズが分からないんです」

「試着室でサイズを測りましょう」

サイズも測ってほしいけれど一番聞きたいことは
「40代の女性が彼と初めてのセックスのとき
どんな下着を着けていたらいいのですか? 」
でも、そんなこと聞ける訳ない。

店員さんは「どうぞ」と試着室を案内しカーテンを閉めた。
着ていた黒のTシャツを脱ぎキャミワンピの肩ひもをパンツの中に入れた。上はブラジャー一枚で店員さんが来るのを待った。
試着室の鏡に映った姿はお腹も全く出ていないし鎖骨もちゃんと分かる。

「失礼します、開けていいですか?」

メジャーを持った店員さんがカーテンを開けて入って来た。
ブラを外してサイズを測ってもらう。

「そうですね、C65ですね、さっきの着けてみますか?」

はい!と答えて店員さんから黄色のブラを受け取った。
実際に試着してみると黄色は明るすぎて肌の色と馴染まず浮いてしまう。」それに旅館の薄灯りの下では
黄色はあまりにも色気が無さすぎの様な気もする。
やっぱりピンクベージュがいい。
ふと20代の頃にブラを試着していたときのことを思い出した。
生まれたてのひよこみたいで可愛いと黄色のブラを手に取った。
あれから20年経って選んだのは
若い時には絶対に選ばなかったピンクベージュ。
いつの間にか生まれたてのひよこではなくなっていた。

「すみません、こっちのピンクにします」

「お揃いのショーツはどうですか?
スタンダードな形のとTバックもありますよ」

店員さんが勧めてくれるということは
40代が履いていても可笑しくないのだろう。
でも脱がせてみたらTバックは如何にもという感じで
引かれてしまわないだろうか。
ライブ配信で彼は確かこう言っていた。

「オレは合コンに一度もいったことがない!」

合コンに参加する男性の主な目的といえば恋人候補を見つけたいとか
気に入った女性をお持ち帰りすること。
女性の方もそれを意識しているから勝負下着だったり
もしかしたらTバックを履いていたりするかもしれない。
彼はそんな合コンに一度も参加したことが無い。
つまりTバックを履いた女性に出会ったことが無い可能性が高い。

どうしよう、ここでTバックを選んで
彼が初めてTバックを脱がせた女になるべきなのだろうか。
でもこの歳にもなって、セックスにがっついているとも思われたくない。

「すみません、ブラとこれとこれをください」

悩んだが、結局スタンダードな形のパンツとTバックのふたつを購入した。下着に1万円以上を使ってしまった。

同じフロアにあるカウンセリング化粧品売り場で
くすみのカバー効果が高いクッションファンデと
夏の新色のアイシャドウと
洋服店で白地に紺色のストライプのワンピースと
胸元から覗く緑がちょうどいい指し色になるキャミソールを買った。

普段は日用品や食品しか買わないショッピングモールで
両手一杯の化粧品や服の紙袋を持っていると
早く家に帰って紙袋から取り出して
こっそりクローゼットの奥に隠したくなる。
どれも不倫の恋のためのものだから。

なぜ不倫がそんなに非難される行為なのか分からない。
結婚しても恋愛をしていけない決まりはないけれど
普通は理性が働いて不倫を思い留まる。
でも不倫が始まるということは
その人がそれだけ魅力的で相手の箍外してしまうという事でしょう?
つまり不倫が出来る人に嫉妬しているの。

最近の若い人は恋愛はコスパが悪いと言っているみたい。
付き合えるかどうか分からないのに時間とお金を費やしたり
好きな人について悩んだり休日をデートに費やしたり
喧嘩でエネルギーを消費したり、それでも別れる可能性がある。
そう説明されると確かに恋愛はコスパが悪いのだろう。
そんなものに時間とお金を費やすのなら
自分の好きな事に使いたい気持ちも理解が出来る。
恋愛は贅沢品。

では今から私がしようとしている不倫は?
バレたら最悪の場合慰謝料を請求されて
離婚も十分にあり得るコスパの悪い極み。
トリンプのロゴが入った袋に視線を落としてはっとした。
この下着はデザイン重視のものより値段は高いけれど
長く使ってもすぐにヘタレないからとコスパ重視で選んでいる。
コスパが悪いからと好きな気持ちを止められるものではない。
でも不倫にかかるモノはコスパで選んでしまっている。
何だろう、この軽く矛盾する現象は。

足元のスーツケースにはその下着が入っている。
体の奥が熱く濡れそぼるのを感じた。


広島駅にあと20分で到着する。
昨日娘に「スーツケース借りるね」と言って
少し大きすぎるスーツケースをリビングに広げて荷造りをした。
それからショルダーバッグに封筒に入った離婚届と
多めの現金とキャッシュカードと通帳、実印をひとまとめにして入れた。
そして床に座り彼にラインを送った。

私:「ほんとに明日なんだね、実感がないよ」

彼:「そうだね、気を付けて来て、あと、コンドームないよ」

私:「できちゃうよ、それはそれでもいいけどね」

彼:「大丈夫。めったにいかないから、必要なら買っといてー」

彼はまさか排卵日に合わせて会いに来るなんて思ってもいないだろう。
私は確信犯だ。
子どもが出来たら結婚出来る。
そんな不確実な期待をして会いに行く。

「ママ、楽しそうだね」

「うん、楽しみだよ、だって初めてひとりで行く旅行なんだから」

二階から降りて来た娘に振り向いて笑顔で答えた。
娘はファンミーティングに当選して女性しかいないと信じている。
「ごめん」と視線をスーツケースに落として心の中で呟いた。

旦那はまだ帰って来ていない。
夜ご飯に娘の好きなトマトとほうれん草とチーズが入った
煮込みハンバーグを作った。
いつもと同じ二人だけの夜ご飯。
もしかしたらこれが最後の晩餐になるのかもしれない。
娘は離婚届けを用意しているなんて知るはずがない。

「やっぱりママのご飯が一番私の体に合うみたい
大学生になって外でご飯を食べるのが増えて
外食自体は好きなんだけど後で胃が気持ち悪くなったりするんだよね
ママのご飯はそんなことならないから、やっぱり体に合っているみたい」

突然の娘の言葉に駆け落ちみたいに彼の元へ転がり込んで
そこから離婚届けを自宅に送ろうとしている自分の考えが恐ろしくなった。酷い母親だ。

「そりゃ、小さい時から食べているから、体が慣れているのよ
なっちゃんも、自分の子どもに作ってあげてね
作り方教えてないけど、食べていたら何となくわかるでしょ?」

「何?その言い方、ママがいなくなっちゃうみたいな言い方してさ」

「一応だよ、一応聞いてみただけ」

そう言って誤魔化した。

「ママはパパと対等な関係ではないよね
ママは何でそんなにいつも言いたいこと我慢してるの?
いつも顔が死んでるよ、笑ってない
そんな奴隷みたいな生活私だったら絶対に嫌だよ、何で離婚しないの?」

娘は旦那と喧嘩をすると決まって何も言えずに黙り込み
一方的に言われっぱなしの私にいつもそんな言葉をかける。
娘の目には私の人生は幸せそうには写っていないのだ。

旦那には感謝をしている。
でも、何かが違う、言いたいことも言えなくて、いつも我慢をしている。
それはいつから?結婚当初から?

いつからなのかも忘れてしまった。
何気ない日常を笑って過ごしたい、ただ、それだけなのに。
彼の元に行けばそれが出来る。

娘は今すぐは無理でも
もう少し大人になればこの気持ちを判ってくれるかもしれない。

「ママ、先にお風呂入りなよ、明日、早いんでしょ?何時の新幹線なの?」

「6時半だよ、でも、家を出るのは5時半かな」

「私、たぶん寝てるよ」

「寝てていいよ、あと、パパにご飯代を渡したから
おばあちゃんたちも誘って鰻食べて来てね、そう言えば土用の丑の日だね」

「うん、ママ、ありがとう」

ご飯が終わって直ぐお風呂に入った。
自分の服やバスタオルを洗濯して干して娘の分の洗濯も終わらせる。
今の内に出来る家事は全て終わらせておこう。

金曜日はいつも旦那の帰りは遅い。
たぶん、今日も12時近くになるだろう。

顔を合わせないで先に寝てしまう。
でも、今日はその方がいいのかも。
そわそわと落ち着きがないのは旅行に行くからだけではないから。
何かがいつもと違うと変に勘づかれてしまうのは避けたい。

夜中の一時過ぎにふと目を覚ますと旦那が隣で寝ていた。
いつの間に帰って来たのだろう。
手帳型のケースのカバーが開いたままのスマホが枕元に転がっている
寝落ちしてしまったのだろう。

一階へ降りて
キッチンのシンクを見ると食器がそのままになっていたので
食洗器に入れてスイッチを押した。
浴室へ行って洗濯機の予約ボタンを押す。
寝室へ戻り物音を立てないようにそっと布団に横になった。
熟睡しているようで規則正しい寝息だけが聞こえる。
カーテンの隙間から街灯の灯りが覗いて
寝室の照明を全部消しても顔が分かるくらい明るい。

あんなに好きで大恋愛をして結婚したはずなのに
いつの間にかそんな気持ちはどこかへ行ってしまった。
恋は必ず冷めるもの、そして愛も、移ろっていく
。結婚して生活をともにすれば、やがて恋愛感情は消えてしまう。
その後に待っているのは、日常という修行。

「お前たちがいなかったら、オレはこんな会社なんてとっくに辞めていた」喧嘩をする度に旦那が口にする台詞。
若くして家族を持ったことは旦那にプレッシャーだったのだろう。
でもそのお陰で強くなれた、ありがとうと言ってくれた。
このまま、多少の不満に目を瞑り結婚生活を続けることも出来る。
その方が年金や老後の資金も住居も取り敢えずは保証される。
旦那と一緒ならこの先特別楽しいことも無い代わりに
特別苦しいことも無いだろう。
でも、何かが足りない。
その足りないものが、彼と一緒なら満たされる気がした。

バッグの中に離婚届けと帰りの新幹線のチケットも一緒に入っている。
彼がダメだったら旦那のところに戻る。
つまり退路を用意して彼の元へ行こうとしている。
私は狡い人間。

そっと起き上がって
私たちの寝室と娘の部屋を分ける真ん中の引き戸を開けた。

もう19歳なのにベッドをぬいぐるみで一杯にして一緒に寝ている。
額の髪を掻き上げるように撫でて
はだけたタオルケットをお腹にかけると体がピクッと動いた。
ごめん、ママはどうしても彼の元へ行きたい。

あと5分で広島駅に到着する。
デッキへ移動すると広島で降りる人が二人すでに待っていた。
到着まであと3分。

新幹線が広島駅のホームに到着した。
一瞬息を止めるような間があり、ぷしゅうとドアが開いた。
スーツケースを両手でぐいっと持ち上げてホームへ降りた。

広島駅へ来たのは高校の修学旅行以来。
当時の記憶は全く無くて初めて来たかのよう。
頭上の構内案内表示を見上げながら現在地を確かめる。
カーナビを見ても道に迷うくらいに方向音痴だから
案内表示を見ながら歩かないと現在地を見失ってしまう。
しかもバスの発車まで10分ちょっとしかないので少し焦りを感じていた。
高速バスの乗り場がある新幹線口の表示を見つけると少しほっとした。
表示に従って新幹線ホームの三階からエスカレーターで1階まで降りた。
土曜日の朝9時過ぎの駅はそれ程人が多くない。

ひとりでスーツケースを引っ張りながら歩く私は
出張の会社員でも実家にひとりで帰省する主婦でも
友達と待ち合わせて旅行にいく女性でもない。
大好きな彼に会いに行くひとりの女性。

まだ朝9時を少し過ぎたところで駅ビルのお店は閉まっている。
1階に降りるとバス乗り場が目に飛び込んで来た。
ふと左を見ると駅ビルの左側に開店しているカフェがある。
コーヒーをテイクアウトしたかったけれど
お店の前にすでに2.3人が並んでいたのと
バスの出発時間まであと8分しかないので諦めた。
9時20分発のバスを逃してしまったら、次は1時間20分後のバスしかない。
ライブの準備で時間がないのに
次のバスまで待たせてしまう訳にはいかない。

高速バスチケットカウンターがある建物の隣に
山陰地方へ向かう高速バス乗り場を見つけた。
小学生の男の子二人の兄弟とそのお母さんが並んでいた。
親子の会話を聞いていると
どうやら子どもだけで祖父母のところまで遊びに行く様だ。

「カードはちゃんと持っている?どこのバス停で降りるか、間違えない?
降りる時にお土産を忘れずに持ってね」
お母さんの心配を他所に子どもたちは「もう、大丈夫だよ」と
ぶっきら棒な返事をしている。
その光景を微笑ましく見ていた。

そして、娘にひとりで実家へ行かせたことがないなと思った。
子ども一人だけで飛行機に乗るときに受けられるのサービスを利用して
空港の到着ロビーの出口まで祖父母に迎えに来てもらえれば
娘一人で帰省することも出来るのにそれをしたことも無かった。
目を離した隙に、娘に何かあったらと考えると怖くて出来なかった。
娘が中学生になるまで近所の公園にすら、ひとりで行かせたことはない。
そんな私を旦那は過保護だと呆れるが
大事なひとり娘だからそうなるのも仕方ない。
私には娘しかいないのだから。
だからそのお母さんの気持ちがよく判る。
そして今から自分がしようとしている行動の恐ろしさに震えた。

列に並んで3分程でバスが入って来た。
バスが停まると、運転手さんがトランクルームを開けてくれた。
荷物を預ける人は私だけのようだ。
スーツケースの持ち手を引っ込めてトランクに入れようとしたら
運転手さんが「重いでしょ?入れますよ」と言って替わってくれた。
「ありがとうございます」とバスに乗った。
彼に少しでも早く会いたくて、左側のいちばん前の席に座った。

ここ広島駅から彼が待っているバス停まで約一時間ちょっと。

出発すると幹線道路のような大きな道路を走り
とあるビルの一階にあるバスセンターへ入った。
そこで乗車する人はおらずそのまま通過した。
途中で大きな川に架かる橋を渡ると
進行方向の右側にマツダスタジアムが見えた。
市街地を抜けて高速道路を通るルートに入ったようだ。
車窓から見える景色はそれほど高くない山が連なっている。

隣のテーブルにサーモンのお刺身を運んで厨房に戻ろうとする店員さんを「すみませんと」引き留めて「おかわりください」と白ワインを頼むと
ゆう子は「私もビールおかわりください」と言った。
運ばれて来たワインとビールで3回目の乾杯をしたのは
つい2週間前のことだった。

「ねぇ、しずく、大丈夫?人を好きになるのは理屈じゃないのは判る
でもさ、その人のどこがいいの?ちょっとさ、冷静になりなよ。
その人のところに行ったら
確実に今みたいな生活は出来ないの分かるでしょ?
お金が無い生活って本当に心が荒むよ。
もう40歳過ぎているんだし若くないんだから
もう苦労しなくていいんじゃない?」

ゆう子は呆れながら言うとグラスに半分残っていたビールを一気に飲んだ。

お互いの自宅から歩いて3分くらいの距離にある
近所の居酒屋で不倫の話をしている。

もしかしたら近所の人がいるかもしれないのに。
4人掛けのテーブル席を区切る
分厚い板でできた背の高いパーテーションが有難かった。

「誰に聞いても同じこと言われるの。でも私が働けばいいことじゃない?」

私もグラスに残ったワインを飲み干した。

「そういうことじゃなくて。
今より生活レベルが下がるって判っててどうしてそこ行くの?
それに全然カッコよくもないしただのおじさんて言うかおじいちゃんだよ」

「笑うと顔に皺が寄るところが可愛いんだ。
確かにすごくカッコよくはないけど彼私のタイプなんだよね。
母性本能がくすぐられて何とかしたいって思っちゃうの。
彼と一緒なら辛いことだって乗り越えていけるんじゃないかって
傍で支えたいんだ」

「あー、もう!頭の中がお花畑!
今は好きだからそう思えるかもしれない。
でもさ、3年も経てば好きって気持ちも薄れてくるでしょ?
そのとき、どう思うかだよね。しかし、ファンて怖いね。
どんだけフィルターかかって見えてるの?
でも、私が行くなって止めても行くでしょ?」

「うん、たぶん、ていうか行く、新幹線のチケットもう取っちゃったし」

「だよね、しずくだもん、まぁ、行っておいでよ。
帰って来たらいつでも話は聞くよ」

ゆう子は帰って来ると決めつけているから
いつでも話を聞くよと言っているのだ。
ごめん、たぶん、戻らない。
こうして一緒に飲むのも、もしかしたら最後かもしれない。
そんなことがあった。

今の生活が一生保障される訳でもない。
もし、旦那が病気や事故で体が動かなくなった時
逃げ出さずに旦那と旦那の両親までの面倒を診て行ける?
正直、自信が無い。
それは彼にも、誰にだって言えること。
例えば怪我をしてドラムが叩けなくなってしまって
音楽の仕事が出来なくなってしまったら?
私が彼と彼の両親の面倒を診ると言い切れる。
彼と一緒なら本当に欲しかったものが手に入ると信じたから。

そう言えば、娘が小学1年生のときにこんなことがあった。
娘の友だちとそのお母さんが家に遊びに来たとき
ちょうど、義母は庭先で花の世話をしていた。

「こんにちは、遊びに来たの?ゆっくりしていってね」
と言葉こそ優しかったが
そのお母さんを上から下まで舐めまわすような視線で見ていた。
まるで「どこのブランドの服を着ているの?」とでも言うように。
着ている服でその人の価値や付き合い方を決めている様で
とても不快に感じたし何よりせっかく遊びに来てくれたお母さんに対して
申し訳ない気持ちで一杯だった。
その義母に育てられた旦那にも服やバッグはブランドでないと恥ずかしい
ファストファッションは着たくない義母と似ているところがある。
それを目の当たりにすると、この先の生活が嫌で嫌で堪らなくなる。
私は贅沢に育っていないしブランド物も何が何でも欲しい訳でもない。
食べるものも高級スーパーで買った食材や高級レストランでなくて
極々普通のものでいい。

彼と一緒になったら
お母さんに畑を教えてもらって野菜を育てたり介護施設で一緒に働きたい。お父さんが釣りに行くなら、私も一緒に着いて行きたい。

彼が仕事で遠くに行くときは
お父さんとお母さんのことが心配でしないように
「私が見ているから安心して仕事に行って来て」
と笑顔で送り出したい。
彼と一緒なら、背伸びして多くの物を手に入れようとしなくても
手を伸ばせば届く距離にある幸せを大事にして生きていける。
彼と一緒なら人生が180度変わると信じた。

あなたが好き、ずっと一緒にいたいと伝えに行くから
どうかどうか私の気持ちを受け止めて。。。



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