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しびろい日々 綴じ帳

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挑み果てた者供を拾う日々の営み(あるいは、アラフォーを自覚した誕生日、なんか書きたくなって始めたやつ)1章・公開分の綴じ合わせ
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しびろい日々(20)

しびろい日々(20)

 平鍋に放られた脂身のような塊は、熱を帯びると溶けはじめるが、本物の油のように爆ぜることはせず、白っぽい液状になって鍋底に広がっていく。
 すっかりクリーム状になったそれを指で触れ、ほどほどの温度になったことを確かめる。指先にすくったそれを額に乗せ、薄く延ばした。両の頬、鼻先から全体、顎の下、耳とその裏側。肌の見える場所を漏らさぬよう、顔が終われば首、次は肩、と、順繰りに塗り広げる。
 そうしてい

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しびろい日々(19)

しびろい日々(19)

 身ぐるみを剥いだ下から現れたモグリの素肌は異様に生白い。陽射しの代わり多湿な空気に曝され続けた肌は油脂が厚くまとわり付き、毛穴に溜まった垢の塊が黒点となり、肌模様のように点々と張り付いていた。
 覗きを働くような物好きなど居ないとはいえ、吹き抜ける風の触感は、あまり居心地の良いものではない。衣装入れから古布の腰巻を取ってとりあえずの着衣とし、一拍置くように天井を仰いだ。無意識に後頭部を掻いた爪に

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しびろい日々(18)

しびろい日々(18)

 鎧の留め具を外す。錆の混じる音と床に散った微粉を見て、モグリは難しい顔で口を結ぶ。やがて、思考を吹き捨てるように鼻で息を吐くと、昆虫の外甲を剥くように、部位ごとに分割された金属板を外していった。
 すえた臭気が鼻につく。金属甲ではなく、モグリの身体の方からである。首周りからグラデーションを描くように変色した肌着に触れると、そこからボロリと砕ける。脱ぐというより破り捨てるような様でそれを始末し、居

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しびろい日々(17)

しびろい日々(17)

 この集落の居住区は、移動式住居の連なりである。
 木柱に布張りして建てられたそれらは、往時はひしめくようにあったものの、今は点々とまばらに残るのみである。
 試練の挑戦者はもっと“上等”な宿場に居を構えており、ここに集うのは、放浪の職人、根無し草、あるいはモグリのような試練の場に職を定めた人々だ。
 住居の入り口には戸の代わりの縄が打たれているものの、覗き込めば屋内の様子が伺えるような解放感であ

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しびろい日々(16)

しびろい日々(16)

 モグリは置いていた背負子の中を整え背負い直し、無意識に鎧胴の腹の辺りをさする。
「これから夕飯?」
「ああうん。まあ、いったん着替えて……『臭い』を落としとかないとね」
「別に気になんないんだけどねえ」
「ここに籠ってちゃあね。鼻が慣れてるんだよ」
 モグリの返事には乾いた笑いが付いている。確かに、実質的な死体安置所であるこの施設の主となれば、死臭の類いに馴染みがあって当然ではある。「とにかく『

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しびろい日々(15)

しびろい日々(15)

 飛ぶ鳥も落とす見事な投擲である。木の葉が散るように書類が降り落ちるが、モグリの顔の照り汗に引っ付いたのか、一枚だけ、ヴェールのように接着されていた。

 ……それが剥がれ落ちるまでの間に、“イキ”にまつわる話をしておこう。
 “イキ”
 それを別の言葉に読み替えるなら、寿命、あるいは定命の量、だろうか。“イキ”の総量は各々の生誕の時に定まり、その消費量は生き様による。
 より激しく、濃密で、危機

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しびろい日々(14)

しびろい日々(14)

「そうか……そうかあ……」
 宙を虚ろに眺めて呟くモグリの顔は、急に老け込んだように見える。
「ほんと、変なやつ」
 ナトリは半眼。鼻で笑いつつ言い放つ。
「えぇ?」
「真面目で几帳面の朴念仁なら筋も通るけど、それなりに色の欲もあるし、美人に目がないし」
「それはまあ、ほら……夜艶の娘さんは、そういう……いやそうじゃなくて」
「そこで下品になれないの真面目にも程があんでしょうよ、ったく」
 語尾を

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しびろい日々(13)

しびろい日々(13)

 視線を落とせば、散乱した提出書類が落ち葉のごとく散乱する様が否応なく目に入る。どちらともなく、モグリもナトリと屈みこみ、それを拾い集めはじめた。紙同士が擦れる乾いた音が、広い構内に反響する。
「あのオヤジさあ」
「ヤセさんまた何か?」
 波止岬のヤセは壮年の屍拾いで、モグリの先輩でありナトリの天敵でもある。
「次行くって」
「あー、それで宿題提出?」
「信じられる? 三月巡りぶん一気よ」
「う…

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しびろい日々(12)

しびろい日々(12)

「律儀だよねえ」
 呆れた調子の、娘の声がした。少し掠れて甲高い、愛嬌のある声音である。
 振り向いたモグリは唐突に顔をしかめて眉根を寄せる。
「ナトリさんさあ」
「いまどき、そんな丁寧に鏡の“試し”やってる死拾いとか居ないでしょーよ」
「じゃなくてね」
 モグリは利き手の人差し指をピンと伸ばし、己の胸元をつっつく仕草を見せる。ナトリと呼ばれた娘は、薄い夜着にショールを引っ掛けた姿で小首を傾げ、肩

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しびろい日々(11)

しびろい日々(11)

 鎧と兜の間から太い顎が覗いた。片手で仮面を剥ぐように外された兜を、いったん足元に置くために屈み込む。天井の灯火が目に入ったのか、眩しそうに瞳を伏せるモグリの素顔は、青年というには、多少、年輪を経ている。
 色の薄い肌には浅く皺が浮かび、まばらに伸びた無精髭と引き結ばれた薄い唇は、普段、人の営みの中で生きる存在とは違う、種の隔たりを感じさせる。赤茶けた剛毛の頭髪は、いちど短く刈り揃えたのを時間をか

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しびろい日々(10)

しびろい日々(10)

 四名ぶんの書類を重ね、角を揃えて記帳台の紙束の上に差し戻す。
 ふとカウンターに散った書類に記された乱雑な字に目が行った。
 走り書きを多少丁寧にしたような癖字はモグリも知った顔の同業者のものに違いない。書類の量を見るに、のらりくらり正式な報告を伸ばしたものを纏めて提出したのだろう。
 つまりは、これこそが管理人が夜なべ仕事せざるを得なかった原因であり、なお現在進行形の問題なのだ。その一枚を覗き

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しびろい日々(9)

しびろい日々(9)

 両開きの重たげな大扉から伸びた影は長く、モグリはその内へ歩み入る。
 扉の押し手のそれぞれに手を掛けて力を込め、ふと、傍らに立つ子の背丈の気配に気付いた。それは木片を糸繋ぎした人形で、深くお辞儀をするような姿勢に傾いでいる。これは看板代わりであり、つまりは『休止中』の合図であった。
 モグリは数秒、扉を押す動作のまま停止する。
 やがて頭上を見上げた。昼下がりである。
 次いで石壁に空いた四角窓

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しびろい日々(8)

しびろい日々(8)

 回廊の床にうずくまるのはモグリである。慎重な手つきで、握った石片の切っ先を、崩れた文様をなぞるように擦っていく。
 石片から剥がれ落ちた欠片は脆く崩れ、薄明かりの下で鈍く光っている。燐光粉を固めた石片は軽くとも、強く床を押してしまえば感圧機構を作動させ、串刺しの遺体がもう一つ増えてしまう。
 緊張に手を震わせるモグリの頭からは、そもそも、文様を捨て置いて帰るという選択肢は抜け落ちていた。
 生来

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しびろい日々(7)

しびろい日々(7)

 遺体が増えれば死拾いが儲かる。という誤解がある。
 例えば……一歩進むごとに致死の罠が牙を剥き、一撃が致命傷になりうる爪牙を振るう魔物が護る、最難関の試練の洞……などというものがあったとしよう。屍は高く積み上がり、死拾いが常々行き交い、陰鬱な光景に身も心も曇るような場所だ。
 間違いなく廃れるだろう。季節一つ移ろうより尚早く、である。
 この世界には数々の秘宝が眠る。膨大な量だ。よりどりみどり、

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