閉鎖病棟日記「なしくずしの生を生きる」

 四月一日から社会は動いているらしい。まあ社会が動いていない日などないのだが、そんな当たり前なことすら無職には眩しく目を瞑る。目を瞑れば光の名残が虹色をしたままぼんやりと残り、暗闇に戻る。そして無職。

 三月三十一日の夜、ちゃきちゃきとしたおばちゃんワーカーが部屋に訪ねてきだ。彼女は、四月一日から違う病棟に移ることになったと言い、今までの非礼を詫びた。彼女の言動から非礼を感じたことがなかったので、彼女から差し出されるシワと乾燥が重ねられた右手を両手で握り、「寂しいです」と言った。嘘はない。本当もない。ただ、寂しいようなよくわからない感覚がした。

 四月一日、新しく病棟に来たナースやその下を見かける。忙しなく動く彼らを見ながら、自分まで疲弊していく感覚に陥る。きっと僕も疲れさせられるだろうなと思った。
 新しい彼らは本当に横暴だ。新しい環境で、気狂いに囲まれて仕事を完遂させなければならないのだ。少しは横暴でないとやってられまい。しかし、彼らの腹立たしいところは横暴であるところではない。もう決まっているルールを自分たちの慣れた形に変形させようとするその態度だ。
 昼に外に出ると言えば、「風邪をひく人が多いからすぐに帰ってくるように」と言う。それルールで決まってるんですか? 決まってないですけど。そうですか。それじゃあなたがルールを変えてください、頑張って。もう疲弊し切って何を言う気にもならず、不平の言葉を想像して口元を歪める。「なるべく早く帰ってくるようにしますね」こうすることによって浅く広く好かれている。浅く広く好かれたって一銭にもならない。ただ、ぶん殴られないだけだ。それは僕が唯一求めている物なのかもしれない。

 郵便局に行く。郵便局は全員が酒を飲み、ブコウスキーのように働いているとしか思えないほど能力が低い。日本語さえギリギリ取り違えながら伝わると言った様子で、彼らの手からこぼれないようになるべく平易な言葉を使って話す。苦心。「二回ほど倉庫を探したのですが、荷物は見つかりませんでした」と、最初の言葉だけを強調して誇らしげに話す、顔の四角い眼鏡をかけたババアに対応していると、その四角を少しだけ丸くさせてやろうかと叫び出したくなる。補填もない二度目のロストバゲッジかと思えば、「三回目探したらありました」とまた誇らしげに言う。お前じゃ用が足らないからさっさと機械に変われよ。機械相手ならぶん殴ったって痛みを感じないんだから。
 ハイプロンを受け取ろうと思って、やめた。他の荷物だけを受け取る。僕はもう少しだけまともでいられるはずだと思った。その、ちゃちな狂気を引き出すそれの、手数料も利子も今は払いたくない。立つ鳥跡を濁さずじゃないけれど、一番マシな人として終わりたい。

 この世の中には馬鹿がたくさんいて、馬鹿に理不尽に嫌われないように握った拳を隠すことばかりだ。馬鹿の犯したミスをすべて僕がふっ被っているように感じられる。本当にもううんざりだ。公園で酒を飲む。
 病院共通の喫煙所では、他の病棟に移ったストーキングしてくる患者が煙草も吸わずに待ち伏せていて、そのためにそこへ行くことが敵わない。気持ち悪くて仕方ない。さっさと消えてしまえばいい。好意をありがたいと思うには金銭が介在しないといけない。価値のない好意が僕に善意の顔して付き纏って、ゲロを吐きそうになる。それは帯びすぎた酒気のせいかもしれない。

 公園で煙草を喫む。その、公園とは名ばかりの、草とそれを囲む石で作られた花壇とベンチしかない場所。ベンチに腰掛けると、本当に嫌になってくる。酒が回って、息も絶え絶えに肺から副流煙を吐いていると、副流煙がゲロに変わりそうになった。もう死にたくて仕方ないよ。まともを継続するのに疲れたよ。金銭のない好意のツケをなぜ払い続けなくてはならない? なぜ金銭を払ってまで病院に馬鹿にされ続けなきゃいけない? 本当に鼻持ちならない奴や、自分たちが正しいと思って正しい権力を振りかざす奴らのために、どうしてへこへこしなければならない? 弱いからでしかない。

 本当に死にたくなって、病棟に戻ろうと思った。子供が明日の天気を占うために靴を蹴飛ばすように、吸い終わった煙草を草むらに向かって投げた。背の高い草の足元に、美しいだけの放物線を描いてひらりと落下した。それを見て、煙草を小鳥が啄むのを想像した。しかし、何をするのにも面倒で、それを睨んで触らずに帰った。僕はまだ生きていけると思った。まだ、生かされて、死ねずに生きると思った。なしくずしの生を生かされている。ただぐずぐずと崩れるのに、何をそんなに時間をかけることがあるのだろう?

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