閉鎖病棟日記「人権とトリップについて思案したること」花見がしたい

「今日から暖かくなるって」
 昨日、泣きたくなるほど優しいおじさんが言った。もう、あちーっすもんね。ねー、上着いらないよね。

「月曜日退院する」
 女の患者が得意げに言う。こういうのは話半分で捉えた方がいい。やばい患者ほどそう言うのであって、それは気分や看護師の都合や親の都合で簡単に反故にしたりされたりする。
「こんなとこいたくないって。人権侵害だから訴える」
 女はひどく調子が悪そうで、面会の客が来る時間になると、病棟唯一の出入口の前で座り込み、ごんごんと、何をしているのかはわからないが自傷であることはわかる音を立てていた。昨日はやけに話しかけてきたのだが、今日は全く話しかけてこない。女性というのは気まぐれだから、そういうこともある。僕は女性のそういった面を見る度に、女性は占いで喋り方を変えるのではないかとさえ思える。生理的とはよく言ったもので、生理的な感覚のみに沿ってやっているのだろうけど。
 女がどんどんと音を立てている。歳上の患者が「俺はパス」と笑って部屋に戻った。僕はさも、話す相手がいないからというふうを装って部屋に帰る。俺もパス。

 それにしても人権だなんて。人権という言葉を聞く度に、僕は寒気を覚える。人権とは徒手空拳で戦う人たちの最後の持ち物のようで、何もないということの裏返しでしかなく、その貧乏くささが苦手で仕方ないのだ。
 人権などという甘言を、それ自体が甘言だと気付きもせず、病人はよく口走るのだが、僕にはなぜそれが真っ当に存在して当たり前というふうに捉えられるのかがわからない。私たちは尊重されるべきだと保証されている。本当に? そんな簡単に世の中はできていない。国家に傷つけられたことがない訳ではあるまい。
 そもそもここに人権などない。当たり前に少し目と耳と脳がついているなら一週間で気付ける。僕はそれを一回目の入院で気付いた。人権とは存在しないのかもしれない。概念のものだから。人権とは法律上の概念であり、概念である以上実生活にそれが持ち込まれているかどうかを考えて動かなければならない。例えば、立ち小便は違法だが、それで捕まった人を見たことがあるか? 存在しているとしなければいけないが存在していないものを、存在すると唱えることには違和感を覚える。

人権を見たことがあるか?
神様を見たことがあるか?
愛を見たことがあるか?
幻覚を見たことがあるか?
最後とそれ以外は両立しかできない。



 部屋で休んでいると、叫び声が聞こえた。「私ここにいると気が狂う!!ママ出してよ!!ママが出ていいって言ったら出れるんだよー!!ママー!!」
 親に期待をできる育てられ方をしたのだろうと思った。その幼児退行じみた叫びは、なんだか僕には恥ずかしく、それ故に手に入れられないものだと思った。僕はいかに甘えようとも、酒と抱き枕くらいにしか甘えられない。それだって幾分か幼児退行的だが、僕にとって親に期待をするのには勇気がいる。酒だって、酩酊と子供のぐるぐる遊びをイコールで結びつけたのは中島らもだが、僕はその幼児期の言葉にできない感覚、細分化されていない感覚を求めて酒や薬を飲んでいるのかもしれない。ぐるぐる遊び、そしてぶっ倒れて空を見る感覚、または風邪の時の幻覚。言葉が全てを説明づけられるようにしてしまって、本を読み始めた時から再び生まれ直す(そんなことが可能なのかはわからない)まで、本の中の文字たちをいくら摂取したかにトリップの質は決められてしまう。

 原始の世界では言葉がない故に全てが分化されず、幻覚のような感覚的なものと1+1=2は同列にあったという。故に統合失調症は原始の名残であり、幻覚を真に感じるのはそのせいだという。何かの本で読んだ。
 酩酊のための薬というのは結局、読んだ本の世界を現実に滲ませてくれる触媒なのだと思う。本の中と現実を同列にしてくれるのがトリップであり、故に本を読まない人間が想像するトリップとは今ではアニメカルチャーの再生産でしかない。幻聴や妄想だって一昔前はラジオから流れてくるものが多数だったのと同じように。
 そもそもアニメというのはノイズがない。ノイズがない現実はつまらないと思う。例えば今日はとても暖かいということだけのために、枯れた葉っぱが風に吹かれてカサカサ音を立てること、わかばの副流煙の残りを吸ったマスクが甘い臭いをさせること、子供が公園の入り口を親に聞き入れてもらえずに叫ぶ声が付随する。
 カメラとの比較が一番わかりやすいだろう。カメラで海を映す。そこにはプランクトンの死骸、流されるゴミ、夕陽が曖昧に波にさらわれながら水面に移る様子。全てがある。しかし、アニメでは海は海である。水色で表されたただの面である。これの再生産の酩酊や幻覚など、さぞつまらないだろう。
 現実から文章へ。文章からアニメへ。記号化が進み続ける。しかし文章に移り変わる時というのは現実の意識化であるのに対して、アニメへと通じるのは意識の純化──しかも求めているものだけの──だ。ノイズが消され続けていく。動画を見る時につけるイヤホンは胎内にも似て、馴染みのある音楽を流し続ける。胎内の赤子にドラッグを投与したなら、彼は胎内の幻覚しか見ないだろう。酩酊は時折、欲しくもないものを欲しくさせる。欲しいものだけの世界に囲まれた人間が、欲しいものの世界を見るために薬を使うのなら、それは空想で事足りる。ドラッグは本望以外の欲望こそが楽しいのである。パッドトリップだって死にはしない限り楽しい。パッドトリップこそが酩酊であるとも言えるだろう。



 それにしても今日は暖かい。煙草を吸っているだけで脇汗が滲む。昨日の雨を乾かしたベンチに座る。まだ花どころか葉さえ見えないが、花見がしたい。酒が飲める以外も楽しみだ。まともな人と話したい。
 東京ではすぐに奇人と見做され、それなのに優しくて助かる。しかし病院内では僕は真っ当な人間である。病棟の外に出て、少しずつ奇人の友達の中で優しく奇形を許しあいたい。ここではそんな期待もないから、ただただ優しく微笑んでばかりいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?