閉鎖病棟日記「疲れた」

 前舌のピアスの調子が悪く、飯を食う時煙草を喫む時などことあるごとに外れる。その度に恥ずかしげに舌を少し出して金属片ではないらしい何かを吐き出す。

 前よりは酷くないはずだ。生きるために頑張っている。すぐ疲れる身体をなんとか鞭打って喫煙所まで行く。行くと知り合いがいたりいなかったりする。無愛想な中年男性が背中を向けて、やはり無愛想に煙草を喫んでいる。疲れた。
 煙草を喫む度に少しずつ目減りしていく寿命を何も考えないことに使用している。疲れた。でも大丈夫。疲れたけど。

 病棟内で一番若い高校生が「自分の親はどっちも義理だから俺に冷たい」と言った。初恋の女の子に似た患者は「実は私は人を殺した」と言った。そしてその後「この病院に前科ある人いるよ」と言った。ラインでは僕がトランスジェンダーだということを広めたらしい。疲れた。まあでもこんなブログを書いている僕も似たようなものだろう。
 何が酷いかのパワーゲームには飽きた。先述の二人はネットを使って自分の病名を調べてはどう生きればいいのかを調べていた。「勉強家のアル中さん」と『今夜すべてのバーで』の医者が言った。
 僕はこの人生も病気も上向く気がしない。発狂さえしない。だから長い間生きる。
一番若い患者が言った。
「俺はうつ病がわからないんですよ。頑張れよって思うから」
 それを聞き流しながら躁鬱病の僕は、「頑張って何が酷いかのゲームで優勝してくれ」と思った。「十七か十八かそこらでわかることだけが全てだったら大人は全員発狂してるよ」とも。僕はもう疲れてしまってそんなのどうでもいいし、勝てないことだってある。しかも勝敗はひっくり返らない。
 勝敗がひっくり返るのは芸術くらいだろう。だから音楽なんか文章なんかやってる訳ではないけれど。

 初恋の女の子に似てる患者は「私は似顔絵が得意だ」と豪語して、医者やナースに渡すために僕にはわからない絵を描いている。「ココナラで売ろうかな」「需要があったら値段を上げて」それはとてもいい考えだと思うよ。何が価値になるかはわからない。
 その、僕には子供が描いたように思える絵を見ながら、初恋の女の子も似たような絵を描いていたなと思った。それはもっと下手だったかもな。
 それを見ていると、僕がやっていることは目盛のない世界でたまに建前で誉められているだけなのではないかと思えてきた。少し褒められて、いい気になっただけの人。そうだろうな。そう思うとこんな文章さえ書く気が失せるのだが、少しくらいは自信がある。誰かにはわからなくても、自分が見る分には良いじゃないかと思える。

 初恋の女の子に似てる患者が「エクステをつけたらいい」と言った。この髪の長さでは難しいと思ったし言ったが、それは悪い考えではないと思えた。入院ぐらいでしか人と会わないから、人と会うとおしゃれをしたくなる。毎日のように褒められるタトゥーやファッション。それら全てに悪さがバレた子供のような顔をして「ありがとうございます。嬉しいです」と返す。嬉しいのは本当だけれど、こんな自分が褒められていることに気恥ずかしさがある。

 エクステの予約をした。つけられるかどうかは定かではない。疲れているから池袋まで行けるかどうかも定かではない。その前に他科受診で自由が丘まで行ける自信もない。だけど、暇で簡単に殺されそうだ。二時間に一本だと思っていた煙草を一時間に一本吸っている。今日は喫煙所からの帰りしなに初恋の女の子に似てる患者に会って、余計にもう一本を喫む。まあいいや。朝のうちにアメスピは買いに行った。重めのキャメルの後に喫む一番重いアメスピはクラクラした。恋愛として好きではない。この人はあまりにも他の世界の人だと思う。
「私は陰キャだけどコミュ力はあるの。宇宙人とも話せると思う」
僕もそう思うよ。

 ただ、全てを懐古してしまう歳になっただけだろう。似たようなものを見つけて、過去を改変できるような気がして接してしまう。なんか疲れた。エクステつけれたらいいな。早く可愛くなりたい。可愛くさえなれば全てが解決するような気がする。褒められた時の裸を見られたかのような恥ずかしさもなくなると思う。

 一番話しやすい患者が「性同一性障害なら個室にしてもらえると思うよ」と言った。「そうなんですか?」「そうだよ。そうしてもらいなよ」
 人のアドバイスが苦手だ。そうしなきゃいけない気がする。そうして、相手を喜ばせなきゃいけない気がする。多分相手はそこまで喜ばない気がする。そういう徒労をいつまでも続けている。ドライフラワーには水は必要ない。そして水だと思ってるものは多分油か下水かなんかだ。

 幼少期に戻りたいけれど、入院した時みたいなふわふわして抱き枕を抱いた自分には簡単には戻れない。いくら辛くてもかわいいか幼稚でありたい。みんなに頭を撫でられてにへへとぬるい笑い方をしていたい。もう二十八だ。そもそもそんな幼少期経験したか? クリスマスに生活ゴミを貰った記憶と、カップラーメンを啜った記憶しかない。これには懐古さえ手が届かないようで、似たようなものさえ目の前に現れてくれない。早く発狂しなきゃ。隔離室でもいいから、抱き枕を抱く生活とにへへと生ぬるい笑い方をする処世術とスプーンでご飯を食べさせてもらう生活がいい。もう僕は酷く疲れてしまって、何もできないんです。まあ、疲れていなくてもそうかもしれない。ハイプロンを飲みたい。ハイプロンがやる奇行のカジノ式ルーレットでずっと勝っていたい。でもそうはうまくいかない。

 作っているビートは見よう見まねの54-71みたいな物で、隙間とキックスネアハイハットの中でサンプルがリズムを作っている。その上でポエトリーリーディングをしたい。ノートとボールペンを買ったけれど、何も思いつかない。アブストラクト・ヒップホップを聴いている。下手くそな絵だとしても、自分が聴いて、自分が表現できるならなんでもいい。

 もう表皮どころか臓器にすら染みついた人に好かれるための所作を全てやめてみたい。でもそれは染みついているが故にできない。嫌になるな。でも人に好かれないと生きていけない。
 美しさや可愛さがあれば好意は無条件で手に入る気がする。そう思って下手に生きて下手に服を着て上手なタトゥーを入れて貰っている。髪さえ伸びたら少しは元気になれる気がする。女装くらいしか僕が本当に誉められているような感覚に陥れない。本当の自分がそこにあるからなのかもしれない。髪の毛で自分の顔を隠したい。誰とも喋らなくても二十四時間が早く過ぎたらいい。可愛くなったら、鏡とベッドと抱き枕しか部屋でもずっと笑っていられる。それなら首輪だってつけられてもいい。飼い主がいるなら。

 飼い主が欲しい。自分を撫でて、餌をくれて、何をしたら喜ぶかもわかる飼い主が。そんなものどこにもない。首輪だけは閉鎖病棟についてる。でも愛はないと思う。愛想のいい物わかりのいい患者。それ以上でもそれ以下でもない。

 無理だろうから、誰かに酷く傷つけられて終わりにしたい。美しい人に首を絞められて、骨も気道も破壊されたい。その時その人には笑っていてほしい。

 そういや脳波の検査もしたな。「僕痛みに弱いんですよ」と言うと検査医は笑った。「ピアスもタトゥーもあるじゃないですか」そういえばそうだった。いくら拭いてもベタつくクリームを塗られた後、その下から汗をかく。元気で風呂の日なら風呂に入りたい。でも元気ではない。風呂の日でもなかった。
 この疲労感が脳波によって否定されたらどうしよう。脳波やさまざまな記録を取られる度に怖くなる。あなたは気狂いのふりをしているだけ、とみんなに言われている気がする。脳科学が精神科の分野を食い散らかす度に怖くなる。ただ辛い人はどうしたらいいのだろう。脳がこの動きしてないのであなたはただ辛くて疲れやすいだけです。それを救うのは宗教かもしれない。僕は宗教を信じていないけど、脳科学が全ての精神科の分野を食い切ってしまったら……。「疲れやすい人は神様に選ばれているのです」なんて言われたら……。僕にはよくわからない。ニーチェの読書経験や新興宗教にハマっていた父親が自分を守ってくれるのだろうか。宗教を信じていないというくだらないアイデンティティが宗教を信じられなくしている。全て疲れた。神様が首輪をつけてほしい。辛くなったら首輪を外して首を絞めてほしい。産んだなら殺すのも責任だろう。

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