閉鎖病棟日記「退院が決まり、睡眠薬もキメる」

 退院が決まった。退院に向けて動いている。ゴミがゴミ袋に収まっているというだけの部屋に帰る。気力を呼び起こすための酒と睡眠薬を使う。睡眠薬は黒とオレンジの、嘘みたいな配色をしていて、身体に悪いことを脳に伝え続けている。

 まずはパックの日本酒。最初は酷く飲みづらい酒だと思っていたのに、今ではおつまみや肴がなくても普通に飲むことができる。それからモンスターエナジー。それはカフェインの錠剤代わりだ。眠ってしまっては帰棟時間に間に合わない為、気力を呼び起こしたのに眠ってしまっては意味がない為。味も気にせず一気に飲み干す。カロリーだけは気にしてゼロカロリーの物を飲む。そのフレーバーは「六十年代のロックの空気をモチーフにした」となど宣っているが、これが六十年代の味?と思わざるを得ない。素晴らしい六十年代は、こんな味でないといいな。ビートルズもジミヘンもディランもストーンズもグレイトフル・デッドもキメてた薬物は、もっと自然で、優しいものであってほしい。その次にやっと、チューハイで睡眠薬を流し込む。この味覚を犠牲にして、焦燥という名の気力を呼び起こすちゃちな薬を飲むと脳がキーンと音を立てる。それは鉄を銀色のハンマーで叩く風景を思い起こさせる。友達の森くんが「ヴェルヴェッツのサイケはコンクリート打ちっぱなしの部屋でただダウナーに向くだけの感じなんだよ」と言ったのを思い出させる。彼は六十年代式の花と大麻と極彩色のサイケが嫌いで、ヴェルヴェッツが好き。その感覚を僕たち二人が持っているのがわかった時、二人は森の中で出会った二匹の迷子の猿たちみたいに狂喜したものだった。
 洗濯をし、物を多く片付ける。それから買ったギターを取りに行く。数個前のnoteでギターなんかやめると言ったが、やっぱり買ってしまった。かっこいい改造を思いつくとやらずにはいられないのだ。そして安ギターを眺める。「よろしく」とiPhoneのメモ帳の中のリフリスト(僕はかっこいいリフを思いつくと、脳内でこんな感じだろうとtab譜に書いて残すのだ。大体はてんで違う音が鳴るが、かっこいいことに違いはない。)に沿ってギターを弾くと、素晴らしい音がした。多分ざんぎり頭を叩いた時の音はこんな感じだろう。

 それだけのことすら薬の力を借りないとやっていられない。

 酒が足りない、と思った。コンビニまで這い、弱めのチューハイを買う。しかし、もうその頃には味覚を失い始めていて、全てが鼻水の味になっている。胃の中の炭酸を出そうとゲップをすると、そのまま吐きそうになった。助けてくれ。助かるには誠実さが必要だろう。僕は僕自身に誠実ではない。だから助からない。
 息や煙草の煙さえ、鼻水の味がして薬学について考える。薬というものは、もう少し面白くはできないのだろうか? 乱用を防ぐために全ての薬はつまらないのだろう。面白くなる為の薬をドラッグと呼ぶ。それは禁止という言葉がすぐ近くに貼られることが多く、僕は「楽しむことを禁止しないでほしい」と思う。「身体に悪いから」という理由で楽しい物を禁止できるのなら、煙草も酒も、夜中のクラブも規制できるのだろうか。禁止派の、「楽しさや幸福には偽物がある」という態度には腹が立つ。その考えを持っている人は大体『本当の』幸せを享受している。

 偽物の幸福。脳内物質によっての幸福が本当の幸福でないなら、向精神薬はすべて偽物の平穏じゃないか。偽物なら全て悪いわけではないらしい。本物の幸せを享受している人間のために世界は回っていて、我々キチガイに求められるのはいつだっておとなしくしていることだ。本当の平穏がほしいよ。僕のために、世間のために。気が狂って誰かに迷惑をかけないように、憂鬱が襲って何もできなくて誰かに迷惑をかけないように。そのためには何が必要だろう。

 持続する本当の幸福なんて、資本主義と法律の中で得られるのだろうか。偽物の幸福だってずっとは続かない。だから我々は今の幸福を楽しまなければならない。
 持続する本当の平穏は、街を歩くみんなが手にしているように感じられて怖い。閉鎖病棟では、平穏ではない人たちが沢山いて、脅かされながら安心する。

 真偽なんて本当はない。ただ、風紀が乱れるか乱れないかだけで決められている法律の中で、乱れないようにぼんやりしているしかない。
 閉鎖病棟はぼんやりできてよかった。僕が歩いていると、泣きたくなるほどやさしいおじさんが駆け寄ってきて「退院?」と言った。「十日なんですけどね。荷物置いてこようと思って」「あー、そうなんだ。俺明日から外泊だから。ありがとね」その、生まれてから一度も汚れたことがないようなおじさんを見ていると、せめて汚れを感じさせないように生きたいと思った。好意を隠すことなく伝え、常に声も出さずに笑っている。嬉しそうな顔で挨拶を会う度にしてくれる。美しくあるのは難しい。でも、こういうおじさんだって美しい。もしこういうおじさんを美しいと思わないなら、美しさになんの意味があるのだろうと思う。

 微ラリりながら文章を書いた。今の頭では理路整然としたように見えるが、気のせいだろう。今は睡眠薬は胃の中で酒に溺れ、炭酸の二酸化炭素を避けているだろう。

 そうだ、駄文。稲葉真弓の『エンドレス・ワルツ』を図書館で借りた。その本のページをチラと見た時、「これは僕がやっていることを昔にもうやっている人だ」と思った。今まで、多くの作家を僕に見た人がいるけれど、ブコウスキーには僕の弱さがなく、僕には中島らもほどストリートでもなく、僕には太宰治ほど才能がない。その中で、この本は僕だと思った。作中の彼らの薬と、僕が飲んでいるちゃちな薬は随分違うだろう。彼らの才能と僕のちゃちな才能は随分違うだろう。彼らの破滅と僕の破滅は随分違うだろう。ただ、打たれる句読点、使われる比喩が同じところから生まれてくるのがわかる。



 関係ない話をしてしまったが、明後日退院です。どこかのバーに出没しよう。その時は薬なんて必要ないような気がする。酒と薬のちゃんぽんで頭が痛い。ちゃちな酩酊より本当の幸福? そんなこと幸福な人らに言われなくても、全てのジャンキーは知ってるよ。

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