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電車の目線

都電荒川線に始めて乗った。
決して遠くはない場所で育ってきたのだけどこれまで馴染みがなかった。「東京さくらトラム」という愛称も耳慣れない。

目的地まではたったの7分間。
鉄オタでも何でもない私だけれど、この路線が好きになった。


都内に唯一残る路面電車らしい。
人一人が通れるくらいのスロープが道からつながり、そのまま駅のホームになっている。改札も券売機も見当たらず、私はそわそわと周りの人を観察した。電車を待ちながらICカードを用意する人を見て、バスと同じような仕組みなのだと理解する。私もPASMOを手元に用意し、電車を待つ。

電車の到着を知らせるアナウンスが流れ、一両だけの電車が駅に近づいてきた。前側の入り口から入り、運転席の横の機会にPASMOをタッチする。運賃は一律で大人168円。降りたい駅が近づいたら降車ボタンで知らせる。ほんとうにバスと同じ仕組みだ。
席数は少なく、座れる席はあったけれど立ったまま過ごした。スマホや本を開く気になれなくて、窓の外に目を向けた。


車や人と同じ目線で電車が進行する。遅くはないけど早くもないペースで。
窓の外では、学生たちがおしゃべりしながら歩いている。買い物袋をかごに自転車を漕ぐ女性がいる。線路のすぐ脇で車が信号待ちをしている。店の軒下からしかめっ面のおじさんが出てくる。
そういう風景たちが、電車の窓のあまりにも近くから飛び込んでくる。

そして、車や人と一緒に路面電車も動く。
青なら進め。赤なら止まれ。交通ルールに電車も従う。
周りと違うのは、電車だけは線路に沿って走っているということ。走るルートと停まる駅が決まっていて、外れることはない。だから路面電車は町の一部でありながら、ちょっと浮いた感じがする。


私が育ったのは、鉄道が地面を走る町だ。
柵に囲まれた線路の中を走る、普通の電車。四両編成の小さなローカル線だった。乗っていると町並みが同じ目線で見えるのに、踏切を待つときに見上げる車両は大きく感じる。うっかり踏切の近くで待っていたときは、轟音と風圧で飛び退いた。

今住む町には踏切がない。
電車は頭の上を走っていて、高架下には少し暗い世界がある。最寄り駅の2階ホームから発車する電車に乗ると、人の住む町が見下ろせる。
車や歩く人はそこにはっきり見えるのにどこか他人事だ。道を歩いているときには、電車が通ると「うるさいなあ」と思う程度で、いつもはそれほど気にしない。

ときどき足を伸ばす都心の方では、電車は街から姿を消す。立っている地面の下に幾層にも線路が張り巡らされているのだけれど、そう意識して歩くことはない。


当たり前のことだけれど、町が栄えれば線路に割く土地はなくなる。次第に電車は人の頭の上を通るようになり、地面の下を通るようになる。

町の中に電車があるということは、それだけ町の許容量に余裕があるということだ。土地が足りない地域では、電車の走るスペースを省いて、二層、三層に街をつくっていく。

電車が高架の上や地下を走れば、便利だとは思う。地下鉄なら騒音に悩まされることもないし、踏切待ちでイライラすることもない。時間管理のうえでも、精神衛生上も良いことが多いのかもしれない。

けれど、それって自然な姿だろうか。いや、文明ありきで生活している私たちが「自然」を求めるなんておかしいのかもしれないけれど。だけど、なぜそうまでして土地を確保したいのだろう。土地が余っている地域なんて日本の中にたくさんあるのに。


電車は町の一部だ。その中でも、路面電車は驚くほどに人との距離が近い。
そこには、線路を置いておけるだけの街の懐深さがあり、現実的な人の暮らしを感じ取れる隙がある。

毎日地べたを走る電車に乗っていた高校時代だったら、きっと「ちょっと遅い、バスみたいな電車」くらいの感想しか抱かなかっただろう。
頭の上を電車が走る町に住む今、車窓から低い目線で眺める町が新鮮だ。

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