書く人たち(ライティング・マラソンに参加して)

大前みどりさん主催の「ライティング・マラソン」に参加した。

感想はちょっと時間をおいてから上げようかなと思ったけれど、こういうのは鮮度が大事な気がしたからさっさと書くことにする。
支離滅裂かもしれないけれど、生のままの言葉ということで。


初めての参加。Zoom画面に、私を含めて4人の顔が映し出された。

noteの文章で見知っている方もいれば、まったく初めましての方もいた。
私のnoteを普段読んでくださっている方もいたので、初めて会うのに知り尽くされているような、嬉しくも恥ずかしい気分だった。

初対面の挨拶をする。本名を名乗る。「おもっち」というペンネームで呼ばれると、なんだか自分ではないような感じがする。ここで書いている文章はたしかに私自身のものなのだけれど、同時にペンネームだからこそ自意識過剰にならずに書くことができる。現実世界とnoteでの日常は、私にとっては全く違う次元の出来事なのだなあと実感した。


ライティング・マラソンでは10分、20分、30分と時間を決めて文章を書く。

自由を書いてもいいし、毎回一枚選ぶタロットカードの言葉をテーマに書いてもいい。時間になったらZoom画面に戻って、自分の文章を順に音読する。それぞれの文章についてコメントはせずに、次のターンに移る。ほかの人の文章からインスパイアされて書いてもいいし、新たに自分の書きたいことを書いてもいい、というルールだ。


あまり深く考えず、そのとき出てくる文章を書きたいと思っていたので、特に準備はせずに臨んだ。ただ、何も出てこなかったときのために、「これなら書けるかなあ」というアイデアの断片は頭の片隅にあった。

最初の10分。早速書きたいことが見つからない。テーマの「ギフト」に沿って書くかどうしようかを考える。ギフト。贈り物、神から与えられた才能。書けそうで書けなくて、結局準備していたアイデアの断片を文字にした。

アラームが鳴って、Zoomのカメラをオンにする。順番を決めて、音読をする。自分の文章の音読は、最初こそ恥ずかしさで汗がにじんだけれど、声を出すうちに落ちついて読めた。文章を声に出して人に聞かせる経験はそんなにない。文字として発信するのとは別の物が生まれる感じがした。

他の方々の文章は、情景がありありと浮かんでくる人もいたし、「いつもnoteで読んでいる感じの文章だ」と妙に感動してしまったりもした。人の文章を音で受け止めることも、日常的な経験ではない。読むのと聞くの、どちらの方がインプットしやすいんだろうか、などと思考が脇道に逸れて、一部分を聞き逃してしまったりもした(ごめんなさい)。


うまい文章、つたない文章というのはあっても、その文章はその人にしか書けないものだ。だからほかの人の文章を読んで(聞いて)、「すごいなあ」とは思っても劣等感はなかった。


最初のターンで気持ちが落ち着いた私は、20分、30分とそれぞれ独立した文章を書いた。自由に書いていい、というルールだから、全部の時間を使って一つの文章を書いてもいい。私はいろんなテーマ、いろんな書き方を試せたらいいなと思っていたから、まったくリンクしない別々のものを書くという気持ちは自然にあった。

私は書くのがあまり早くない。とめどなく言葉が溢れて、指が頭に追いつかないという経験は、過去に数度しかない。今日のライティング・マラソンで書いたものも普段のnoteも、考え考え、直し直し書いている。一文書いては「このテーマでいいのかなあ」と考え、消してまったく新しい文章を書き始め、テーマを定めて書き進めながらも、一文の長さや話のつながり、整合性が気になって途中で何度も考え込む。

そんな一進一退を繰り返しながら、何とか一つのまとまりを仕上げる。自分の書いたものを読んでいると、いかにも「頭で考えた」という感じがするなあと思う。いつも思っているし、音読をしても思った。

自分の文章に「うーん」と思うことが多くても、マラソンはどんどん進んでいく。もやもやを抱えたまま走り続けるのは気持ちよくはないけれど、負荷は負荷として大事にしようと思った。書いたものを聞いてもらえて、良いとも悪いとも言わずにただ受け止めてもらえたからか、自分を否定する方向へは思考が向かなかった。


予定されていた3本に加えて、時間が余ったので15分で4本目を書く。

ネタ切れで困ったという感じはあまりなくて、どういう文章を試そうかなと頭の中の新しい引き出しを探る感覚だった。

10分、20分、30分、15分と、4本の文章が完成した。最初の2本は不慣れさと緊張が混じっていたので、もう少し書きたかったなあという気持ちもよぎった。


「書く」ことでつながった人たちとのフリートークの時間も楽しかった。

いつもどのように書くことを決めているのか。書いた文章を読み返すか。自分の文章がパターン化してしまうことについて。などなど。

自分の書いたものがどれも似通ったものになってしまうことは最近の悩みなのだけれど、「同じことを書こうと思ってもまったく同じものにはならない」とある方が話していて、なるほどなと思った。


「書く」営みを日常的にしている人たちとの会話が新鮮だった。
日常的に付き合っている友人のなかにも文章を書いている人はいるのかもしれないけれど、「書く」ことについて語り合える友人を私は持たない。

書いているときは一人だし、文章はあくまで私個人の内にあるもので、そのことについて誰かと語ることはない。自分の文章に評価(わかりやすく言えば「スキ」の数)がつくことはあっても、フラットな関係で話をしたのは初めてだった。


Zoomの画面を切って、買い物を兼ねた散歩に出た。

国道沿いを歩く。小さな工場で火花を出しながら何かを加工しているおじちゃんがいる。半袖短パンで大股に歩き去っていくお兄さんがいる。腰が曲がったおばあさんが杖をついて歩いている。

スーパーの野菜売り場でおばちゃんに話しかけられた。「きゅうり一本だといくらなのかしら?」。倒れていた値札を起こして「69円みたいですね」。「高いわね」「そうですね」みたいな会話を交わす。

世界はいつも通りで、私もいつも通りだ。
何かが劇的に変わることはないかもしれないけれど、書く営みは続けていきたいと思った。


新鮮で面白い時間でした。
初めての私を受け入れてくださり、ありがとうございました。


以下、30分(3本目)の文章を少し直したものを載せておきます。

*****

 自由に書くのは難しい。noteの投稿画面を開く。真っ白な画面に、「記事タイトル」と「自由にお書きください」とかいう薄い文字が現れる。毎朝この画面を見るたびに、「どうしよう」と途方に暮れるような、困り果てたような気持ちになる。

 3か月くらい続けていても、焦りのような絶望感のような、ひやっとする感覚が消えることはない。それでも今日書ける内容も分量も、私から出てくるものはある程度決まっているし、早く書きあげて仕事に行かなければいけないからとにかく書く。前から書こうと思っていたことを書くこともあるし、書くことがなくてむりやり絞り出したものを書くこともある。

 こういう言い方をすると嫌々やっているように思われてしまうかもしれないけれど、文章にするのは面白い。書いているうちに思いもよらない方向に行くことがあったり、断片的に思っていたことと少し違った意味付けを見つけたり。たいていは時間切れで、大して校正もできないまま「なんだかなー」と思いつつ投稿ボタンを押す。だけど時間をかけたらいい文章を書ける訳でもないと思っているから、諦めとともに手放す開放感もある。


 みどりさんが「文章を見られるのは脱ぐような感覚」と言っていたけれど、すごく納得した。表現方法で見え方の違いはあるにせよ、文章は良くも悪くも私の内面を映し出す。

 「文章」でのみ知り合っている人と会うのは初めてのことで、はじまる前の緊張感はあるようでなかった。顔を合わせて初めて緊張した。私の場合は、「知っている人に文章を見られる」方が「文章でだけ知っている人と会う」よりも恥ずかしい。だからリアルな友人に文章を見せたことはほとんどない。この文章、友だちに見られたら恥ずかしいなあ。と思うことは日常的にある。けれど「文章を知っている人同士で顔を合わせる」ことについてはあまり考えたことがなかった気がする。

ネットの世界は自分を隠せて、私は「おもっち」という着ぐるみを着て毎日文章を人の目に曝している。だからこそ、焦って書いて自信のない文章でも、無責任に投稿することができる。それはプライバシーが守られた空間だからこそだと思う。


 自由に書いてもいいし、テーマに沿って書いてもいい。私の書いたものを聞く相手は、良く知っているようで全然知らない人たちだ。責任が伴うような伴わないような、不思議な空間に戸惑っているうちに3本目の時間もおわりに近づいている。

 「深い悲しみ」というテーマで、三浦春馬さんの死とALS患者の安楽死のことが浮かんだ。ウーマンラッシュアワーの村本さんのnoteで、どうして命の価値を見も知らない人がはかるのかということを言っていてなるほどなあと思ったからだ。けれどこのことについて書くのは私自身の言葉にならない気がしてやめた。私は多分、まだ「深い悲しみ」について実感の伴った言葉を吐くことはできない。

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