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永代囲碁塾
2018年5月29日 00:31
院生手合開始その後院生手合開始から、半年ほどが経った。院生の成績はDクラスの真ん中くらいまできていたが、そこから伸び悩んでいた。それもそのはず「遊び虫」が本領を発揮して囲碁の勉強はほとんどしていなかったからだ。 学校→放課後は友達と遊ぶ→夕食→卓球→お風呂→テレビ→詰碁が睡眠薬→ご就寝(詰碁開始から10分かからない)平日は大体がこんな感じだった。さらに意識が低い永代少年はとんでも
2018年5月25日 00:58
院生手合いが開始永代少年が院生に入ったときは総勢で55人くらいだったと思う。A〜Cで各12人。Dクラスが20人くらいだった。最初の順位は覚えてないが、しばらくはビリかビリ2を争っていたと思う。某大棋士の娘さんと争っていた。その頃、ライバルMはDクラスでは上位陣にいた。Mとは打っても勝てない。おかしいとは思うが、やっぱり勝てない。うーん、おかしいなぁという感じ。3ヶ月くらいは
2018年5月18日 17:13
院生入学式での再会院生手合いのほうもスタートする。院生には入学式のようなきちんとしたものはなかったが、新入生には名前の紹介をもって入学式とするようだ。ここで驚きの再会をすることになる。ーーーー同じ新入生に、小学校四、五年と長崎県大会の決勝を争ったMがいたのだ。全く聞いていなかったので「何でいるのか?」と尋ねたところ、Mから逆に「お前こそ何でいるんだ」と返されたくらいである。これ
2018年5月17日 01:40
六年生・一学期の始業式春休みも終わり、小学校も六年生の一学期が始まった。長崎県島原市の小学校から、千葉の幕張西小学校への転校である。幕張西小学校ではなぜか始業式の体育館で転入生が前に出て一言だけ挨拶することになっていた。5、6人くらいいただろうか。下級生から順に挨拶をして、最後に永代少年の番がやってきた。さすがに少し緊張していたのを覚えている。「ながよかずもりです。よろしくおねが
2018年5月16日 01:01
東京の叔父さん長崎空港から一人で飛び立ち、羽田空港に到着。羽田空港まで迎えにきてくれたのは東京に住んでいる叔父さんだった。小学生の少年少女全国大会で毎年、東京に来ていたがその時はいつも叔父さんの家に泊まらせてもらっていた。学校の先生をしている叔父さん夫婦は優しいながらも厳しさを持ち合わせていた。好き嫌いの多い自分が、強制的にピーマンを食べさせられる「ピーマン地獄」と名付けた生活は懐
2018年5月13日 14:13
人生の岐路(小学5年生の冬休み前)父親が勝手に日本棋院東京本院の院生試験を申し込んだのだ。そして、申し込んだあとで父親「院生というプロ棋士を目指すところに試験を申し込んだけど、受けるか?受かると千葉の院生寮に入ることになるけど。」永代少年「いいよ。」今でもこのやりとりをはっきりと覚えている。今、考えてみると「いいよ」とは何とも偉そうだし・・・。しかも、院生試験を合格する前提な
2018年5月12日 11:50
囲碁を覚えてから、長崎でどのように囲碁をやっていたかを簡単に紹介する。(小学1年生から小学5年生まで)1983年 長崎県島原市生まれ「最初の師匠」 小学1年生の夏休み三歳上の兄と一緒に本格的に囲碁を始める。父親に連れられて、近所のおじさんの家に毎日のように通い(お菓子につられて)、夏休みが終わるころには4級程度に。小学1年の終わりごろには初段になった。(父親は当時、三段程度)