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塾長のつぶやき

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永代囲碁塾 塾長の永代和盛が率直な感想を、本音で書いています。
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2018年5月の記事一覧

永代和盛の囲碁人生 Ver.7 (運動会)

永代和盛の囲碁人生 Ver.7 (運動会)

院生手合開始その後

院生手合開始から、半年ほどが経った。
院生の成績はDクラスの真ん中くらいまできていたが、そこから伸び悩んでいた。
それもそのはず「遊び虫」が本領を発揮して囲碁の勉強はほとんどしていなかったからだ。

学校→放課後は友達と遊ぶ→夕食→卓球→お風呂→テレビ→詰碁が睡眠薬→ご就寝(詰碁開始から10分かからない)

平日は大体がこんな感じだった。
さらに意識が低い永代少年はとんでも

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永代和盛の囲碁人生 Ver.6(院生手合開始)

永代和盛の囲碁人生 Ver.6(院生手合開始)

院生手合いが開始

永代少年が院生に入ったときは総勢で55人くらいだったと思う。
A〜Cで各12人。Dクラスが20人くらいだった。
最初の順位は覚えてないが、しばらくはビリかビリ2を争っていたと思う。
某大棋士の娘さんと争っていた。

その頃、ライバルMはDクラスでは上位陣にいた。
Mとは打っても勝てない。
おかしいとは思うが、やっぱり勝てない。
うーん、おかしいなぁという感じ。

3ヶ月くらいは

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永代和盛の囲碁人生 Ver.5(院生入学式&思い出話)

永代和盛の囲碁人生 Ver.5(院生入学式&思い出話)

院生入学式での再会

院生手合いのほうもスタートする。
院生には入学式のようなきちんとしたものはなかったが、新入生には名前の紹介をもって入学式とするようだ。

ここで驚きの再会をすることになる。

ーーーー同じ新入生に、小学校四、五年と長崎県大会の決勝を争ったMがいたのだ。
全く聞いていなかったので「何でいるのか?」と尋ねたところ、Mから逆に「お前こそ何でいるんだ」と返されたくらいである。

これ

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永代和盛の囲碁人生 Ver.4(転校・小学校の始業式)

永代和盛の囲碁人生 Ver.4(転校・小学校の始業式)

六年生・一学期の始業式

春休みも終わり、小学校も六年生の一学期が始まった。長崎県島原市の小学校から、千葉の幕張西小学校への転校である。

幕張西小学校ではなぜか始業式の体育館で転入生が前に出て一言だけ挨拶することになっていた。

5、6人くらいいただろうか。
下級生から順に挨拶をして、最後に永代少年の番がやってきた。さすがに少し緊張していたのを覚えている。

「ながよかずもりです。よろしくおねが

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永代和盛の囲碁人生 Ver.3(院生寮へ入寮直後)

永代和盛の囲碁人生 Ver.3(院生寮へ入寮直後)

東京の叔父さん

長崎空港から一人で飛び立ち、羽田空港に到着。
羽田空港まで迎えにきてくれたのは東京に住んでいる叔父さんだった。
小学生の少年少女全国大会で毎年、東京に来ていたがその時はいつも叔父さんの家に泊まらせてもらっていた。

学校の先生をしている叔父さん夫婦は優しいながらも厳しさを持ち合わせていた。

好き嫌いの多い自分が、強制的にピーマンを食べさせられる「ピーマン地獄」と名付けた生活は懐

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永代和盛の囲碁人生 Ver.2 (院生試験編)

永代和盛の囲碁人生 Ver.2 (院生試験編)

人生の岐路(小学5年生の冬休み前)

父親が勝手に日本棋院東京本院の院生試験を申し込んだのだ。
そして、申し込んだあとで
父親「院生というプロ棋士を目指すところに試験を申し込んだけど、受けるか?受かると千葉の院生寮に入ることになるけど。」

永代少年「いいよ。」

今でもこのやりとりをはっきりと覚えている。

今、考えてみると「いいよ」とは何とも偉そうだし・・・。
しかも、院生試験を合格する前提な

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永代和盛の囲碁人生 Ver.1(長崎編)

永代和盛の囲碁人生 Ver.1(長崎編)

囲碁を覚えてから、長崎でどのように囲碁をやっていたかを簡単に紹介する。(小学1年生から小学5年生まで)

1983年 長崎県島原市生まれ

「最初の師匠」 小学1年生の夏休み

三歳上の兄と一緒に本格的に囲碁を始める。
父親に連れられて、近所のおじさんの家に毎日のように通い(お菓子につられて)、夏休みが終わるころには4級程度に。
小学1年の終わりごろには初段になった。
(父親は当時、三段程度)

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